月花門院 げっかもんいん 宝治元〜文永六(1247-1269) 諱:綜子

後嵯峨院の第一皇女。母は西園寺実氏女、大宮院。後深草院の同母妹、亀山院の同母姉。
宝治元年(1247)十一月、内親王宣下。同二年三月、安嘉門院邦子内親王の猶子となる。両親の寵愛を受け、弘長三年(1263)七月、十七歳にして准三宮並びに院号宣下、以後月花門院(月華門院)を称す。文永三年(1266)に完成披露された続古今集には二十歳の若さで八首入集した。同六年三月一日、二十三歳で急逝。『増鏡』によれば、中将源彦仁(順徳院の孫。忠成王の子)及び頭中将園基顕の二人と密通し、子を身ごもった末、堕胎の失敗によって亡くなったらしい。続古今集以下の勅撰集に二十一首入集。

題しらず

あかずのみ見すててかへる桜花ちらぬもおなじ別れなりけり(新後撰108)

【通釈】まったく満足できずに、仕方なく見捨てて帰る桜の花よ――散らなくても、辛い別れであることは同じなのだった。

【補記】桜のもとを去る名残惜しさをしみじみと歌い上げた。

秋歌中に

いかなればいつともわかぬ夕暮の風さへ秋はかなしかるらむ(続古今369)

【通釈】どういうわけで、いつも決まって、何ということもない夕暮の風さえ、秋は悲しみを催させるのだろうか。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
夕づく夜さすや岡辺の松の葉のいつともわかぬ恋もするかな

【主な派生歌】
逢ふことはいつともわかぬ松の色の夕べはなどか風もかなしき(豊原統秋)

大納言典侍、里に侍りけるに、秋の頃、つかはさせ給ひける

秋の来て身にしむ風の吹くころはあやしきほどに人ぞ恋しき(玉葉1962)

【通釈】秋が来て身に沁みる風の吹く頃には、自分でも不思議なほど人が恋しいことです。

【補記】実家にさがっていた後嵯峨院大納言典侍(藤原為家女)に贈った歌。「人」は遠回しに大納言典侍を指す。返歌は「われはただ時しもわかず恋しきを人は秋のみおもひけるかな」。


最終更新日:平成14年11月09日