高丘河内 たかおかのかわち 生没年未詳 略伝

百済系渡来人沙門詠の子。比良麻呂の父。はじめ楽浪(ささなみ)河内を名乗ったが、神亀元年(724)、高丘連を賜姓された。元正・聖武・孝謙朝に仕えた官人。学者でもあり、聖武天皇が皇太子であった時、侍講に任命され、学問に優れた人物として褒賞されている。天平十三年(741)には恭仁京における庶民の宅地班給・左右京の設定に従事し、翌年の紫香楽村行幸に際しては造離宮司に任じられる等、宮都の造営に活躍した。天平十八年には伯耆守に任じられている。天平勝宝六年(754)、正五位下に至る。この頃大学頭を務めた。万葉集に二首の歌を残している。

高丘河内連の歌二首

故郷は遠くもあらず一重山越ゆるがからに思ひぞ()がせし(万6-1038)

【通釈】故郷は遠いというわけでもない。山を一つ隔てるばかりなのに、私は恋しくてならなかったよ。

【補記】万葉集巻六の排列からすると天平十五年(743)の作。当時の都は恭仁京であった。「一重山」は普通名詞で、奈良旧京と恭仁京を隔てる山を指す。故郷の奈良は近いのに、郷愁の思いにかられてならない、との心。

我が背子と二人し居れば山高み里には月は照らずともよし(万6-1039)

【通釈】あなたと二人でいるので、山が高いあまり、この里に月が照らなくても、かまいはしない。

【補記】友人との宴などで詠まれた歌だろう。「我が背子」と呼びかけた相手に対する友情がしみじみと感じられる。

【主な派生歌】
この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし(*良寛)


更新日:平成15年11月08日
最終更新日:平成20年12月26日