定為 じょうい(ていい) 生没年未詳(?-1327以前?) 号:一条法印

藤原為氏の子。母は飛鳥井教定女。為世の同母弟。醍醐寺法印。権律師。
二条派の歌僧として活動。建治二年(1276)の住吉社三十五番歌合、正安三年(1301)の日吉社歌合、正安四年(1302)の住吉社歌合などの歌合に参加したほか、嘉元百首・嘉元内裏百首・文保百首に詠進。為家が為世に古今集を講じた折に執筆を勤めるなどし、また自らも古今集の伝授を行っている。著作は嘉元内裏百首への参加を訴えた「定為法印申文」がある。続拾遺集初出。勅撰入集は計八十二首。

文保百首歌たてまつりける時

にほひくる風のたよりをしをりにて花に越えゆく志賀の山道(新千載133)

【通釈】匂いを運ぶ風の便りを道しるべに、花から花を辿りつつ越えてゆく志賀の山道よ。

【補記】「しをり」はもともと枝を折って道しるべとしたものを言う。この歌では風が運ぶ花の香気を「しをり」と言いなした。そのアイデアに新味はないが、「花に越えゆく」と続けたのは定為一代の秀句であろう。「志賀の山道」は京の北白川から比叡山・如意が岳の間を通り、志賀へ出る山道で、桜を詠むのは常道である。文保二年(1318)、続千載集撰進下命に際し、後宇多院が資料として召した百首歌。

【参考歌】藤原公行「詞花集」
梅の花にほひを道のしるべにてあるじも知らぬ宿に来にけり
  藤原定家「六百番歌合」「玉葉集」
袖の雪空吹く風もひとつにて花ににほへる志賀の山越え

【主な派生歌】
宮人のにほひ残れる志賀の山花に越えゆく袖ぞやさしき(橘千蔭)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年03月15日