美福門院加賀 びふくもんいんのかが 生年未詳〜建久四(1193)

藤原北家、魚名の裔、若狭守などを勤めた藤原親忠の娘。父がその乳父であった縁から鳥羽天皇皇后藤原得子(美福門院)に仕え、美福門院加賀と呼ばれた。皇后宮少進為経(寂超)の妻となり、康治元年(1142)、隆信を生む。為経が康治二年(1143)に出家した後、俊成と再婚し、久寿二年(1155)に成家を、応保二年(1162)に定家を生んだ。晩年出家し、建久四年(1193)二月十三日、没(七十歳前後か)。新古今集初出、勅撰入集は二首。

女につかはしける    皇太后宮大夫俊成

よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさにたへぬ身ともこそなれ

返し

たのめおかむたださばかりを契りにて憂き世の中を夢になしてよ(新古1233)

【通釈】あなたのおっしゃる通り、来世でお逢いすることを約束しましょう。ただそれだけを契りとして、この辛い現世での仲は、夢だと思って下さい。

【語釈】◇たのめおかん 俊成の「後の世とだにたのめおけ」に対する語。タノメはあてにさせる、期待させる意。◇契り 約束、前世からの宿縁、男女の交わり、などの意を含む。◇憂き世の中 「世の中」には男女関係の意を含む。「あなたとの辛い恋愛関係」ということ。

【補記】新古今集巻十三恋三の巻末歌。作者名は「藤原定家朝臣母」とある。藤原俊成への返歌。俊成の歌の大意は「仕方ない、それなら、せめて来世には、と約束して下さい。我が身は貴女のつらい仕打ちに堪えられず死んでしまいますから」。

【他出】長秋詠藻、定家八代抄、和歌口伝

【主な派生歌】
忘れぬやさは忘れける我が心夢になせとぞ言ひて別れし(藤原定家)
ながらへてあるにもあらぬうつつをばただそのままの夢になしてよ([山路の露])

定家、少将になり侍りて、月あかき夜、よろこび申し侍りけるを見侍りて、あしたにつかはしける

三笠山道ふみそめし月かげに今ぞ心の闇ははれぬる(新勅撰1856)

【通釈】藤原氏の氏神のおかげで近衛の職に就き、立派な官途を歩み始めたおまえに、今やっと私の心の闇は晴れましたよ。

【語釈】◇定家、少将になり侍りて 文治五年(1189)、二十八歳の時、左近衛権少将に任ぜられた。◇三笠山 藤原氏の氏社春日明神背後の山。また、御笠は天皇に差し掛ける笠を意味することから、近衛府の職の喩えにも用いられた。◇道ふみそめし 官途に就いた。出世への道を歩み始めた。◇心の闇 子を思って惑う心を闇に喩える。下記本歌を踏まえた表現。

【本歌】藤原兼輔「後撰集」
人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成24年03月20日