喜撰 きせん 生没年未詳

伝不詳。宇治山に住んだ僧ということ以外、確かなことは判らない。いわゆる六歌仙の一人で、古今集仮名序には「ことばかすかにして、はじめ、をはり、たしかならず。いはば、秋の月を見るに、あかつきのくもにあへるがごとし。よめるうた、おほくきこえねば、かれこれをかよはして、よくしらず」と評されている。『元亨釈書』には「窺仙」なる僧が宇治山に住んで密咒をなし、長生を求めて仙薬を服し、あるとき雲に乗って去って行った旨書かれている。また『孫姫式』には「基泉」の作が載るという(『古今和歌集目録』)が、いずれも喜撰と同一人物かどうか判らない。歌は古今集の一首以外たしかなものは伝わらない。歌学書『喜撰式』の著者と永く信じられていたが、今日この書は平安中期の偽書とみる説が有力視されている。

題しらず

わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり(古今983)

【通釈】私の庵は都の巽(たつみ)――都を離れた山の中で、このように住んでいるのだ。その山を、俗世を「憂」しとて入った、「う」じ山と世の人々は呼んでいるそうな。

【語釈】◇庵(いほ) いおり。隠遁者の仮住まい。◇都のたつみ 都の東南。宇治は平安京の東南にあたる。「たつみ」は辰巳・巽と書き、十二支によって方角をあらわしたもの。◇しかぞすむ このように住む。「しか」に「鹿」を掛けるか(下記、定家・順徳院の派生歌参照)。◇世をうぢ山 「世を憂」「宇治山」の掛詞。宇治山は今の京都府宇治市周辺の山。◇人はいふなり 世間の人は言っているそうだ。「なり」は伝聞推定の助動詞

【他出】古今和歌六帖、袋草紙、五代集歌枕、五代簡要、定家八代抄秀歌大躰百人一首、十訓抄、歌枕名寄、悦目抄、井蛙抄、歌林良材、和歌深秘抄

【主な派生歌】
あとたえて心すむとはなけれども世をうぢ山に宿をこそかれ([源氏物語])
河霧のみやこのたつみふかければそこともみえぬ宇治の山里(大江匡房)
わがいほは都のいぬゐすみわびぬうき世のさがと思ひなせども(寂蓮)
道をえて世をうぢ山といひし人のあとに跡そふ君とこそ見れ(慈円)
春日野やまもるみ山のしるしとて都の西も鹿ぞすみける(藤原定家)
わが庵は峯の笹原しかぞかる月にはなるな秋の夕露(〃)
宇治の山雲ふきはらふ秋風にみやこのたつみ月もすみけり(後鳥羽院)
我が庵は小倉の山の近ければ浮世をしかとなかぬ日ぞなき(*八条院高倉[新勅撰])
秋といへば都のたつみ鹿ぞ鳴く名も宇治山の夕ぐれの空(順徳院)
うぢ山のむかしの庵の跡とへば都のたつみ名ぞふりにける(慶融[玉葉])
人はなし都のたつみ月ぞすむ世をうぢ山も秋の庵は(宗良親王)
月のすむ都のたつみ里の名をたが身にしれと時雨ふるらむ(正徹)
ほのぼのと宇治の山もと霞むなり都のたつみ春やきぬらむ(木下長嘯子)
わが菴はみやこの辰巳午未申酉戌亥子丑寅う治(四方赤良)

題しらず

木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりにあまの海へ行くかも(玉葉400)

【通釈】木々の間から見えるのは、谷間を飛び交う蛍の光かなあ。それとも、魚を捕りに漁師が海へ出て行く、その漁火(いさりび)なのかなあ。

【補記】藤原仲実(1057〜1118)の『古今和歌集目録』に、歌学書『孫姫式』に見える「基泉法師」の作として載せている歌(歌学大系所収の『孫姫式』には見えない)。『伊勢物語』の「はるる夜の星か川辺の蛍かも我がすむかたにあまのたく火か」と同趣向。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成18年11月15日