ゲーム研究室


モノポリーの真実

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モノポリーの真実

 今世紀最大のヒットゲームの一つであるモノポリーの発祥については、 有名な話がある。  世界恐慌の下、失業中だったチャールズ・ダロウという男が考案し、 大儲けをしたという伝説である。 この、まさにアメリカン・ドリームの話はモノポリーのセットに入っていたり、 紹介本に掲載されたりして、あたかも実話のように一人歩きしていた。  真実がそうでないことは、一部の間では知られていたことであったが、 特に面白い話でもなせいか、広まることは無かった。  しかし近年になって、その実話をモノポリーの発売元である ハズブロー社が公式に披露した、というニュースが入った。  この伝説化した話もモノポリーの重要な宣伝材料であることを考えると、 何かやむをえない事情でもあったのかと思われるが、ともかくも、 真実を公表するのは良いことであろう。  当ホームページでも、独自に調査した資料からモノポリーの生い立ちを明らかにする。

 モノポリーの誕生は1904年に遡る。考案者はエリザベス・マギー(Elizabeth Magie)という女性である。 彼女がいつ、どういう過程でそのゲームを思いつき、作り上げたかはわからないが、 1904年、ランドロード・ゲーム(Landlord Game)という名前でそれは特許(Patent)を取得している。

ランドロード・ゲーム

 ランドロード・ゲームは見ての通り、一辺が10マスの四角な周回コース、4つの鉄道など、 モノポリーの特徴を備えている。ただカードもカラーグループも無く、 ルールとしては非常にシンプルなものである。

 20年後の1924年、エリザベス・マギーはアルバート・フィリップという男と結婚した。 同年、アルバート・フィリップは20年の歳月を経て若干の変化を遂げたランドロード・ ゲームをパーカー・ブラザーズ社に持ち込んだ。 当時の社長であるジョージ・パーカーは、これを採用しなかったが、一応特許を取っておいた方が良いだろうと進言。 エリザベス・マギーは新たに特許を取得している。

 彼女は自分でこのゲームを販売していたが、 それを購入した者の中にルース・ホスキンスという女性がいた。 このルース・ホスキンスの兄弟とランドロード・ゲームをした人間の中にダン・レイマンという男がいた。 彼はランドロード・ゲームを若干改変しファイナンスというゲームに作り変えた。 このファイナンスはナップ・エレクトリック社より発売された。

 見ての通り、ファイナンスはさらにモノポリーに近くなっている。 今のモノポリーに比べると、交渉が無いのが異なっているくらいである。

 さて、ルース・ホスキンスは、インディアナポリスからアトランティック・シティーに移り住み、 ランドロード・ゲームの地名をアトランティック・シティーの地名に変えた版を作った。 そのランドロード・ゲームを一緒に遊んだ人間の中にチャールズ・トッドという男がいた。 彼、チャールズ・トッドはチャールズ・ダロウの妻であるエスター・ ダロウの高校時代のクラスメートだった。

 そんなわけでチャールズ・トッドは、友人のジェフ・レイフォードも交えて、 ダロウ家でランドロード・ゲームをすることとなったのである。時に1933年であった。 ランドロード・ゲームを遊んだチャールズ・ダロウは自分なりに改良し、 特許を取得して、販売を始めた。

 1934年、チャールズ・ダロウは、自作のゲームをパーカーブラザーズ社に持ち込んだ。 当時の社長はジョージ・パーカーの娘、サリー・バートンの夫、ロバート・バートンだが、 サリー・バートンの友人であるヘレン・クーリッジがダロウのゲームを買い、 面白いとサリーに電話していたこともあり、発売することとなった。

 パーカーブラザーズ社は、ランドロード・ゲーム、ファイナンスの版権も取得し、 1936年にモノポリーという名前で発売した。大ヒットを収めたことは皆の知るところである。

 エリザベス・マギーやダン・レイマンがいくらもらったかは知らないが、 たぶんこんなに売れるならもっと高く売るんだったと悔しがっていることだろう。 とくに、エリザベス・マギーに至っては嘘の伝説により考案者からも外されていた訳であり、 その悔しさはいかばかりだったろうと思う。

注:MONOPOLY(モノポリー)はパーカーブラザーズ社の登録商標です。


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