近衛基平 このえもとひら 寛元四〜文永五(1246-1268) 号:深心院関白・西谷殿

藤原北家摂家相続流。岡屋関白兼経の長男。母は九条道家女従一位仁子。関白家基・権大納言兼教・亀山院妃新陽明門院位子ほかの父。
建長六年(1254)正月、叙爵。侍従・近衛を経て右中将となり、建長七年(1255)正月十三日、従三位に叙せらる。権中納言・権大納言と進み、正嘉二年(1258)十二月、内大臣。弘長元年(1261)三月、右大臣に就き、同三年正月、従一位に昇る。文永二年(1265)十月、左大臣。同四年十二月九日、関白氏長者となるが、翌年十一月十九日、痢病のために薨じた。二十三歳。
文永二年(1265)、自邸に歌合を開催(深心院関白家歌合)。小家集『深心院関白集』がある。続古今集初出。勅撰入集は計二十三首。

弘長三年内裏百首歌たてまつりし時、山家夢

おのづから都にかよふ夢をさへ又おどろかす峰の松風(続拾遺1137)

【通釈】たまたま都に通う夢を見ることが出来たが、その夢さえもまた醒まして、現実に気づかせる、峰の松風よ。

【語釈】◇おどろかす 「目を覚まさせる」「(現実の自分の立場を)気づかせる」の両義。

【補記】世を捨て山の庵に籠り住む人の立場で詠む。「おどろかす」とは、目が覚めて孤独な山住いの身に気づく、ということ。亀山天皇の弘長三年(1263)に催された内裏百首(散佚)。

【本説】作者不明「和漢朗詠集」
山遠雲埋行客跡(山遠くしては雲行客の跡を埋む)/松寒風破旅人夢(松寒くしては風旅人の夢を破る)

秋の比、人のみまかりにける跡にて有明月をひとりみてよみ侍りける

なくなくも慕ひてぞ見る亡き人の面影ばかりありあけの月(玉葉2380)

【通釈】泣きながらも有明の月を慕って見上げるのだ。亡きあの人の、面影ばかりは残っている月を。

【語釈】◇みまかりにける跡 人の亡くなった旧居。

【補記】「面影ばかりあり」と「有明の月」を言い掛けている。有明の月は後朝(きぬぎぬ)の別れのシンボル。すなわちこの「亡き人」は妻問い婚の相手であったことが判る。


最終更新日:平成16年03月05日