木下幸文 きのしたたかふみ 安永八〜文政四(1779-1821) 号:亮々舎(さやさやのや)・朝三亭など

備中国浅口郡長尾村(平成十九年現在で言えば岡山県倉敷市の一部にあたる)の農家に生まれる。父は八郎右衛門。初名は義質。通称は民蔵。
少年の頃上洛し、二条派の流れを汲む澄月、次いで慈延に就いて和歌を学ぶ。その後、香川景樹の歌に心服し、二十八歳になる文化三年(1806)、当時三十九歳であった景樹に入門する。同じ頃洛外岡崎の景樹邸の近くに移り住み、筆耕を業とした。やがて桂園派に重きをなし、熊谷直好と並称されるが、師の景樹とは衝突することも多かったという。文政二年(1819)、景樹のもとを離れて難波に移住、自邸を亮々舎(さやさやのや)と号し、和歌の師匠として生計を立てた。同四年十一月二日、難波に没す。享年四十三。
家集は門弟が編纂して弘化四年(1847)頃に刊行された『亮々遺稿(さやさやいこう)』がある(和文和歌集下・校註国歌大系十八・新編国歌大観九などに所収)。著書は他に随筆『亮々草紙』。
 
以下には『亮々遺稿』より二十五首を抜萃した。

  7首  3首  5首  1首  9首 計25首

氷解

山かげの氷や今朝はとけぬらん久しく聞かぬ水の音する

【通釈】山陰の氷が今朝は解けたのだろう。久しく聞かなかった水の音がしている。

【補記】「山かげ」は自宅の裏山などの山陰を思えばよい。そこの氷が解けて、水のしたたる音、あるいは流れ出す音がする。それは冬の間久しく絶えていた音であった。…氷が解けて春の訪れを知る、あるいは春風の温さに山里の氷解を想像するといった趣向は古歌にありふれたものであるが、掲出歌は平生の実感に即するとともに、ただ「水の音」と言うに留めたため想像の余地が残る。平凡であることと清新であることが矛盾せずに成り立ち、しかも余情ある歌となっている。作者の拓いた、かつてない歌の境地である。

ものへ行きける道にて

玉ぼこの道にちりしく花を見てあふげば梅の木蔭なりけり

【通釈】道に散り敷いている花びらを見て、仰げばそこは梅の木陰なのだった。

【語釈】◇玉ぼこの 「道」の枕詞

【補記】梅の木は花が散った後もしばらく葉を出さないので、冬枯れに戻ってしまったかのように淋しい。そんなことを考えずとも、小沢蘆庵が提唱した「ただこと歌」の味わいを持つ歌であるが、この人の歌にある独特の空白感がしんみりとした余情を醸し出すことも確かである。

河辺柳

遠く行く人をおくりてやすらへば堤の柳うちかすみつつ

【通釈】遠くへ旅立ってゆく人を見送って佇んでいると、堤に生えている柳の木が霞んで見えなくなって…。

【語釈】◇やすらへば 人を見送ってのち、そのままその場に佇んでいると。「やすらふ」はここでは「足を止めている」「その場に留まっている」意で、「休息する」といった意味合いはない。

【補記】土手の道を遠ざかってゆく人。その人の後ろ姿は言わず、「堤の柳」が春霞に霞んでゆくさまを言って余情を含める。涙で霞むと解することもできるが、あまり感傷的に解釈してしまうと、この歌の品をけがすことになろう。

初花

いつしかと待ちし桜の花なれど咲きぬる見ればおどろかれけり

【通釈】いつ咲くかと待望していた桜の花だけれども、いよいよ咲いたのを見ると驚いてしまった。

【補記】日常の平懐に徹することで、かえって清新な着想を生み出す結果になっている。一見平凡だが、当時の新しい歌であり、今読む我々にも一定の鮮度を保っている。幸文の桜花詠では「蝙蝠(かはほり)の飛びかふ影もしづまりて月になりゆく花の上かな」「松の色はとく暮れはてて嵐山桜ばかりぞおぼろなりける」などが世評高いものであったが、いずれも作者の特色は出ていないし、とっくに賞味期限は切れている。

雨中花

鶯もけふは来鳴かで春雨の雫ぞ花の枝つたひたる

【通釈】鶯も今日は来て鳴かず、春雨の雫が桜の枝を伝ってゆく。

【補記】毎日のように桜の木で鳴いていた鶯も、雨の日はやって来ない。もし来れば、せわしなく枝移りをする鳥なので、花を濡らす雨の雫を散らすだろう。ところが今、雫は枝をつたうように静かに流れている。…鶯の声を聞けない春の日の無聊の心を、こまやかな観察によって捉えている。

夕菫菜

つみすてて帰らんとする春の野のすみれの花に夕日さすなり

スミレ 写真素材 [フォトライブラリー] (フリー素材)
菫の花

【通釈】菫の花を摘み捨てて、立ち去ろうとする春の野――残してゆく花に夕日が射している。

【補記】「摘み捨てて」とは、花を採んだだけで持ち帰らないことを言う。すみれの花は摘み取るとすぐに萎れてしまう。古人はこれを、花の精気が摘み取った人の魂に移るものと考えた。現代人の感覚からは残忍なようであるが、すみれ摘みにおいては「摘み捨て」が恒例だったのである。

暮春

春の色すみれにのみぞ残りける片山畑の麦の中道

【通釈】春が暮れ、日も暮れて、もはや春めいた色は菫の花に残っているばかりだ。片山の麦畑の中をゆく道で――。

【語釈】◇片山畑(かたやまばた) 「片山」は山並をなさず、野中にぽつんと立っている小山。その山の斜面を耕した麦畑である。

【補記】右も左も、はや夏を思わせる青々とした麦畑。その中で、路傍に咲く菫の濃い紫色に春のなごりを見た。

首夏川

ここかしこ岸根のいばら花咲きて夏になりぬる川ぞひの道

野茨 写真素材フォトライブラリー http://www.photolibrary.jp/
いばらの花

【通釈】ここかしこ、岸辺の野茨の花が咲いて、すっかり夏の景色になった川沿いの道よ。

【語釈】◇いばら 茨。野生の薔薇。写真はバラ科のノイバラ。晩春から初夏にかけて白い花を咲かせる。

【補記】題の「首夏」は初夏に同じ。平生歩き慣れた道に夏が訪れた感懐がごく自然に、しみじみとした感じで歌われている。幸文の歌の中ではよく知られた一首。

夏草

(しづ)()が刈りつかねたる夏ぐさの中にまじれる月草の花

露草 鎌倉市二階堂にて
月草(露草)の花

【通釈】農夫が刈り取って束ねた夏草の中に混じっている露草の花よ。

【語釈】◇月草 露草の古称。初夏から秋にかけて、青い小花を咲かせる。直径2〜3cmの小さな花は、早朝咲いて午後には萎んでしまう。

【補記】染色に用いられた月草の花は、その色のはかなさを詠むのが旧来の和歌の常套であった。ところが掲出歌は、雑草の一つとして刈られてしまったその花が、他の夏草にまじっている様にあわれな美を見出している。

【主な派生歌】
なでしこの花もまじれる夏草をおしまろめても荷ふ里人(大隈言道)

我が宿のむぐらが下のわすれ水よるは蛍のたづねてぞくる

【通釈】我が家の庭に繁っている雑草――その下に、人から忘れられたようにひっそり流れている水がある。それを求めて、夜には蛍が訪ねて来るのだ。

【語釈】◇わすれ水 忘れられたように、絶え絶えに流れる水。後拾遺集の大和宣旨作「はるばると野中にみゆる忘れ水たえまたえまをなげくころかな」以来、和歌では「野中の忘れ水」がよく詠まれた。

【補記】心情は言葉に出さず景を描いているだけであるが、蛍に対する親愛と哀憐の情はしみじみと伝わってくる。

萩を

きのふにも色は変はるとなけれどもまばらになりぬ秋萩の花

萩 鎌倉市二階堂にて
萩の花

【通釈】昨日に比べて色は変わっているわけではないが、まばらになってしまった萩の花よ。

【補記】美しい紅は残したまま、いつの間にかまばらになってしまう。散り頃のそんな萩の風情を、全く巧むことなく表現した。花に寄せる誠の情が感じられる歌である。幸文の萩を詠んだ歌では「土にふす庭の秋萩かきおこし見れば花こそ咲きそめにけれ」が曾て名歌ともて囃されたが、芝居がかっていて幸文らしくもない歌である。

暁露

有明の月の光に見えわたる野原の露のかぎりなきかな

【通釈】有明の月の光に照らされて、野原一面に降りた露が限りもなく見渡される。

【補記】景の端的な印象を生き生きとした調べで歌い上げている。師の香川景樹の影響がよく窺われる歌。

人々とよみける実景百首の中に(二首)

立ちかへりまた見ん秋も遠ければ一夜は寝なんははそばのもと

【通釈】故郷に戻って来て再び会う秋はいつになることか――きっと遠い先なので、一晩は寝てゆこう。母のもとで。

【語釈】◇ははそば 柞葉。柞は楢・櫟など落葉する雑木類の総称。「ははそばの」で「母」の枕詞となることから、母そのものを暗示する語に転じた。

【補記】『亮々遺稿』は同じ詞書のもと二十三首の歌を纏めている。兼清正徳『木下幸文傳の研究』によれば、文政元年(1818)八月、郷里の備中国滞在中、同郷の豪農小野務らと競詠したもの。秋の実景に寄せて、故郷への思いを詠んでいる。「かにかくに思へば苦し秋の田のただひたぶるに思ひ立ちてん」「このたびの別れに知りぬ虫の音の弱りはてたる我が心をば」など、故郷を出立することを巡って決心とためらいが交錯している。

 

ふるさとに惜しき別れやなかりけん雁ははやくも渡り来にけり

【通釈】故郷に対し別れを惜しむということがなかったのだろうか。雁は早くも渡って来たことよ。

【補記】前歌と同じ歌群にある。一見雁を詠んだ歌であるが、主題は自身の故郷への惜別の情であろう。故郷を出立する日が間近となってしまった思いが「雁ははやくも」の句に籠められている。

ある夕暮

野も山もみな暮れはてて夕風の悲しき音ぞ空にのこれる

【通釈】野も山もすっかり暮れてしまって、空に残っているのは夕風の悲しげな音ばかりだ。

【補記】窪田空穂は木下幸文の面目を「純粋さ」に見ている。「幸文の歌は純粋である為に、感傷した場合には、率直に、露骨に、その感傷をほしいままにしてゐる」(『近世和歌研究』)。掲出歌もこの評がよく当てはまる一首であろう。

しはす晦日、いささけなることもし果ててのち、けふのこころをよめる

このひと夜はやく明けなん皆人のはつよろこびの声を聞くべく

【通釈】この一夜は早く明けてほしい。皆の新年の慶びの声を聞けるように。

【補記】大晦日の晩、ささやかな年迎えの準備を終えて詠んだ歌。八首中の最後の一首を採った。他に「たらちねの母の病も癒ゆときく思ふことなき年の暮かな」など。

雲浮野水

飛ぶ鳥のかげは絶えたる夕ぐれの野沢の水に浮ぶしら雲

【通釈】夕暮、飛ぶ鳥の影は見えなくなってしまった、野沢の水たまり――そこに今白雲が浮かんでいる。

【補記】題「雲浮野水」は室町時代以降に見える。一例として正徹の同題の詠を掲げた。

【参考歌】正徹「草根集」
かげ見えて一村過ぐる浮雲に雨打ちそそく野べの沢水

神祇

千早振る神のみ国とさだまれるこのおほみ国うごきあらめや

【通釈】神の治める国と定まっているこの大御国、時が移っても揺らぐことなどあろうか。

【語釈】◇千早振(ちはやぶ) 「神」の枕詞

【補記】「平凡に安んじて」(窪田前掲書)動じなかった幸文の歌風・歌観は、この歌に窺えるような揺るぎない世界観(もとより彼にとっては国が世界であった)に根差していたのではないだろうか。

貧窮百首(百首より六首抜萃)

今年さへかくて暮れぬとふるさとの空をあふぎて歎きつるかな

【通釈】今年もまたこのようにして暮れてしまったと、故郷の方の空を仰いで嘆息してしまった。

【補記】「貧窮百首」は文化四年(1807)の大晦日から翌年正月三日にかけての連作。「貧窮」の名は山上憶良の「貧窮問答歌」に由来する。作者は当時二十九歳、景樹に入門し、洛外岡崎に移り住んで間もない頃である。最後の一首に付した作者自注も併せて見られたい。

 

かにかくに疎くぞ人のなりにける貧しきばかり悲しきはなし

【通釈】何につけ、人は私から疎遠になってしまった。貧しいことほど悲しいことはない。

 

いかにしてわれはあるぞと故郷におもひ出づらん母しかなしも

【通釈】私はどうしているかと、故郷で思い出しているだろう母が哀れである。

 

かたちはも山のましらとなりぬれど人にしあれば心かなしも

【通釈】姿かたちはまあ、山に住む猿そのままになってしまったけれど、それでも私は人間なのだから、悲しいことよ。

 

おもふことわが書きつけし故郷の橋の柱は朽ちやしぬらん

【通釈】心中に期したことを私が書き付けた故郷の橋柱よ、あの柱はもう朽ちてしまっただろうか。

【補記】司馬相如が故郷の蜀を出立する時、橋柱に「大丈夫不乗駟馬大車、不復過此橋」(男子たるもの四頭立ての馬車に乗らずしてまたこの橋を渡るまい、ほどの意)と書いた故事(『蒙求』「相如題柱」)を踏まえる。

 

まどしきも嬉しかりけりかくまでに人の心のくまを知らめや

こは、()にし(つごもり)の日より、この三かの日のありさまをかいつめたるが、やや数おほう成りぬれば、月ごろの思ひ草をさへ摘みくはへて、百千(ももち)の歌とはなせるなりけり。かの糟湯酒(かすゆざけ)のごとをすすらひて貧窮百首などや名づけてん。文化五年睦月三日の夜 いさらゐのもとのかたゐ(おきな)

【通釈】貧しいことも嬉しいのであった。もし貧しくなければこれほどまでに世の人の心の隅々を知ることができるだろうか。

【語釈】◇まどしき まづしきに同じ。◇糟湯酒 酒糟を湯で溶かした飲物。憶良の「貧窮問答歌」に見える語。◇いさらゐ 細小井。ささやかな湧水。◇かたゐ翁 己を卑下して言う。

【補記】一つ前の歌「憂きことも嬉しきことも知らざらむあはれ此の世に富み足れる人」も併せて鑑賞されたい。

歌のこと(あげつ)らひけるついでに

天地(あめつち)の心ぞやがてひだたくみ何のことばのよきを求めん

【通釈】天地自然のあるがままの心が、そのままで歌の巧みなのである。どうして美しい言葉を探し求めたりしようか。

【語釈】◇ひだたくみ 飛騨匠。律令制下、毎年飛騨の国から交代で朝廷の建築工事に従事した工匠。木工の名手。掲出歌では「ひだ」に特に意味はなく、「巧み」(技巧、物の上手)を言うために用いている。

【補記】幸文の和歌観を端的に述べた歌。師景樹の歌論、たとえば「文辞を専らにすれば、巧に落ちて、造花のごときをまぬかれず」「誠実よりなれる歌は、やがて天地の調べにして、空吹く風の物につきて其の声をなすが如く、当たる物として其の調べを得ざる事なし」(『歌学提要』)といった教えの影響が窺える。

【参考歌】柿本人丸「人丸集」「拾遺集」
とにかくに物は思はずひだたくみうつ墨縄のただひとすぢに


公開日:平成19年11月04日
最終更新日:平成20年05月05日