穗積老 ほづみのおゆ 生年未詳〜749(天平勝宝1) 略伝

父母は未詳。穂積氏は石上氏と同祖。
大宝三年(703)正月、山陽道巡察使に任ぜられる。この時正八位上。和銅二年(709)正月、従五位下に昇叙される。同三年正月元日朝賀の際、左将軍大伴旅人のもと、副将軍として騎兵を陳列、隼人・蝦夷らを率いて行進する。同六年に従五位上、養老元年(717)に正五位下と進み、同二年、正五位上。同年九月、式部大輔。養老六年(722)正月、「指斥乗輿」(天皇を名指しで非難したこと)の罪で斬刑の判決を受けるが、首皇子の奏上により死一等を降され、佐渡に配流される。この頃の作と思われるものに、万葉巻十三の歌があり、左注に「或書に云はく、穂積朝臣老の佐渡に配されし時作る歌なりと」とある。天平十二年(740)に至って恩赦により入京を赦される。同十六年(744)二月、難波遷都の際、恭仁京留守官。この時大蔵大輔正五位上。天平十八年(746)正月、左大臣橘諸兄らと共に元正上皇の中宮西院に雪掃いに奉仕し、肆宴に参席。天平勝宝元年(749)八月、卒す。

穂積朝臣老の歌一首

我が命のま(さき)くあらば亦も見む志賀の大津に寄する白波(万3-288)

【通釈】私の命が無事であったなら、再び見ることもあろう。志賀の大津に寄せる白波を。

【補記】左注には行幸時の歌とするが、いつの行幸かは未詳とする。霊亀三年(717)九月、元正天皇の美濃行幸の際、近江を通過しての作かとも言い、大宝二年(702)十月、持統上皇の東国行幸の際かとも言う。志賀の大津は滋賀県大津市の琵琶湖の港。

【本歌】有間皇子「万葉集」
磐代の浜松が枝をひきむすびま幸くあらばまた帰り見む

―参考―

大君の (みこと)(かしこ)み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木(まき)積む 泉の川の 速き瀬に 棹さし渡り ちはやぶる 宇治の渡の (たぎ)つ瀬を 見つつ渡りて 近江道の 逢坂山に 手向して ()が越え行けば 楽浪(ささなみ)の 志賀の唐崎 (さき)くあらば またかへり見む 道の(くま) 八十隈(やそくま)ごとに 嘆きつつ ()が過ぎ行けば いや遠に 里(さか)り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 剣大刀 鞘ゆ抜き出て 伊香山(いかこやま) いかが()がせむ 行方知らずて(万13-3240)

反歌

天地を嘆き乞ひ()み幸くあらばまた反り見む志賀の唐崎(万13/3241)

【補記】左注には「但此短歌者、或書云、穂積朝臣老、配於佐渡之時作歌者也」とある。鹿持雅澄『萬葉集古義』はこの左注を肯定し、「但し短歌のみ、老の作とせるは誤にて、なほ長歌反歌共に、同人の同時によめるなるべし」とする。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日