足利直義 あしかがただよし 徳治元〜文和元(1306-1352) 号:三条殿・錦小路殿 法名:恵源

清和源氏。三河・上総の守護を勤めた足利貞氏の子。母は上杉頼重女、清子。尊氏の同母弟。はじめ忠義。
嘉暦元年(1326)、兵部大輔に任ぜられる。討幕の功により、元亨三年(1323)、左馬頭・相模守となる。翌年、右兵衛督。元弘三年(1333)末、成良親王を奉じて鎌倉に下向し、幕府の政務に与る。建武二年(1335)、中先代の乱が起ると幽閉中の護良親王を殺して鎌倉を逃れたが、東下した尊氏軍と合流し鎌倉を奪回、建武政権と訣別した。その後北畠顕家らの奥州軍に敗れ一時九州へ落ちたが、まもなく再起し、建武三年(1336)、光明天皇を擁立して室町幕府を開いた。軍事指揮権を掌握した兄尊氏に対し、直義は裁判を中心とした日常的な政務を執行して、二頭政治により幕政を運営した。やがて執事高師直との対立が深まり、観応元年(1350)、直義は大和で挙兵、南朝との講和をすすめ、翌年二月、師直の一党を討った。しかし尊氏との対立は解けず、京都を出奔して北陸に逃れ、各地で転戦の後、鎌倉に入る。南朝と講和して東下した尊氏軍との決戦に敗れ降伏。翌文和元年(1352)二月二十六日、鎌倉で死去した。尊氏による毒殺という(太平記)。享年四十七。贈従二位。菩提寺の名を取って大休寺殿と号す。
和歌・連歌・漢詩など文事を好み、貞和二年(1346)三月十三日の醍醐寺での和漢会を始め、たびたび歌会を催したり奉納和歌を勧進したりした。建武三年(1336)の住吉社法楽和歌・春日奉納和歌などに出詠。貞和百首作者。新千載集初出。勅撰入集は計二十六首。

貞和二年百首歌めされし時

露ながら千草ふきしく秋風にみだれてまさる花の色かな(新千載370)

【通釈】露をつけたまま、色々な草が秋風に靡き伏し、吹き乱されて、普段より増さって美しい花の色であることよ。

【補記】露・千草・風と、秋らしい風物を巧みに取り合せ、野分の季節の凄艷な情趣を歌い上げた。

【参考歌】藤原定家「拾遺愚草員外」
なびけどもさそひもはてぬ春風にみだれてまさる青柳のいと

題しらず

立ちかへり又もとへかし別れぢののちも夜ぶかき有明の空(新千載1413)

【通釈】引き返して、もう一度訪ねて下さい。別れの後も、まだ夜は深い有明の空ではありませんか。

【補記】女の立場で詠む。「またもとへかし」といった強い呼びかけは、後朝(きぬぎぬ)の歌には珍しい趣向。なお「別れぢ」は「別れ道」でなく、単に別れを意味する歌語。

貞和百首歌めされし時

うきながら人のためぞと思はずは何を世にふるなぐさめにせん(新千載2003)

【通釈】俗世を渡るのはつくづく憂鬱ではあるものの、人の為だと思わなければ、何を生きて行く上での慰めにしようか。


最終更新日:平成15年12月01日