大神高市麻呂 おおみわのたけちまろ 生年未詳〜慶雲三(706)

天武一年(672)六月、壬申の乱勃発の際、吉野方の将軍大伴吹負に帰属し、功を挙げる。朱鳥六年(686)、天武天皇の殯宮で誄(しのひごと)を述べる。持統六年(692)三月、農繁期における伊勢行幸につき天皇に諌言するが、天皇は従わず、高市麻呂は中納言を辞職した(ただし、補任によれば高市麻呂の廃中納言は大宝元年三月)。大宝二年(702)一月、長門守に任ぜられる。この時、三輪川の辺に集宴しての歌がある(万葉集9-1770・1771)。大宝三年(703)六月、左京大夫。慶雲三年(706)二月六日、卒去。時に左京大夫従四位上。贈従三位。『懐風藻』に詩一首がある。

 

白雲のたなびく山は見れど飽かぬかも (たづ)ならば朝飛び越えて夕へ()ましを(歌経標式)

【通釈】雲が水平に長くかかっている山は、いくら見ても見飽きないことよ。私が鶴であったなら、朝あの山を飛び越え、夕暮にはまたここへ帰って来て、眺めようものを。

【補記】旅先での詠であろう。宝亀三年(772)に藤原浜成が撰した歌学書『歌経標式』に見える歌で、歌体の一つ「雑体」十種のうち「双本」の例歌として挙げられている。「双本」とは三句を繰り返して六句からなる歌で、旋頭歌に当たる。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月17日