大伴連狭手彦
おおとものむらじさでひこ
- 生没年 未詳
- 系譜など 金村の子。新撰姓氏録には大伴連・榎本連の祖とある。万葉には大伴佐提比古郎子とある。
- 略伝 宣化天皇2年(537年)、新羅の任那侵攻に際し朝鮮半島に派遣され、任那・百済救援に活躍。肥前国松浦郡の娘子(おとめ)との悲恋説話はこの時のもの(肥前国風土記逸文、万葉05/0868~0875)。欽明天皇23年(562年)、大将軍に任命され、兵数万を率い、百済の計略を用いて高句麗を討つ。逃亡した高句麗王の宮に進入し、多くの珍宝・武器などを奪って持ち帰り、七織帳を天皇に献上した。武具並びに捕えた美女媛とその従女は蘇我稲目大臣に送り、稲目はこの二人を納れて妻としたという(書紀の分注には11年とある)。なお861(貞観3)年8月の伴善男の奏言によれば、狭手彦は金村の三男で、宣化天皇の代、新羅を征し、任那を復興し、百済を救けた。欽明天皇の代、高句麗の侵攻を受けた百済救援のため大将軍に任命されて高句麗を討った、という(日本三代実録)。
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