藤原定子 ふじわらのていし 貞元一〜長保二(976-1000) 通称:一条院皇后宮

中関白道隆の長女。母は高階茂忠女、貴子(儀同三司母)。同母兄に伊周・隆家がいる。脩子内親王・敦康親王ほかの母。
正暦元年(990)、十五歳のとき、一条天皇の元服に際し入内。同年、中宮に立てられる。まもなく定子の元には清少納言が出仕した。長徳元年(995)父が薨去し、翌年兄伊周・隆家が左遷されるに及び中関白家は没落を決定づけられた。定子は落飾したが、再度の入内を催促され、長徳四年、第一皇子敦康親王を出産。しかし翌年の長保元年(999)十一月、道長の娘彰子が入内して翌年三月中宮となり、以後定子は皇后宮と称された。長保二年十二月十五日夜、皇女を出産後、崩御。二十五歳。鳥辺野に土葬された。
後拾遺集初出。勅撰入集八首。

一条院御時、皇后宮に清少納言初めて侍りけるころ、三月ばかりに二三日まかり出でて侍りけるに、かの宮よりつかはされて侍りける

いかにして過ぎにしかたを過ぐしけむ暮らしわづらふ昨日今日かな(千載966)

【通釈】どうやって過ぎ去った日々をやり過ごしてきたのでしょう。日暮まで時間を過ごすのに苦労する昨日今日ですことよ。

【補記】里帰りした清少納言に贈った歌。清少納言の返しは、「雲の上も暮らしかねける春の日をところがらともながめつるかな」。枕草子「三月ばかり物忌しにとて」の章段参照。

一条院御時、皇后宮かくれたまひてのち、帳の帷(かたびら)の紐に結びつけられたる文を見つけたりければ、内にもご覧ぜさせよとおぼし顔に、歌三つ書き付けられたりける中に(三首)

夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき(後拾遺536)

【通釈】一晩中契(ちぎ)りを交わしたことをお忘れでないなら、私の死んだ後、あなたが恋しがって流す涙の色がどんなでしょう。それが知りたいのです。

【語釈】◇契(ちぎ)りしこと 言い交わしたこと。夫婦の交わりをしたこと。

【補記】後拾遺集巻十一、哀傷部の巻頭歌。この歌以下三首は、『栄花物語』に定子辞世の歌として伝わるもの。崩御の後、御帳の紐に結びつけられていたのが発見されたと言う。

【他出】栄花物語、今昔物語、宝物集、古来風躰抄、無名草子、定家八代抄、百人秀歌、十訓抄、悦目抄、発心集、世継物語

 

知る人もなき別れ路に今はとて心ぼそくも急ぎたつかな(後拾遺537)

【通釈】誰一人知る人もいない死出の別れ路に、今はもうその時と、心細いままで急ぎ発つのですねえ。

【他出】栄花物語、今昔物語、無名草子

 

煙とも雲ともならぬ身なれども草葉の露をそれとながめよ(後拾遺異本)

【通釈】火葬はされないので煙とも雲ともならない我が身ですけれども、草葉の露を我が化身と思って眺めて下さい。

【補記】生前の希望により、定子は鳥辺野に土葬された。静嘉堂文庫蔵甘露寺経元筆本など後拾遺集異本では新編国歌大観番号537番の歌の次に載る。なお『栄花物語』では第三句「身なりとも」とする。

【他出】栄花物語、秋風集


更新日:平成17年01月03日
最終更新日:平成22年08月15日