大伴坂上郎女 おおとものさかのうえのいらつめ
- 生没年 未詳(700前後〜750以後)
- 系譜など 父は大伴安麻呂(04/0528左注、「右郎女者佐保大納言卿之女也」)。母は石川内命婦(04/0667左注、「坂上郎女之母石川内命婦」。04/0518石川郎女「佐保大伴大家」と同一人)。稲公の姉(04/0586左注)。稲公は旅人の庶弟(04/0567左注)であるから、旅人の異母妹。家持の叔母、姑。
坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町、磐之媛陵付近=右図参照。一説に生駒郡三郷町立野)に住んだためという。なお「坂上郎女」はあくまでも親族内部における呼称(あだ名)であり、例えば藤原麻呂との贈答歌においては、単に大伴郎女と呼ばれている。
一説に、04/0519の作者大伴女郎―題脚に「今城王之母也今城王後賜姓大原真人氏也」とある―を坂上郎女と同一人物とし、穂積皇子との間に子今城王をもうけたとする。しかし大原今城の官位の低さや、万葉後期においては「女郎」と「郎女」の表記が明確に区別されているらしいことから、肯定できない(イラツメの表記については、石川内命婦の注を参照)。
- 略伝 初め穂積皇子に嫁す。715(霊亀1)年皇子薨去後、一説に宮廷に留まり命婦として仕える。この頃首皇太子(のちの聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉っている。養老年間、藤原麻呂に娉われる(04/0528左注)。養老末年頃、異母兄大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢・二嬢を生む(04/0759左注及び04/0761題)。宿奈麻呂の邸は田村の里にあった(04/0759左注。田村の里は現法華寺付近)が、この結婚期間夫と同居していたかどうかは不明。おそらく神亀元〜四年(724~727年)頃宿奈麻呂は卒し、後、旅人を追って大宰府に下向。帰京後は佐保邸に留まり、一家の刀自として、また大伴氏の巫女的存在として、また恐らくは家持の母代りとして等、様々な役割を担う。佐保・春日里・竹田庄・跡見庄など、各所で歌を詠んでいることが万葉題詞から窺える。
額田王以後最大の女性歌人であり、万葉集編纂にも関与したとの説が有力。万葉集に長短歌84首所載、女性歌人としては最多、全体でも家持・人麻呂に次ぐ第三位の数。相聞の多くは社交性・虚構性の強いものといわれる。
関連サイト:坂上郎女の歌(やまとうた)
大伴氏の歴史へ|系図へ