祝部成茂 はふりべのなりしげ 治承四〜建長六(1180-1254)

日吉社禰宣祝部氏の重代歌人。成仲の孫。小比叡禰宣大蔵大輔従四位上允仲の子。日吉社禰宣・丹後守正四位下となる。建長元年(1249)七十算賀には、藤原為家より四季屏風を贈られ、後嵯峨院より祝歌を賜わった。
元久元年(1204)の春日社歌合、建永元年(1206)七月の卿相侍臣歌合、建保三年(1215)六月の院四十五番歌合など後鳥羽院歌壇で活躍した。承久の乱後も、寛喜四年(1232)三月の石清水若宮歌合、寛元元年(1243)十一月の河合社歌合、寛元四年(1246)十二月の春日若宮社歌合、宝治二年(1248)の「宝治百首」、建長三年(1251)九月の影供歌合などに詠進している。建長五年(1253)には、藤原定家十三回忌に為家が勧進した追善詩歌「二十八品並九品詩歌」に出詠。
家集『祝部成茂集』があるが、これは「宝治百首」の成茂の詠進歌百首を収めたものである。新古今集初出(一首)。勅撰入集計四十四首。因みに新古今集に採られた「冬の来て山もあらはに木の葉ふりのこる松さへ嶺にさびしき」は後鳥羽院に絶賛されたが、後世、歌屑呼ばわりされていたことが『徒然草』第十四段に見える。

社頭花といふことを

桜ばな老いかくるやとかざしても神の斎垣(いがき)に身こそふりぬれ(続古今724)

【通釈】斎垣(いがき)のほとりに咲く桜――老いを隠してくれるかと、その花を頭に挿してみたが、永く神社に仕えてきた我が身は、取り繕うこともできぬほどに古びてしまったことだ。

【語釈】◇神の斎垣 神社の垣。「い」は神聖なものに付ける接頭辞。

【補記】神社に咲く桜の花を詠む。題詠歌であるが、日吉社に神職として長く仕えた自身の感慨を籠めた一首である。


更新日:平成14年08月23日
最終更新日:平成21年01月25日