小倉百人一首 作者系図


【はじめに】
百人一首の歌人たちの血縁関係を見わたしやすいように、系図化してみました。タテのつながりが親子関係(養子の場合を含む)を、ヨコのつながりが夫婦・兄弟関係を示します。青い枠で囲ってあるのが百人一首入集歌人(右傍の数字は百人一首の登場順を示す番号)、赤い枠で囲ってあるのは天皇です。名前をクリックすると、千人万首または略伝のページにジャンプします。

【もくじ】
◆天皇とその周辺 ◆藤原北家 ◆その他の主な氏族

【メモ】
●天智天皇の子孫は、私の数え方では30名になる(下の系図に載せきれなかった源氏・平氏出身者が数名いる)。藤原不比等の天智落胤説を信じれば、藤原氏34名がこれに加わる。貞信公藤原忠平の子孫も多く、19名を数える。
●親子撰入例は18組にも及ぶ(『中古歌仙伝』『袋草紙』などに伝わる平兼盛―赤染衛門の父娘関係を含む)。三分の一以上の歌人が親または子とともに撰入されていることになる。下の系図に載せていない親子は壬生忠岑―忠見のペアのみである。
●三代にわたって撰入されているのは源経信―俊頼―俊恵の一例のみである。
●恋人同士は少なくないが、確実に「夫婦」であったと認められるペアは一例もなさそうである(ただし拾遺集の藤原実方の歌の詞書に「元輔が婿になりて」とあり、この元輔が清原元輔であれば、実方と清少納言は夫婦で百人一首に名を連ねる唯一のカップルである可能性が高いことになる)。
●藤原氏に次いで多くの歌人を輩出した村上源氏は、待賢門院堀河皇嘉門院別当の二名しか選ばれていないため、系図化しなかった。後鳥羽院の『時代不同歌合』では村上源氏出身者が師時・国信・雅定・待賢門院堀河・宮内卿と五名に及ぶのに対し(祖にあたる具平親王を加えれば六名)、百人一首での少なさはどうであろう。

【主な参考文献】
『尊卑分脈』(吉川弘文館 新訂増補国史大系)、『群書類従』系譜部・『続群書類従』系図部(いずれも続群書類従完成会)。




●天皇とその周辺

百人一首系図 天皇


●藤原北家

百人一首系図 藤原氏
藤原氏出身者は計34名に及ぶ。上図には掲載しきれなかったが、道因法師殷富門院大輔は定方の、家隆は兼輔の末裔である。また雅経は頼通の系譜に連なる。伊勢も藤原北家出身で、内麻呂の裔。西行も北家、魚名の末裔。敏行右近は南家、興風は京家出身である。なお基経は良房の、顕季は実季の、寂蓮は俊成の猶子。


●その他の主な氏族

百人一首系図 その他
和泉式部の父とされる大江雅致は系譜未詳(「大江系図」諸巻は信ずるに足らぬ)。とりあえず、匡衡の兄に擬定する説(岡一男著『源氏物語の基礎的研究』)に従っておいた。


百人一首目次


最終更新日:平成13年12月19日
天智天皇 持統天皇 志貴皇子 光仁天皇 桓武天皇 平城天皇 嵯峨天皇 業平 行平 仁明天皇 源融 源等 光孝天皇 陽成院 元良親王 源宗于 宇多天皇 醍醐天皇 遍昭 素性 伊勢 中務 村上天皇 経信 俊頼 俊恵 花山院 三条院 行尊 式子内親王 後鳥羽院 順徳院 円融天皇 一条天皇 鳥羽院 後白河院 崇徳院 藤原良房 忠平 時平 定方 兼輔 朝忠 紫式部 大弐三位 朝忠 敦忠 実頼 師輔 実方 公任 定頼 伊尹 義孝 儀同三司母 道綱母 定子 道長 道信 頼通 頼宗 長家 道雅 俊忠 基俊 忠通 慈円 兼実 良経 俊成 定家 顕季 公実 顕輔 公能 実定 清輔 公経 寂蓮 千里 兼盛 赤染 匡房 匡衡 和泉式部 小式部 相模 深養父 元輔 清少納言 舎人親王 長皇子 康秀 朝康 清麻呂 頼基 能宣 輔親 伊勢大輔 thanks!