山部親王
やまべのみこ
- 生没年 737(天平9)〜806(延暦25)
- 系譜など 白壁王と高野新笠の子。能登内親王の同母弟、早良親王の同母兄。皇后藤原乙牟漏との間に安殿親王・賀美能親王・高志内親王を、夫人藤原吉子(南家是公の女)との間に伊豫親王を、夫人藤原旅子との間に大伴親王(淳和天皇)をもうける。子には他に、朝原内親王(母は酒人内親王)・長岡岡成・良峰安世(遍昭の父)・葛原親王(子孫は平氏となる)・万多親王(『新撰姓氏録』編者)・明日香親王・坂本親王・佐味親王・大田親王・仲野親王・賀陽親王・葛井親王・因幡内親王・安濃内親王・布勢内親王・滋野内親王・大宅内親王・高津内親王(嵯峨妃)・安勅内親王・大井内親王・紀伊内親王・甘南美内親王(平城妃)・駿河内親王・菅原内親王・賀楽内親王・春日内親王・善原内親王・伊都内親王(阿保親王妃)・池上内親王らがいる。漢風諡号は桓武天皇、和風諡号は皇統弥照天皇。
- 略伝 764(天平宝字8)年、仲麻呂の乱終結ののち、無位より従五位下に叙せられる。
766(天平神護2)年11.5、従五位上。
770(神護景雲4)年、父の立太子の後、8.28、従四位下侍従。同年10.1、父白壁王が即位すると(光仁天皇)、11.6、四品に叙せられる。
773(宝亀4)年1.2、母の罪により廃太子された他戸親王に代わり立太子。このとき37歳。山部親王の立太子により、天武・草壁・聖武の皇統は完全に途絶えることとなった。
宝亀10年7.9、腹心の藤原百川を失う。
781(天応1)年4.3、風病と老齢を理由に退位した父帝に代わり、践祚(桓武天皇)。辛酉の年における即位は、一説に辛酉革命を意識したものと言われる。同年4.4、弟の早良親王(32歳)を皇太子にたてる。山部親王の長男小殿親王はまだ8歳と幼かったため、光仁上皇の推輓により、仏教界に重きを置き人望もあった早良親王を立てたものかという。6.27、藤原魚名を左大臣とする。同年12.23、光仁上皇崩ず(73歳)。
翌天応2年閏1.11、氷上川継の乱が発覚し、母の不破内親王と川継の姉妹を淡路国に移配し、三方王らを左遷、大伴家持・坂上苅田麻呂らを現職解任のうえ京外追放に処する。さらに6.14、左大臣藤原魚名を罷免、大宰帥に左遷する。6.17、追放処分を解かれた家持を陸奥按察使鎮守将軍に任命し、蝦夷の反乱鎮圧にあてる。6.21、式家田麻呂を右大臣とする。
783(延暦2)年4.18、藤原乙牟漏を皇后に立てる。7.19、藤原是公を右大臣とする。
延暦3年5.16、遷都のため山背国乙訓郡長岡の地を視察させる。11.11、長岡宮に遷幸。遷都反対の声が強かったため、副都を難波から長岡に移すと称して新都を建設し、この行幸により実質的に遷都が実現された。続紀薨伝に、造宮使藤原種継が最初中心となって建議とある。半年の期間で遷都しえたのは、淀川の水運を利用して難波宮の建物を移築したため。また緊縮財政により小規模な宮都に限定せざるを得なかった。なおこの年は甲子にあたり、革命の年である辛酉の4年後天意が革まり徳を備えた人に天命が下される甲子革令の年とされる。また長岡京南効の交野は百済王氏の本拠地であり、桓武の母高野新笠が百済王系氏族であることの関与が指摘されている。
しかし遷都反対派は2年後の延暦4年9.23、長岡京造営工事を検分中の種継を暗殺。犯人として大伴竹良らが捕えられ、取調べの結果、故大伴家持らが共謀して大伴・佐伯両氏を引き込み、種継暗殺を計画、これを早良親王に報告後、実行したとの自白を得る。大伴継人・佐伯高成・大伴真麻呂・大伴竹良・大伴湊麻呂・多治比浜人(春宮主書首)らを主犯格として斬刑に処し、右兵衛督五百枝王は伊予国流罪。大蔵卿藤原雄依・春宮亮紀白麻呂・右京亮永主らは、隠岐流罪。東宮学士林忌寸稲麻呂は、伊豆流罪に処した。また皇太子早良親王を乙訓寺(現長岡市今里)に幽閉した。早良親王は10日余り後、船で淡路に移送の途中、高瀬橋(河内国、淀川の橋)のあたりで絶命した。同年11.10、天神を交野の柏原(現枚方市片鉾本町)に祀る。天神は旱天上帝。天帝とも言い、儒教の最高神で宇宙を司るとされる。冬至の日に都の南郊に天檀を設け、天帝を祀る中国の風習に倣ったものである。11.25、長男の安殿親王を皇太子に立てる。
786(延暦5)年1.17、藤原旅子(百川の第1女、この年大伴親王を生む)を夫人とする。
延暦7年5.4、夫人旅子(30歳)を失う。
延暦8年3.16、造東大寺司を廃止し、美術史上の「天平時代」に終止符を打つ。
延暦9年2.27、継縄を右大臣に任ずる。閏3.10、皇后乙牟漏、崩ず(31歳)。9.3、安殿親王が病を得る。この年秋から冬、豌豆瘡が流行し、畿内の30歳以下の男女はほとんど罹病したという。また大飢饉が発生。
延暦11年6.10、陰陽寮で卜定した結果、安殿親王の病は早良親王の怨霊の祟りと判明する。この年、奥羽・西海道諸国を除き、諸国の兵士を廃止し、健児の制を定める。主に地方の郡司の子弟などを採用。軍団の廃止は、農民の労役負担を軽減し、また軍団の私物化という弊害を除くためとされる。背景には、造都・征夷戦争による経済の逼迫と、国際的な緊張関係の消失の二点があった。
延暦12年、藤原小黒麻呂らを派遣し、遷都のため山城国葛野郡宇太村を視察させる。長岡京放棄の理由は、一説に早良親王の怨霊から逃れるため (喜田貞吉)。また延暦11年の水害が重要な契機となったとの説もある。同年3月、平安京の建設を始める。同時に難波宮を廃止する。
794(延暦13)年8月、右大臣継縄・皇太子学士菅野真道・侍従秋篠安人らに国史編纂を命ずる(3年後『続日本紀』として完成)。10月、新京遷都。翌月平安京と命名する。
延暦16年5月、宮中に怪異あり、早良親王の魂鎮めを行わせる。8月、神王(みわおおきみ)を右大臣に任ずる。
800(延暦19)年3月から4月にかけて富士山が大噴火。7月、怨霊鎮魂のため早良親王を崇道天皇と追称、井上内親王を皇后と追称、御墓を山陵と追称する。
延暦20年9月、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷を討伏、閉伊村までを征服する。12.26、使を派遣して聖武天皇陵を鎮めさせる。
延暦21年4.15、坂上田村麻呂が蝦夷の総帥アテルイの降伏を報告。8.13、アテルイらを処刑させる。
延暦23年7月、空海・最澄らを唐に派遣する。12.25、聖体不豫。
延暦24年3月、五百枝王・吉備泉・藤原浄岡・藤原雄依・山上船主らを免罪し、帰京を許す。夏、最澄が唐より帰国し、天皇の病気平癒の祈祷を行う。12.7、参議藤原緒嗣が陸奥進軍と平安京造営の中止を提言し、これを容れる。
806(延暦25)年3.15、病床に五百枝王を召し、翌日、従四位上に復位。氷上川継・藤原清岡を従五位下に復位。3.17、種継暗殺事件の連座者を本位に復す。家持、従三位に復位。また崇道天皇のため、諸国国分寺に金剛般若経を読ませる。同日、崩御(70歳)。剣璽は東宮(安殿親王)に奉じられる。「この日血ありて、東宮寝殿に濯ぐ」(『日本後紀』)。
関連サイト:桓武天皇の歌(やまとうた)
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