道元 どうげん 正治二〜建長五(1200-1253)

村上源氏の出。父は内大臣源通親とも、大納言通具とも言う。母は松殿基房の娘、伊子。
建保元年(1213)、十四歳の時、公円について比叡山で得度出家、受戒して仏法房道元を名乗る。まもなく叡山を下り、建保五年秋より建仁寺の明全(栄西門下)に師事し、天台教学や禅を学ぶ。貞応二年(1223)、渡宋。やがて天童山景徳寺に登り如浄禅師につき大悟。安貞元年(1227)帰朝し、建仁寺に入る。帰国後は『普勧座禅儀』『弁道話』などを著し、また深草の地に興聖寺を開いて禅の布教に専念した。寛元元年(1243)、越前に移り、大仏寺(のちの永平寺)を開き、名を希玄と改める。宝治元年(1247)、北条時頼の招きで鎌倉に赴くが、翌年には永平寺に帰山し、『庫院規式』、翌建長元年、『衆寮清規』を定める。建長五年(1253)八月二十八日、示寂。五十四歳。
著書には上記の他『現成公案』『典座教訓』『出家受戒作法』『正法眼蔵』『護国正法義』『三界唯心』などがある。歌集は『傘松道詠』と『同然禅師和歌集』の名で伝わる(前者は岩波文庫『道元禅師語録』などに収録、後者は春秋社版『道元禅師全集第七巻』などに収録)。勅撰入集は新後拾遺集に一首のみ。

以下には『傘松道詠』と勅撰入集歌より五首を抄出した。

草庵雑詠

草の(いほ)夏のはじめの衣がへ涼しき(すだれ)のかかるばかりぞ(傘松道詠)

【通釈】我が草庵では、夏の初めの衣更えは、涼しげな簾が掛かるばかりであるよ。

【補記】出家して修行する身にとって、春から夏に季節が変わっても、法衣を着替えることはない。ただ日差しを遮る簾の掛かることばかりが「衣更え」だとした。

題しらず

山のはにほのめくよひの月影に光もうすくとぶ蛍かな(新後拾遺699)

【通釈】山の稜線にほのかに現れた宵の月――その明りに照らされて、光も薄く飛ぶ蛍であるよ。

【補記】『傘松道詠』には「草庵雑詠」と題したうちの一首。

草庵雑詠

我が庵は越のしらやま冬こもり(こほり)も雪も雲かかりけり(傘松道詠)

【通釈】私の庵は越の白山、冬の間はじっとそこに籠っている。あたりは氷が張り雪が積もっているが、山の高いところだからすべてに雲がかかっているのだ。

【補記】道元開創の永平寺は白山連峰の西麓にあたり、白山信仰ともゆかりが深い。

【主な派生歌】
わが宿は越のしら山冬ごもり往き来の人のあとかたもなし(良寛)

礼拝

冬草も見えぬ雪野のしらさぎはおのが姿に身をかくしけり(傘松道詠)

【通釈】冬の枯草も見えずに降り積もった雪野原にいる白鷺は、おのれの姿の白さの中に身を隠しているのだよ。

【補記】「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり」(『正法眼蔵』)。

詠法華経

峯の色(たに)の響もみなながら我が釈迦牟尼(しやかむに)の声と姿と(傘松道詠)

【通釈】峰の色、谷川の響き、…そうしたものすべてが、私にとっての釈尊のお声でありお姿であるのだ。

【補記】「渓声便ち是れ広長舌、山色豈に清浄身に非ざらんや」(蘇東坡)を踏まえるか。

本来面目

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて(すず)しかりけり(傘松道詠)

【通釈】春は桜の花。夏は時鳥。秋は月。冬は雪が冷え冷えとしてすがすがしいなあ。

【語釈】◇本来面目 自然が本来有している実相。道元は座禅によって「自然に身心脱落」し、「本来の面目」が現前することを説いていた(『普勧坐禅儀』)。

【補記】宝治元年(1247)、執権北条時頼の招きにより鎌倉に下った折、時頼の北の方から求められて詠んだ十余首のうちの一首と伝わる。因みにこの歌は川端康成がノーベル文学賞受賞記念講演で引用して広く知られるようになった。

【主な派生歌】
形見とて何かのこさむ春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉(良寛)


最終更新日:平成14年11月21日