高安王 たかやすのおおきみ 生年未詳〜742(天平14) 略伝

父母等は未詳。『新撰姓氏録』によれば敏達天皇の孫である百済王の後裔。『皇胤紹運録』は長皇子の孫で川内王の子とするが、疑わしい(詳しくは略伝参照)。弟に門部王桜井王、子に高田女王がいる。一説に大原今城の父とするが、確かな根拠はない。
和銅六年(713)正月、無位より従五位下に叙せられる。養老三年(719)七月、伊予守として阿波・讃岐・土佐三国の按察使を兼ねる。これ以前に紀皇女(天武天皇の皇女。但し多紀皇女の誤りとみる説もある)と密通し、伊予国守に左降されたらしいことが万葉集に見える(12-3098)。養老五年正月、正五位下。以後も順調に昇進し、神亀四年(727)正月、従四位下に至る。天平四年(732)十月、衛門督に任ぜられる。同九年九月、従四位上。同十一年四月、請願が許されて大原真人の姓を賜わる。弟の門部王・桜井王、および親族と思われる今城王もこれ以降大原氏をなのる。天平十二年、関東行幸に従駕し、鈴鹿郡赤坂頓宮で正四位下に昇叙される。恭仁京遷都後の天平十四年(742)十二月十九日、卒す。この時も正四位下とある。万葉集に三首。

高安王、(つつ)める(ふな)娘子(をとめ)に贈る歌一首

沖辺ゆき辺をゆき今や妹がため我が(すなど)れる藻臥(もふし)束鮒(つかふな)(万4-0625)

【通釈】沖の方へ漕ぎ、浜辺の方へ漕ぎして、やっとあなたのために取って来た、藻の中に潜んでいる小さな鮒なのですよ。

【補記】「藻臥束鮒」は、藻に潜んでいる、手一束ねばかりの鮒という(契沖説)。「上二句の大げさな表現に対し、下の鮒が一握りほどに小さい点が興をそそる」(萬葉集釋注)。

高安の歌一首

(いとま)なみ五月(さつき)をすらに我妹子(わぎもこ)が花橘を見ずか過ぎなむ(万8-1504)

【通釈】暇がないので、五月ですら、あの子の家の花橘を見ずに過ごしてしまうのだろうか。

【補記】五月は橘の花が咲く頃。

古歌一首 大原高安真人作

妹が家に伊久里(いくり)の杜の藤の花今来む春も常かくし見む(万17-3952)

右の一首、伝へ()むは僧玄勝なり

【通釈】妻の家に「行く」という名の伊久里の森の藤の花よ、またやって来る春にも、いつもこのように賞美しつつ見よう。

【補記】天平十八年(746)八月、越中守大伴家持の館の宴で、僧玄勝が伝誦した歌。「妹が家に」は「行く」から地名「伊久里」に掛ける枕詞的な修飾語。伊久里は一説に富山県砺波郡井栗谷付近(奈良県内や新潟県三条市井栗とする説もある)。越中砺波郡には門部王や大原真人麿の墾田があったことが知られ(米沢康)、大原真人氏と縁の深い土地であったらしい。


最終更新日:平成15年09月22日