白萩 しらはぎ White bush-clover

白萩の花 鎌倉市二階堂にて

清澄な秋気を集めたように、白萩が咲きこぼれている。宮城野萩の変種というが、紅紫色の花とは大きく風情を異にする。
新編国歌大観で検索してみると、白萩を詠んだ歌は十首にも満たない。最も古い例は、藤原俊成の『古来風躰抄』に万葉集の歌として載せる、

吾が待ちししらはぎ咲きぬ今だにもにほひに行かな彼方人(をちかたびと)

になるが、これは万葉巻十「吾等待之 白芽子開奴 今谷毛 尓寳比尓徃奈 越方人邇」の「白芽子」を「しらはぎ」と訓んでのこと。「白」は五行思想では秋に相当する色なので、この歌の「白」は「あき」の当て字と見るのが現在の通説である。
そこでこれを除くと、正治元年(1199)に亡くなった平親宗(時忠や時子の弟)の『親宗集』に見える歌が最古の「白萩」詠になる。

三条姫宮の歌合に、雨中草花を

濡れ濡れも雨は降るとも見にゆかむ待ちし白萩花咲きぬらし

明らかに上掲の万葉歌の古訓を踏まえた歌だが、雨中に賞美する草花として白萩を選んだのは当時としては新鮮な趣向だ。

白萩の花 鎌倉市宝戒寺にて

正治二年(1200)の『正治後度百首』にも白萩の歌が見える。

草花   賀茂季保(すゑやす)

分けわぶる露は袂に慕ひきて色こそ見えね真野の白萩

真野の萩原を分けてゆくと、夥しい露が後を追うようについて来て、歩きづらい。白萩なので露に色は見えない、という歌だろう(白露が白萩を映しても色は変わらない)。真野は近江とも陸奥とも言うが、萩の名所とされ、白萩も生えていることが知られていたらしい。宝治二年(1248)の『宝治百首』にも「真野の白萩」を詠んだ歌は見える(下記引用歌)。

季保の歌は紅萩に対し白萩の無色であるところを趣とした歌であったが、室町時代の次の歌になると、白萩は「白」という色を持った花としてしっかりと把握されている。

『拾塵和歌集』 崎萩  大内政弘

ひく潮にかへらで波ののこるかと州崎にさける白萩の花

「引く潮に帰って行かずに波が残ったのか。そんな風に見えて、洲崎に咲いている白萩の花よ」。白萩を白波に擬えた歌だが、なるほど白萩の靡くさまは寄せる波を思わせる。

江戸時代にもいくつか白萩の歌は見える。

『琴後集』 白萩のゑ  村田春海

夕月のかげかと見しは白萩の露ににほへるしづえなりけり

白萩を描いた絵に寄せた画賛。白萩の花に置いたおびただしい露がほの白く映えているのを、夕月の光の反映かと見間違えた、という歌。実は夕月はまだ出ておらず、花の白さが夕露によってひとしお澄みまさり、黄昏時の庭にほのぼのと明るんでいたのだ。白萩独自の美しさも季感もよく捉えた歌だろう。

近代以後は白萩も好んで歌に詠まれるようになり、従来の紅い萩を凌駕するいきおいのようだ。

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  『宝治百首』(萩露) 寂能
うつろはぬ真野の白萩下葉のみおのがちくさにそむる露かな

  『衆妙集』(御庭の白萩ことしよりは色に咲きかはりけるを見て) 道澄
さらに絵もいかに及ばむ秋萩の白きを後の色になしても
  (御かへし) 細川幽斎
一たびは色かはるとも萩がえの白きをのちと又やたのまむ

  『亮々遺稿』(しら萩) 木下幸文
置くとしも花には見えぬ白露をかはる下葉の色にこそ知れ

  『寒燈集』会津八一
うゑ おきて ひと は すぎ にし あきはぎ の はなぶさ しろく さき いで に けり

  『鳥繭』 河野愛子
夜の萩白くおもたきみづからの光守れり誰か死ぬらむ


公開日:平成22年11月20日
最終更新日:平成22年11月20日

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