藤原為頼 ふじわらのためより 生年未詳〜長徳四(-998)

兼輔の孫。雅正の子。母は右大臣定方女。紫式部の伯父にあたる。
皇太子師貞親王(即位して花山天皇)に春宮少進・春宮権大進として仕え、親王が即位した寛和元年(985)、正五位下に叙される。同二年、さらに従四位下に昇叙。しかし同年、花山天皇は藤原氏の策略により退位し、以後は昇進の機会に恵まれなかった。左衛門権佐・丹波守・摂津守などを経て、太皇太后宮大進に至る。
貞元二年(977)の三条左大臣(頼忠)家歌合に出詠。具平親王藤原公任藤原長能らと親交があった。家集『為頼集』がある。拾遺集初出。勅撰入集十一首。

扇の歌よみ侍りけるに

おほかたの秋来るからに身にちかくならす扇の風ぞかはれる(後拾遺237)

【通釈】全体に行き渡っての秋の訪れと共に、身近に置いて使い慣れた扇の風が以前とは違って感じられる。

【語釈】◇おほかたの秋 ひとしなみに訪れる秋。◇身にちかくならす (夏の間)身近に置いて使い慣れた。

【補記】結句「風ぞすずしき」とする本もあるが、余情ある「風ぞかはれる」の方を採った。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
おほかたの秋くるからにわが身こそかなしき物と思ひしりぬれ

【主な派生歌】
手もたゆくならす扇のおきどころ忘るばかりに秋風ぞ吹く(*相模[新古今])
うたたねの朝けの袖にかはるなりならす扇の秋のはつ風(*式子内親王[新古今])
身に近くならす扇も楢の葉の下吹く風に行方しらずも(藤原家隆)
手にならす扇の風も忘られて閨もる月の影ぞ涼しき(*藻壁門院但馬[続拾遺])
いつしかとならす扇を荻の葉にやがて涼しき秋の初風(藤原基家[新後撰])

廉義公家にて、草むらの夜の虫といふ題をよみ侍りける

おぼつかないづこなるらむ虫のねをたづねば草の露やみだれむ(拾遺178)

【通釈】どこで鳴いているのか、はっきりしない。虫の音のありかを求めて草叢に入れば、せっかく葉に置いた風情のある露が乱れ散ってしまうだろうか。

【語釈】◇廉義公 藤原頼忠。◇おぼつかな はっきりしないことを訝しむ語。

【他出】為頼集、古来風躰抄、定家八代抄

【主な派生歌】
たづぬれば花の露のみこぼれつつ野風にたぐふ松虫の声(藤原定家)
末遠き野寺の月に鐘の声尋ねば草の露のふる道(正徹)

昔見侍りし人々、おほく亡くなりたることを嘆くを見侍りて

世の中にあらましかばと思ふ人なきが多くもなりにけるかな(拾遺1299)

【通釈】生きていてくれたら良かったのにと思う人で、既にこの世に亡い人が多くなってしまったものだ。

【補記】『栄花物語』によれば、長徳元年(995)の疫病流行で多くの人が亡くなったことをはかなく思って詠んだ歌。これに返した小大君の歌「あるはなきなきは数そふ世の中にあはれいつまであらむとすらむ」も名高い。(但し拾遺集では藤原公任の返歌「常ならぬ世は憂き身こそ悲しけれその数にだにいらじと思へば」を載せている。)

【他出】拾遺抄、和漢朗詠集、後十五番歌合、玄々集、為頼集、公任集、栄花物語、定家八代抄

【主な派生歌】
我もいつぞあらましかばと見し人を忍ぶとすればいとどそひ行く(*慈円[新古今])
見し人もなきが数そふ露の世にあらましかばの秋の夕暮(*藤原俊成女[続後撰])
たらちねのあらましかばと思ふにぞ身のためまでもねは泣かれける(藤原光俊[続古今])
見し人のなきがうちには数ふともあらましかばと誰かしのばん(長舜[新千載])
親しきは亡きがあまたになりぬれど惜しとは君を思ひけるかな(香川景樹)
思ふ人なきが多くの年をへて今はた濡らす袖や何なり(加納諸平)

人のかめに酒いれて、さかづきにそへて歌よみて出だし侍りけるに

もちながら千世をめぐらむさかづきの清き光はさしもかけなむ(拾遺1153)

【通釈】月は満月のまま千年も大空を巡り、清い光を射しかけることでしょう。お酒は手から手へ、一座の間をいつまでも巡り、盃を差し向けるでしょう。

【語釈】◇もちながら 「望(もち)ながら」「持ちながら」の掛詞。◇千世をめぐらむ 盃が一座の者の間を巡る意に、月が大空をめぐる意を掛ける。

【主な派生歌】
めづらしき光さし添ふ盃はもちながらこそ千世をめぐらめ(*紫式部[後拾遺])
今夜より万代めぐれもちながら光さしそふ秋のさかづき(藤原為家)
菊の上にけさおく露をもちながら千世もめぐらん花のさかづき(三条西公条)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日