九条左大臣道良の娘。母は後嵯峨院大納言典侍と称された藤原為子(藤原為家の娘)。すなわち藤原定家・九条道家の曾孫にあたる。関白九条忠教の室。一女は摂政兼基の北政所となる。御子左家系図
生年は建長三年(1251)頃か。幼くして後嵯峨院宮廷に上臈女房として出仕する。早くに両親を亡くし、祖父為家に愛されたらしく、御子左家の主要な所領や歌書を相続している。正安元年(1299)三月の五種歌合、乾元二年(1303)閏四月の仙洞五十番歌合など、京極派の歌合に参加。嘉元元年(1303)八月には伏見院三十首歌に詠進している。続拾遺集初出。勅撰入集計二十九首。
春 4首 夏 1首 秋 1首 冬 1首 恋 2首 雑 2首 計11首
春曙を
白みゆく霞のうへの横雲に有明ほそき山の端の空(風雅1432)
【通釈】次第に白(しら)んでゆく、山の端の空――たちこめる霞の上にたなびく横雲には、有明の月がほっそりと掛かっている。
【補記】正安元年(1299)の五種歌合。枕草子初段を思わせる。
庭春雨といふことを
つくづくと春日のどけきにはたづみ雨の数みる暮ぞさびしき(玉葉99)
【通釈】することもない春の一日はゆったりと過ぎてゆき、庭にできた水たまりも穏やか――私はその水面に輪を描く雨粒の数を、じっと見つめている――こんな夕暮はなんとなく物悲しいよ。
【補記】嘉元元年(1303)の伏見院三十首。
五十番歌合に夕花
目にちかき庭の桜の一木のみ霞みのこれる夕暮の色(玉葉210)
【通釈】間近に見える庭の桜の樹一本だけを残して、見渡す限りぼんやりとした霞の色に染まっている、夕暮の光景よ。
【補記】近景にフォーカスを合わせ遠景はぼかす、写真的な描写法が注目される。正安元年(1299)三月の五種歌合、八番右負。
春夜の心を
風にさぞ散るらむ花の面影の見ぬ色惜しき春の夜の闇(玉葉256)
【通釈】今夜の強風に、さぞかし桜の花はあでやかに散っているだろう。その美しい姿を見ることの出来ないのが惜しい、春の夜の闇よ。
【補記】桜の散る夜に月が出ていないことを惜しんでいる。正安元年(1299)三月の五種歌合、十五番右勝。
三十首歌人々にめされし時、遠夕立
夕立のとほちを過ぐる雲の下にふりこぬ雨ぞよそに見えゆく(玉葉414)
【通釈】遠くの方を過ぎる夕立の雲の下に、ここまでは降って来ない雨が、よそながら見えて通って行く。
【補記】「とほち」は大和国の地名「十市(とをち)」から「遠方(とほち)」に転じたものかという(岩佐美代子『玉葉和歌集全注釈』)。嘉元元年、伏見院三十首。
【参考歌】源俊頼「新古今集」
十市には夕立すらし久方の天の香具山雲がくれゆく
伏見院に三十首歌たてまつりけるに、草花露といふことをよみ侍りける
夕暮の野べ吹き過ぐる秋風に千草をつたふ花の上の露(新拾遺373)
【通釈】花の上に置いた露は、夕暮の野辺を過ぎる秋風に吹かれて、さまざまな秋の草をつたってゆく。
三十首歌たてまつりし時、河氷
ただひとへ上はこほれる河の
【通釈】ほんの薄く一枚、うわべだけ氷った川の面に、濡れていない木の葉が風に流れるようにすべってゆく。
【本歌】宗岳大頼「古今集」
冬河のうへはこほれる我なれや下にながれてこひわたるらむ
契恋を
言の葉はただなさけにも
【通釈】言葉の上では、ただのお義理で約束もするだろう。見えない心の奥こそが知りたい。
恋歌とて
なほこりず頼むかさしも憂ききはの今宵を見ても明日の夕暮(玉葉1408)
【通釈】まだ懲りずに私は期待するのか、明日の夕暮を。こんな辛い極みの、約束を破られた今夜のような目に遭っても……。
旅歌の中に
かへりみる我がふるさとの雲の波けぶりもとほし八重の潮風(玉葉1213)
【通釈】振り返って眺める、故郷の方へと遥かに続く雲の波――都どころか、ここは人家の煙さえ遠い孤絶の地なのだ、幾重もの潮風に隔てられて。
【補記】鬼界が島に流された平康頼の名高い作「薩摩潟おきの小島に我ありと親には告げよ八重のしほ風」を思わせる、孤島の流人の身になっての詠といった印象。歌柄の大きさは女流らしからぬものがある。
庭松と云ふ事を
庭のおもの一木の松を吹く風にいくむら雨の声を聞くらむ(玉葉2196)
【通釈】正面の庭に生えている一本の松を吹く風によって、幾つの異なった村雨の響きを聞くことだろう。
【補記】「庭のおも」の「おも」は「うら」の対語で、庭の表側、ということ。「庭の地面」の意味で用いられることもあるが、ここは違う。「いくむら雨の声」は京極派にしばしば見られる独特の圧縮表現の一例。風によって高低強弱さまざまに松を響かせる村雨の音を言う。乾元二年(1303)五月、京極派歌人たちが集まっての三十番歌合。二十七番左持。
公開日:平成14年11月02日