藤原広嗣 ふじわらのひろつぐ 生年未詳〜天平十二(?-740) 略伝

宇合の第一子。母は蘇我石川麻呂の女。弟に綱手・良継・田麻呂・百川らがいる。
天平九年(737)、従五位下に叙される。同十年、大養徳守兼式部少輔に任ぜられたが、同年十二月、親族を誹謗した廉で大宰少弐に左遷された。同十二年八月、玄ム・下道真備を除くことを朝廷に上表し、この言動が謀反とされて召喚の勅が出されると、直ちに挙兵した(藤原広嗣の乱)。同年十月、板櫃河を挟んで朝廷軍と交戦。この後大野東人率いる官軍が筑紫に進入すると、戦を回避して逃亡し、程なく耽羅島(済州島。当時は新羅領)への亡命を謀ったが間もなく捕えられ、十一月、松浦郡で処刑された。
万葉集に「藤原朝臣広嗣、桜花を娘子に贈る歌一首」(巻8-1456)を残している。

藤原朝臣広嗣、桜の花を娘子(をとめ)に贈る歌一首

この花の一枝(ひとよ)のうちに百種(ももくさ)(こと)ぞこもれるおほろかにすな(万8-1456)

【通釈】この花の一枝のうちに沢山の言葉が籠っている。おろそかにしてはなりません。

娘子の和ふる歌一首

この花の一枝(ひとよ)のうちは百種(ももくさ)の言持ちかねて折らえけらずや(万8-1457)

【通釈】この花の一枝は、貴方の言うたくさんの言葉の重さに耐えかねて、折れてしまったのではありませんか。

【補記】通釈に書いたようなことを言いたいのであろうが、語法に無理がある。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年03月31日