徳川尋子 とくがわひろこ(-ちかこ) 寛永十五〜万治元(1638-1658) 号:法光院

後陽成天皇の皇子で、近衛家の養子となった関白左大臣近衛信尋の次女。泰姫と称す。承応三年(1654)、江戸に下り、徳川光圀の正妻に迎えられる。時に十七歳、光圀は二十七歳であった。明暦三年(1657)、江戸大火の時、小石川邸が類焼し、駒込の山荘に移る。万治元年(1658)十月頃から病床に臥し、同年閏十二月二十三日、二十一歳で逝去した。光圀との仲は睦まじかったが、子はなさなかった。尋子の死後、光圀は後添いを迎えることなく過ごし、元禄九年(1696)の尋子の命日に剃髪した。
書を能くし、詩歌・学問を好む。家集『香玉詠藻』に九十余首を残す(女人和歌大系三に所収)。
以下には『香玉詠藻』より五首を抄出した。

帰雁

かへるかり空にもおもへ月花のふりすてがたき春のなごりを

【通釈】故郷へ帰ってゆく雁よ、空にあっても愛(いつく)しめ、月と花の見捨て難い春の名残を。

【補記】雁は桜の盛りの頃、北へ帰って行く。「おもへ」は名残を惜しみつつ月花を偲べということであろう。

【参考歌】九条良経「新古今集」
かへる雁いまはの心ありあけに月と花との名こそ惜しけれ

題しらず

おもふまじ思ふかひなき思ひぞとおもへばおもへばいとど恋しき

【通釈】あの人のことは思うまい。思っても甲斐のない思いなのだと、そう思えば思うほど、ますます恋しい。

【補記】同じ作者の同趣向の恋歌に「思へども思はぬ人を思ひそめ思ふ心の思ふかひなき」がある。

【参考歌】木下長嘯子「挙白集」
世々の人の月はながめしかたみぞとおもへばおもへば物ぞかなしき

題しらず

今日はとひ明日はとはるる夢の世になき人しのぶ我もいつまで

【通釈】今日は人をとぶらい、明日は人からとぶらわれる、はなかい夢のような世にあって、亡き人を偲ぶ私自身、いつまでの命なのだろう。

【補記】「とふ」には「見舞う」「弔う」などの意もある。制作事情は不詳であるが、母の十三回忌の際の歌「いつのまに十とて三の春秋を送り迎ふもただ夢のごと」に次ぐ歌群にある。

【参考】「白氏文集・対酒其五」(→資料編
昨日仾眉問疾来 今朝収涙弔人廻(昨日眉を()れ疾を問ひて来れり 今朝涙を収めて人を弔ひて廻る)
  嘉喜門院「嘉喜門院集」
昨日はとひ今日はとはるるあだし世の夢のうちなるゆめぞかなしき
  木下長嘯子「挙白集」
風になびく浅茅が末の露の世になき人恋ふるわれもいつまで

年比やしなひし犬の身まかりければ

ころころとよべどかへらず引く綱は死出の山路や引きまさるらん

【通釈】来い来いと呼んでも、戻らない。引綱は、死出の山路を越える時、いっそう強く引っ張るだろう。

【語釈】◇ころころ 犬を呼ぶ時の掛け声。◇引く綱 犬につけて引く綱。

【補記】長年飼っていた犬が死んだ時の歌。家畜の死を悼む歌は、中世以前にあったかどうか。少なくとも私は例を知らない。

辞世

何をこれと思ふことだにあらなくてひとよの夢ははやさめにけり

【通釈】この我が人生は何だったのか。何をこれと判断することさえないままに、一夜の夢はもう覚めてしまったのだ。

【補記】「ひとよ」には「一代」あるいは「人世」の意が掛かろう。作者が二十一歳で夭折する際の辞世三首中の一首目。続く二首は「梢よりあらそひ落つるもみぢ葉のもろくなりゆく我が身なりけり」「音にのみききしも今日は身の上にわけやのぼらん死出の山道」。


公開日:平成18年06月11日
最終更新日:平成22年07月31日