軽大郎女 かるのおおいらつめ

允恭天皇の皇女。母は忍坂大中姫。軽皇子(木梨軽太子)の同母妹。日本書紀によれば、皇太子だった軽皇子と密通し、露見して伊予に配流された。古事記では伊予の湯に流された軽皇子を流刑地まで追い、兄と心中したとある。また古事記では「衣通王」とも呼ばれ、日本書紀に允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹で天皇に寵愛されたとする衣通郎姫との混同が見られる。
古事記に軽皇子に献った二首の歌を伝える。以下にはその二首を掲げる。

 

夏草の あひねの浜の 蠣貝かきがひに 足踏ますな 明かして通れ

【通釈】逢って寝るという名の「あひね」の浜は、牡蠣の貝殻がたくさん落ちていますよ。踏んでお怪我をしないように、夜が明けてから通りなさい。

【語釈】◇夏草の 「あひね」、または「ね」にかかる枕詞。◇あひね 伊予の国の地名であろうが、不詳。

【補記】古事記下巻。歌の背景については次の歌の補記を参照。

【主な派生歌】
夏草のあひ寝の浜の真砂路は八百夜ゆくともあかじとぞ思ふ(加納諸平)
夏草のあひねの浜によする波千重の契をかけなたがへそ(〃)

 

君が往き 長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ

【通釈】あなたが出掛けてから、たくさん日が経ちました。迎えに行きましょう。待つには恋しすぎる、もう待ってなんかいません。

【補記】軽大郎女の同母兄、軽皇子は皇太子であった。ところが、父允恭天皇が崩じたのち、即位を前にして皇子は妹の大郎女と情を通じた。これを知った官僚・民衆は軽太子を離れ、允恭第二皇子である穴穂皇子に心を寄せた。軽皇子は大臣の家に逃れて兵器を集めたが、穴穂皇子の軍勢に隠れ家を囲まれてしまった。大臣は軽皇子を捕えて穴穂皇子に差し出した。このとき軽皇子は大郎女を偲んで歌を詠み、これに応えて大郎女が献ったのが「夏草の」の歌であるという。のち、大郎女は恋しさに耐えきれず、兄を追って往き、さらに「君が往き」の歌を詠んだ。兄の流刑地に至り、共に自死を選んだという。(古事記では、軽大郎女を「衣通王」とも呼び、日本書紀に允恭天皇の愛人(皇后の妹)とする衣通郎姫との間で伝の混乱が見られる。)

【異伝歌】磐姫皇后「万葉集」巻二
君が行き日長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ

【他出】古今和歌六帖、綺語抄、和歌童蒙抄、袖中抄、色葉和歌

【主な派生歌】
君がゆきけながくなりぬ奈良路なる山斎(しま)の木立も神さびにけり(吉田宜[万葉])


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月16日