陸奥国前采女 みちのくのくにのさきのうねめ 生没年未詳

伝未詳。葛城王(橘諸兄)が陸奥に赴任した時、前采女として宴に侍り、歌を捧げて王の気持を解したと言う。

 

安積山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心を()()はなくに(万16-3807)

右の歌は伝へて云く、葛城王、陸奥の国に遣はさえし時、国司の祗承(しじよう)緩怠(おほろか)なること異(こと)に甚し。時に王の意に悦びず、怒りの色面に顕る。飲饌を設(ま)けども、肯(あ)へて宴楽せず。是に前采女有り、風流(みやび)たる娘子(をとめ)なり。左の手に觴(さかづき)を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝を撃ちて、此の歌を詠みき。すなはち王の意解けて、楽飲すること終日なりきと言へり。

【通釈】[歌]安積山の影さえ映る山の泉――そのような浅い心など私は持っていませんのに。
[左注]この歌には次のような言い伝えがある。葛城王が陸奥国に派遣された時、国司らのもてなしが疎かだったので、王は心中喜ばず、怒りの色を顔にあらわし、酒席の用意ができても盃を受けようとしなかった。この時、以前采女であった雅びなおとめがいて、左手には盃を捧げ、右手には(山の井から汲んだ)水を持ち、王の膝を打ってこの歌を詠んだ。それで王の心もなごみ、終日宴を楽しんだという。

【語釈】◇安積山 陸奥国の歌枕。歌に詠まれた「山の井」は福島県郡山市片平に今もあるという(集英社『大歳時記三 歌枕・俳枕』)。

【補記】古今集仮名序に「安積山の言葉は、采女の戯れより詠みて、(中略)この歌は、歌の父母の様にてぞ、手習ふ人の初めにもしける」とある。大和物語・今昔物語などにも同様の逸話が見える。采女の創作ではなく、土地に伝わる風俗歌であったと見る説もある。因みに、平成二十年、滋賀県甲賀市の宮町遺跡(紫香楽宮跡)で出土した木簡にこの歌が書かれていた。天平十六年(744)から十七年頃に廃棄された木簡と推測されている(YOMIURI ONLINE ニュース)。

【他出】綺語抄、古来風躰抄、八雲御抄、歌枕名寄、夫木和歌抄、井蛙抄

【主な派生歌】
山の井のあさき心も思はぬに影ばかりのみ人の見ゆらむ(読人不知[古今])
ゐても恋ひふしても恋ふるかひもなくかく浅ましく見ゆる山の井(源順)
山の井の浅き心をしりぬれば影見むことは思ひ絶えにき(待賢門院堀河[玉葉])
くやしくぞ結びそめけるそのままにさて山の井のあさき契りを(藤原為子[続後撰])
八雲たつ道はふかきを安積山あさくも人のおもひいる哉(藤原基家[続古今])
花かつみかつみても猶頼まれず安積の沼の浅き心は(小倉公雄[続千載])
山の井の水の心は浅けれどあかで年ふる柴の庵かな(寂真[新続古今])


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日