ゲームのイベント探訪記


ごいた


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 「ごいた」は石川県の能登に伝わる伝承遊戯である。将棋の駒のような道具を用い、4人で遊ぶ。遊び方は色冠という百人一首の遊びに似ている。発祥などは不明だが、明治時代にできたと言われている。昨今、能都町が保存と普及に力を入れ、ごいた保存会を結成。現在では年4回大会を開催している。8月の日曜日。のと鉄道で金沢から6時間(特急などを使えばもっと短い時間で済む)、能登半島の先端近く、能都町の中心である宇出津(うしつ)駅に着いた。

 まだ日は高いので、ホテルに荷物を置いて町に出る。町外れの公園を散策しての帰り、ホテルまで後2,30mというところで、ふと横を見ると、布浦という文字が目に入った。インターネットで「ごいた」を探すと、能都町商工会のホームページが見つかる。そこに出ている「ごいた」の由来に登場するのが布浦という名前なのである。一般的な名前ではないので、何か関係があるのでは、と思った私は、中に入り、出てきた女性にそのことを聞いてみた。夕食の時間まで後30分、だがそんなことは問題ではなかった。聞くと、やはりこの家はその布浦という家とのことだった。そこへ折り良く帰って来たのがご主人。つまり布浦家当代である。氏によれば、5代前の布浦清右衛門(せいえもんでなく、せいようもん、と読むとのことであった)が「ごいた」に関係している。作ったのか、広めたのか、それは良く分からない。布浦の家は商家でかなり手広くやっていたそうである。能都の港は北前船という商船の中継地で、蝦夷地や山形などと取引があったので、そなので当然といえば当然か。東京から見に来た、というと、ごいた保存会長、能都町商工会長などが次々と挨拶に来る。
 「渡辺文雄さんの関係ですか?」と聞かれ、「は???」。何でも数ヶ月前に日本テレビ「遠くへ行きたい」の収録でレポーターとして渡辺文雄が訪れ「ごいた」を持って帰り、スタッフの一人は大変気に入って東京支部長を買って出たそうなのである。テレビの関係者の人間性を良く知っている私は、2人とも今頃はごいたなんぞどうでも良くなっていると思いながら、話を聞いていた。
 会場前方には机の上に入賞者用の楯が置かれ、その前のホワイトボードには本日の予選・決勝の記録表と番付が張ってある。現在、年に4回大会を行っており、上位者にはポイントをつけ、その累計で番付を作っているとのことであった。楯には北國新聞社の文字があるが、関係者は来ていないようだ。金だけの協賛なのだろうか。  参加予定者は 名。球磨拳大会と同じくらいの規模である。会場は洋風の会議室だが、ビニールゴザを敷いて床に座れるようにしてある。ミニテーブルに将棋盤が乗っており、その上にごいた駒が載っている。その周囲に4枚の座布団と、スコアシート。              

 10時過ぎ。開会式が始まった。まず保存会の会長挨拶。次に商工会会長の挨拶。公民館長の挨拶と続き、本日の進行の説明、プレイ上の注意と続く。この模様をずっとビデオで撮影していたが、挨拶の中に「本日は東京からも見学の方が来られ・・・」「本日はカメラも回っておりますが・・・」などと、こちらを意識した言葉が入っているのには思わず苦笑。さて、いよいよ開始かな、と思ったところで、「本日はわざわざ東京からゲームの会の会長さんが来られております。一言ごあいさつをお願いしたいと思います。」の声。持っていたカメラを思わず落としそうになったが、そこは難なくこなす。

 くじを引いてゲーム開始。席は4人用で、周囲に1〜4,5〜8といった紙が貼っており、すべての席に番号が振られている。別に数字を書いた紙のくじが作られており、それを引いて席が決まるわけである。ゲームはペア戦であるが、ペアで申し込みにすると、やり慣れている人同士のペアは相手の考えていることがだいたいわかってしまうとのことで、そうでない組に比べて差が大きすぎるのでやめたとのことである。不正を防ぐ意味からも、その方が良いだろう。くじは1から番号が振られた紙を毎回引くだけである。我々が大会を行うと、同じ組合わせが無いように考えたりするが、そこまで厳密である必要は無いだろう。

 かくてゲーム開始である。ルールを読んでいたので遊び方はわかっていたが、実際やっているところを見ると、慣れている人間のやり方はわかりづらい。ルールでは自分の手番に受けの駒を出し、それから攻めの駒を出すようになっているのだが、2枚同時に出したり、攻めの駒を出したりするのが目についた。2枚重ねて出すようなことも見られた。ルールで禁じられていないのだろう。特にわからないのが、ゲームの終わりである。パッと出して、バタバタと終了してしまい、何の駒で上がったのかが良くわからないのだ。途中で終わってしまう場合はもっとわかりにくい。途中で終わる場合というのは、この後どうやっても絶対に勝ち、という場合に駒をまとめて出してしまうのである。いきなり駒をまとめて出したり、手元に駒が残っているのに全員駒を混ぜ始めたりしてしまうため、なぜ終わりなのか、どういう点数なのか、わからないうちに点数が付けられ片付けられてしまうのだ。ゆっくり考えれば、この駒を出すとこうなるから、こうなってこうなる、という一本道らしいが、この速さは経験の賜なのだろう。
 4回戦が終了すると、上位 人が選ばれ、決勝トーナメントに移る。この席もくじで決まり、ここで決まったペアは決勝まで動かない。
 残った(予選で終わった)人が、「ちょっとやってみませんか」と言うので、喜んで教わる。ルールは分かっているんだが、まったくの初心者と思われたか横に一人ついてくれる。駒を出すとき、自分ではこれだ、と思うのだが、勝手に出さずに「これですかね」と横に聞くと、「いや、こっちです」と指摘される。理由は良く分からないのだが、定跡のようなものがあるようだ。とはいうものの、それほど駒の種類が多くないため、難解ではないだろう。数回やればわかりそうな気がする。
 周囲で見ている者もいるが、多くは負けが確定すると帰ってしまうようだ。トーナメントが進むに連れ、会場は次第に寂しくなってくる。

 決勝が終わる。賞状の名前書きで簡単に始まれないのも田舎の大会、その空き時間に片付けをやってしまうのも田舎の大会である。かくして決勝戦を見ていた者も帰ってしまい表彰式が始まるときは、スタッフと表彰の対象者以外いなくなっている。いつの間にか北國新聞社の人間が来ており、優勝者に楯を持たせて写真を撮ると、そそくさと帰ってしまう。明日の新聞には結果が写真入りで載るのだろう。

 4時過ぎ、無事表彰式も済んで大会は和やかに幕を閉じた。が、私の旅はこれで尾張ではなかった。競技中、保存会長らしき人間が話しかけてきた。
「高橋さんは、今晩帰るんですか?」
「一応、金沢まで戻ろうと思っていますが・・・。特に用事はありません。」
「じゃ、良かったら、終わったらご一緒に。」
というわけで、終わったところで車に乗せられたのだが、車はなぜか、普通の家の前へ。優勝したおじさんの家のようだ。
「じゃ、ちょっと待っててね。」
優勝したおじさんが家の中に入り、布袋を持って出てきた。
「これ、ごいたの駒です。皆さんでやってみて下さい。」
これはありがたい。現在使用されている駒は、2,3年前に亡くなった前の保存会長氏の手作りで、一定数しかなく、保存会では遊び方の普及に加え、駒の製作にも力を入れているとのことであった。貴重な品である。

 続いて港近くのスナックへ。保存会一行の打ち上げ会場である。感想を聞かれ、率直なところを述べる。定期的に大会を開くまでになったのは素晴らしいが、今やっている人間だけで満足しているといずれ滅びる。普及を、特に子ども達への普及を行って欲しい等々。前には近隣の町などにも呼びかけたらしいが、どうにも人が集まらないらしい。また、ごいたをできる人は多いが、大会には強い人間が多いので参加を見合わせる人間がいることなどを聞いた。ペア戦のため、ペアを組んだ実力者にまずいプレイを叱られるのをいやがる人たちが参加を渋り、大会が一部の強い者だけのものになっているらしい。どこのゲームでも同様なことが起きているようだ。

 二次会はラーメン屋へ。看板はラーメン屋だが出てくるものは完璧に居酒屋である。ここでも、経験から得た大会の開催の仕方や注意点などを指摘したが、かなり参考になったようだった。

 いつしか時間は金沢行き終列車の時間を過ぎていた。メンバーの一人が「うちへ泊まって行きなさい」というので、お言葉に甘える。タクシーで元のスナックへ。ここのマスターだったのだ。昔東京にいたというマスター夫妻と話し込み、能登の夜は更けていったのである。


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