阿倍仲麻呂
あべのなかまろ
- 生没年 698(文武2)〜770(宝亀1)
- 系譜など 氏は安倍とも書く。父は中務大輔をつとめた船守。渡唐後は仲満と称し、のち朝衡(ちょうこう)と改めた。
- 略伝 霊亀三年(717)三月、第八次遣唐使の留学生として入唐(20歳)。同期の留学生に下道真備、留学僧には玄ムらがいた。唐の太学に学び、科挙に合格、唐朝の諸官を歴任した。真備・玄ムらは天平六年末、帰国の途につくが、仲麻呂は帰朝を許されず、その後も唐に留まった。天平勝宝五年(753)、遣唐大使藤原清河らと延光寺で鑑真に面会して渡日を依頼。その際自らも帰国を願って許されたが、日本へ向かった船は途中暴風に遭って難破、安南(ベトナム)に漂着し、再び唐に戻ることを余儀なくされた。のち、玄宗などに仕えて従三品の高位にまでのぼる。李白・王維ら文人と交流し、その詩はのち清乾隆帝勅撰の『全唐詩』にも収められている。宝亀元年(770)、在唐54年、73歳にして唐の都長安に骨を埋めた。贈従二品。承和三年(836)、聘唐使藤原常嗣らに付し、入唐して唐土で没した八人に位記を贈る。この際仲麻呂には正二品が贈られた。
関連サイト:阿倍仲麻呂の歌(やまとうた)
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