賀茂成助 かものなりすけ 長元七〜永保二(1034-1082) 号:大池神主

賀茂神主成真の子。重保・政平らの祖で、賀茂家歌人群の宗祖的な歌人である。権中納言藤原季仲に嫁ぎ権律師仲顔・少僧都延覚・同仲胤を生んだ娘がいる(尊卑分脈)。
永承五年(1050)、賀茂社権禰宣となり、翌六年、同社の神主となる。以後、三十余年在職した。天喜四年(1056)、従五位下。
住吉社神主の津守国基良暹法師などと親交があり、また橘俊綱邸に出入りした。家集『成助集』は断簡のみ伝わる。後拾遺集初出。

山家の梅花をよみはべりける

梅の花かきねに匂ふ山里はゆきかふ人の心をぞ見る(後拾遺58)

【通釈】梅の花が垣根に咲き匂う山里では、行き交う人の心がお見通しだ。立ち止まるかどうかで、風流な心の持ち主かどうか分かるのだから。

花見にまかりけるに、嵯峨野を焼きけるを見てよみ侍りける

小萩さく秋まであらば思ひいでむ嵯峨野をやきし春はその日と(後拾遺80)

【通釈】萩の花が咲く秋まで私の命があったなら、思い出すだろう。嵯峨野で春の野焼きを見たのは、あの日だったと。

【語釈】◇嵯峨野 京都の北西部、右京区嵯峨を中心とし、小倉山、嵐山、太秦あたりまでを含む。和歌では秋の花々を詠むことが多い。

橘俊綱朝臣の伏見の家に、桂を掘り植ゑさせ侍りけるによめる

みづかきの桂をうつす宿なれば月見むことぞ久しかるべき(千載632)

【通釈】賀茂神社の桂の樹を移し植えたお宅なのですから、ご主人様はこちらで末永く月をご覧になることでしょう。

【語釈】◇橘俊綱朝臣 関白頼通の息子。橘俊遠の養子となる。伏見修理大夫と号す。伏見に風趣を凝らした邸宅を建て、盛んに歌合・歌会などを催した。◇みづかき 瑞垣。神社の玉垣を言う。ここでは作者が神主をしていた賀茂神社のこと。◇桂 カツラ科の落葉喬木。秋、黄色からオレンジ色へと美しく染まる。◇月見むことぞ… 月には桂の樹があるという中国の伝承を踏まえる。「久しかるべき」には邸の主人(俊綱)の長寿への願いを籠める。

女の許にまかりて、心地の例ならず侍りければ、かへりて遣はしける

(たれ)ゆきて君に告げまし道芝の露もろともに消えなましかば(新古1187)

【通釈】帰り道の半ばでひどく具合が悪くなってしまった。誰があなたの所へ行って知らせてくれるだろう。道の雑草の露といっしょにこの世から消えてしまったら。

【主な派生歌】
しでの山わけもならはぬ道しばの露もろともに君や越ゆらん(木下長嘯子)

つらかりける女のゆゑによしなきことの聞えければ、かの女につかはしける

かひもなき身をいたづらになすものは憂きを忘れぬ心なりけり(玉葉1801)

【通釈】生きている甲斐もない我が身だけれども、ほんとうに命を虚しくしてしまうものは、あの人の無情さを忘れることが出来ない我が心だったのだ。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日