佐久間象山 さくましょうざん 文化八〜元治元(1811-1864)

文化八年二月二十八日、信州松代藩士佐久間一学(実名は国善)の長男として松代城下(今の長野市松代町)に生まれる。家系は平氏の末裔という。母は足軽荒井六兵衛の娘まん。名は初め啓之助、のち啓(ひらき)に改める。
幼くして学才をあらわし、経書・和算などを修める。天保四年(1833)、江戸遊学を許され、出府して佐藤一斎の門に入る。三年後帰省するが、天保十年再び江戸に出、神田に私塾を開いて象山書院と名付けた。同十二年、藩主真田幸貫が老中に抜擢され、翌年海防係となると、象山は顧問に召され、海外事情を研究して海防意見書を提出した。またこの頃から西洋砲術や蘭学を学び、嘉永三年(1850)、江戸深川に砲術教授の塾を開く(のち木挽町に移る)。勝安芳(海舟)・小林虎三郎・吉田松陰・橋本左内らがその門を叩いた。しきりと海軍設置の急務であることを説き、閣老阿部正弘に意見書を提出すると、幕府の方針として採用されることはなかったが、その識見を高く評価され、幕府から折々意見を求められるようになった。ところが安政元年(1854)四月、門下の吉田松陰の密航計画を教唆したとして捕えられ、獄に投ぜられる。獄中の感懐はのち『省諐録(せいけんろく)』に著された(刊行は明治四年)。同年九月、松代へ護送され、以後九年間蟄居の身となる。万延元年(1860)九月、高杉晋作の訪問を受け、前年の松陰の刑死を知らされると、潸然と涙を流したという。文久二年(1862)、ようやく赦免され、翌元治元年(1864)、幕府の命を受けて上洛し、海陸御備向掛手附御雇を仰せ付かる。京都では諸士に開国と公武合体の必要を説き、一橋慶喜・将軍家茂の信頼を得るなど、その名声は高まった。それと共に尊攘派の標的となるが、意に介さず宮家・堂上等に出入りしたという。同年七月十一日夕、三条木屋町で尊攘派の刺客に馬上を襲われ、落命した。五十四歳。花園妙心寺大法院に葬られる。明治二十二年(1889)、贈正四位。大正十三年(1924)、生誕地のそばに建てられた象山神社に祀られた。
漢詩・書に秀で、画・琴などを好み、和歌にも親しんだ。『省諐録』に百十六首の歌を残している(明教和歌集・岩波文庫に収録)。以下には同書より三首を抄した。

無題歌

仰ぐべき杉のみさをは雪霜のはげしき世にぞ見るべかりける

【通釈】仰ぎ尊ぶべき杉の真っ直ぐな操は、雪霜の害が烈しい時節にこそ、心して見るべきである。

【補記】安政元年(1854)四月、象山は門下の吉田松陰の密航計画に連坐し、江戸伝馬町に囚われの身となった。獄中に感懐を抱くところあったが、筆記は禁じられていたため、出獄後、記憶にあるところを記したのが『省諐録』であるという。その付録の下巻に収められた和歌は百十六首。原文は全て万葉仮名である。強烈な使命感に基づき、愚直なまでに国防の一事に奔走して果てた象山の生涯を象徴するような一首。

感情歌(二首)

陸奥(みちのく)のそとなる蝦夷(えぞ)のそとを漕ぐ船よりとほく物をこそ思へ

【通釈】遥かな陸奥の外にある蝦夷のさらに外を漕いでゆく船――その船よりも遠く私は物を思っているのだ。

【語釈】◇蝦夷 北海道の古称。蝦夷が島。

【補記】やはり獄中の感懐を述べた「感情歌百首」より。「国風の百篇聊か情懐を寄す、詞観るに足る無きも、意或は取る可からん」と序に記す。掲出歌は百首中ことに名高い一首で、恋歌風の措辞を借りつつ、海外の情勢を広く見きわめ、かつ将来を遠く見通しているとして己を恃み、理解を得られない痛憤の情を籠めた。

【参考歌】小野小町「小町集」
みちのくの玉造江に漕ぐ船のほにこそ出でね君を恋ふれど

 

年頃のなげきもつきむ思ひ知る人ありあけの世にしあひなば

【通釈】年来の嘆きも尽きるだろう。私の思いを知る人がいる、夜明け前の時代に出会えたなら。

【語釈】◇人ありあけの 「人あり」「有明の」と言い掛けている。

【補記】「感情歌百首」の最後に置かれ、『省諐録』の巻末を飾る一首。

【本歌】西行「新古今集」
思ひしる人ありあけの世なりせば尽きせぬ身をば恨みざらまし


公開日:平成22年06月09日
最終更新日:平成23年12月06日