藤原高子 ふじわらのたかいこ 承和九〜延喜一〇(842-910) 通称:二条の后

仁明朝の名臣と慕われた権中納言長良(ながら)の息女。母は藤原総継女、乙春。摂政太政大臣良房の姪。関白太政大臣基経の同母妹。貞明親王(陽成天皇)・貞保親王・敦子内親王の母。系図
貞観元年(859)十一月、清和天皇即位に伴う大嘗祭において五節舞姫をつとめ、これにより従五位下に叙せられる。貞観八年(866)、二十五歳の時、九歳年下の清和天皇の女御となる。二年後、第一皇子貞明親王を出産。貞明親王は貞観十一年(869)、二歳で立太子し、同十八年、清和天皇の退位を受けて践祚。元慶元年(877)、即位した(陽成天皇)。これに伴い高子は皇太夫人となり、清和上皇・摂政基経と共に幼帝を輔佐した。しかし清和上皇が崩御すると基経と対立し、同七年、陽成は退位に追い込まれた。光孝天皇が即位し、高子は皇太后となるが、この頃内裏を離れて二条院に移った。寛平三年(891)、五十賀の宴では藤原興風が屏風歌を奉る。同八年、自ら建立した東光寺の座主善祐との密通を理由に皇太后を廃されるが、死後の天慶六年(943)、号を復された。
陽成天皇が東宮であった頃、在原業平文屋康秀素性法師などを召して歌を詠ませている。『伊勢物語』によって流布された業平との恋物語は名高い。勅撰入集は古今集の一首のみ。

二条の后の春のはじめの御歌

雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙いまやとくらむ(古今4)

【通釈】まだ雪の残っているうちに春はやって来たのだなあ。谷間に籠っている鶯の氷った涙も今頃は融けているだろうか。

【補記】詞書の「二条の后」は高子の通称。古今集編纂当時高子は后位を剥奪されていたので、この詞書を不審とする向きもある。「こほれる涙」につき契沖は「鶯に涙あるにもあらず、こほるべきにもあらねど、啼く物なれば涙といひ涙あればこほるといふは歌の習也」と言っている(古今余材抄)。

【他出】新撰和歌、古今和歌六帖、和歌体十種(比興体)、俊頼髄脳、新撰朗詠集、奥義抄、和歌一字抄、和歌童蒙抄、袋草紙、和歌十体(比興体)、和歌色葉、古来風躰抄、定家八代抄

【主な派生歌】
榊葉にふるしら雪はきえぬめり神の心も今やとくらむ(藤原伊房[後拾遺])
春来ぬとけさ告げ渡る鶯は涙の氷まづやとけぬる(俊恵)
年暮れし涙のつららとけにけり苔の袖にも春やたつらむ(*藤原俊成[新古今])
鶯のこほれる涙とけぬれば花の上にや露とおくらむ(二条院讃岐)
鶯の涙の氷いつとけて今朝は雪まの梅のはつ花(藤原家隆)
鶯の氷れる涙とけぬれどなほ我が袖はむすぼほれつつ(藤原良経)
鶯の涙のつららうちとけて古巣ながらや春をしるらむ(*惟明親王[新古今])
春きぬと涙ばかりやとけぬらむ谷の雪まをいづる鶯(藤原為家)
鶯のなみだの雨も紅に落ちそふ梅の花のした露(正徹)
ときやらで涙の滝もつららゐぬ身を鶯の春の山かぜ(〃)
恋ひ恋ひてまた一とせも暮れにけり涙の氷あすやとけなむ(祇園梶子)
河上の浅篠原の葉ごもりに鶯なくや氷とくらむ(香川景樹)


最終更新日:平成15年10月26日