藤原因子 ふじわらのいんし(-よるこ) 建久六〜没年未詳(1195-) 通称:民部卿典侍

藤原定家の長女。母は藤原実宗女。為家の同母姉。
元久二年(1205)、十一歳で後鳥羽院に出仕し、翌年高祖長家に因み民部卿の名を賜わる。承久の変後、安嘉門院(後高倉院皇女、邦子内親王)に出仕。寛喜元年(1229)、関白九条道家女(のちの藻壁門院)の入内にあたり、西園寺公経より懇請され、お付き女房として後堀河天皇に仕える。その後、典侍に補され、因子を名のった。天福元年(1233)九月十八日、藻壁門院が崩御すると、同月二十三日、殉じて出家した。『明月記』により嘉禎元年(1235)十二月までの生存が確認できる。
貞永元年(1232)の中宮和歌会・七首歌合・光明峯寺入道摂政家恋十首歌合・名所月歌合に出詠。新勅撰集初出。以下、勅撰集に二十四首入集。家集『民部卿典侍集』がある。父と共に古典の書写にも励んだ。

恋の歌とてよみ侍りける

かひもなし問へど白玉みだれつつこたへぬ袖の露のかたみは(続拾遺1061)

【通釈】逢瀬の形見は我が袖に落ちた涙の露、そこに映して偲ぶあの人の面影――まったく甲斐もない。問いかけても相手は白玉、知らぬ存ぜぬ、答えもせずに散り乱れるばかり。

【語釈】◇白玉 「しら」ぬ、を掛ける。

【補記】貞永元年(1232)七月、九条道家邸での恋十首歌合、題は「寄玉恋」。玉にことよせて恋の心を詠む。

【本歌】源融「古今集」
ぬしやたれとへどしら玉いはなくにさらばなべてやあはれと思はむ

藻璧門院御事の後、かしらおろし侍りけるを、人のとぶらひて侍りける返り事に

かなしきはうき世のとがとそむけどもただ恋しさの慰めぞなき(続後撰1263)

【通釈】悲しいことは、憂き世に留まっていたための咎(とが)と思い、世を捨てましたが、ひたすら亡き女院が恋しく、この思いは慰めるすべもありません。

【語釈】◇藻璧門院(そうへきもんいん) 九条道家の娘。後堀河院の中宮。藤原経光の日記『民経記』によれば「藻門院」が正しいとのことであるが、「藻門院」と書かれることが多い。貞永元年(1232)、子の四条天皇が即位し国母となるが、翌天福元年九月十八日、皇子を死産して亡くなった。薨年二十五。女院にも親しく仕えた因子は、その五日後に出家した。

【補記】この歌は『増鏡』の巻三「藤衣」にも引用されている。


公開日:平成14年08月31日
最終更新日:平成24年04月01日