塩焼王
しおやきのおおきみ
- 生没年 ?〜764(天平宝字8)
- 系譜など 天武天皇の孫。新田部親王の子。聖武皇女不破内親王を室とし、志計志麻呂・川継をもうける。天平宝字1年、氷上真人を賜姓され、以後は氷上真人塩焼と称した。
- 略伝 733(天平5)年3.14、無位より従四位下。740 (天平12)年1.13、従四位上。同年11月、正四位下。天平14年8.22、紫香楽行幸に際し前次第司。この時中務卿。同年10.12、女嬬四人とともに平城京の獄に拘禁される。同月17日、伊豆国三嶋に流罪に処せられる。745(天平17)年4月、山火事の続く紫香楽京に召還され、入京。天平18年閏9.7、正四位下に復位。756(天平勝宝8)年5月、聖武天皇崩御に際し山作司。翌勝宝9年4.4、孝謙天皇が群臣に立太子の件を諮問したとき、右大臣豊成・中務卿永手に推薦を受けるが、結局大炊王が立太子。5.20、正四位上。6.16、大蔵卿。7月、橘奈良麻呂の乱に際し、奈良麻呂の挙げた「四王」の中に含まれ、首謀者の一人道祖王の兄弟であることから配流とされるが、特に詔あり、父新田部親王(鎌足の娘五百重娘を母とする)の業績により免罪される(特赦の真の理由は、妻が聖武皇女不破内親王であったことであろう)。ただし新田部親王の旧宅は没官され、勅によって鑑真に与えられて戒院とされ、のち唐招提寺となる。翌年、氷上真人賜姓。758(天平宝字2)年、従三位。翌年、礼部(治部)卿。宝字4年6.7、光明皇太后崩御に際し山作司。宝字6年1.4、参議。4.1、信部卿に美作守を兼ねる。12.1、中納言。宝字8年8月、兼文部卿。同年9.12、恵美押勝が太政官印を盗み、宇治から近江へ向かい逃走する際、これに同行。押勝は氷上塩焼を帝に擁立し、太政官符を諸国に配布する。同月17〜18日、愛発関突破に失敗した押勝は高嶋郡を南下、三尾の崎で追討軍と合戦、反乱軍は敗走し、押勝は琵琶湖上で斬殺され、氷上塩焼も湖辺で斬殺される。
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