崇賢門院 すうけんもんいん 建武三〜応永三十四(1339-1427) 諱:仲子 号:梅町殿

従一位贈左大臣広橋兼綱の娘。実父は石清水八幡宮別当善法寺通清という。すなわち足利義満の母紀良子の姉妹である。
後光厳天皇の妃となり、緒仁親王(後円融天皇)を生む。永徳三年(1383)四月二十五日、院号宣下。治天の君となった後円融院の後見役として、しばしば義満との仲を取り持つなど政治の舞台裏で奔走した。応永三十四年(1427)五月二十日、崩御。九十二歳(一説に八十九歳、また九十四歳とも)。墓は京都市上京区行衛町の華開院墓地内にある。准三宮。宝鏡寺の尼院大慈院の開基。
永和元年(1375)に後円融天皇が召した「永和百首」に詠進。応永十四年(1407)十一月二十七日、内裏で催された「九十番歌合」に出詠。新後拾遺集初出。勅撰入集は計八首。

百首歌たてまつりし時

見わたせば山田の穂波かたよりになびけばやがて秋風ぞ吹く(新後拾遺322)

【通釈】山裾の田を見渡せば、稲穂の波が一斉に片寄って靡く――そうするとやがて私の所にも秋風が吹くのだ。

【補記】「百首歌」は新後拾遺集撰進に際し後円融天皇が召した永和百首(永徳百首とも)。

【参考歌】但馬皇女「万葉集」
秋の田の穂向の寄するかたよりに君に寄りななこちたくありとも
  作者不明「万葉集」「新古今集」
秋の田の穂向の寄れるかたよりに我は物思ふつれなきものを

百首歌奉りし時

有明の影をしるべにさそはれて夜ぶかくいづる須磨のうら舟(新後拾遺911)

【通釈】その光を案内役とあてにして、有明の月に誘われるように、夜深く須磨の浦を出航して行く舟であるよ。

【補記】羈旅歌。これも永和百首。有明の月は、夜遅く出て明け方まで残る月。須磨の浦は兵庫県神戸市須磨区の海岸。塩焼・千鳥などが詠まれることの多い歌枕だが、光源氏流謫の地としても名高い。中世には月の名所ともなる。

【参考歌】「詞花集」藤原実行
すみのぼる月のひかりにさそはれて雲のうへまでゆく心かな


最終更新日:平成15年08月01日