伝統ゲーム紹介


盤双六

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名称盤双六(ばんすごろく)
日本
概要  2人用のレースゲーム。24の区画の上を各自15個の駒を置き、 交互に2個のさいころを振って進め、先にゴールに入れた方を勝ちとする。
 西洋のバックギャモンに類似している。

古代

 中国の『隋書』の東夷伝の倭国(日本)のことを書いた文書に『棋博・握槊・樗蒲の戯を好む。』という記述があり、この握槊が双六の事であると考えられている。隋は581年から618年まで存在していた。日本では、「日本書紀」に天武天皇の十四年(681)に『辛酉に天皇大安殿に御して王卿等を殿の前に喚して博戯せしむ。』とあり、この博戯も双六だと考えられている。その8年後の持統天皇の三年(689)には『十二月己酉朔丙辰。禁断雙六。』(「日本書紀」)と、日本最古の双六の禁令が出されている。双六が賭博として盛んになったためであろうと考えられる。双六の禁令その後も天宝勝宝六年(754)に孝謙天皇の勅として出されるほか、幾度も出されている。博戯として遊ばれ続けたと考えられる。源氏物語、枕草子、徒然草にも双六が登場する。

中世

鎌倉時代には『徒然草』などの随筆、『明月記』などの日記、『古今著聞集』『今昔物語集』『宇治拾遺物語』などの説話集、『吾妻鏡』『平治物語』などの歴史書にも登場する。室町時代には『看聞御記』『言継卿記』などの公家の日記に登場する。双六を打ったという記述は前者に数十回、後者には数百回登場する。ただいずれも登場するのは双六という言葉や双六をしたと言う記録だけであって、その遊戯法などの記述は見られない。文安三(1446)年に編纂された辞書である『あい嚢抄(あいのうしょう)』には用具とその寸法が記載されている。

近世

 戦国時代、安土桃山時代には南蛮貿易によって西洋の双六、バックギャモンが日本に伝来している。日本国内で道具が作成された形跡はあるが流行したというような記録は見られない。江戸時代にも日記、物語、随筆など様々な史料に登場するが、ほとんど遊ばれなくなった。江戸時代後期の文化八(1811)年に『双陸独稽古』、文政十(1827)年に『双陸錦嚢抄』という双六の専門書が大原芳蔵菊雄によって書かれている。

近代

明治に入ると遊戯の専門書が何冊も出版され、盤双六の記述が記載されているものもある。また再びバックギャモンが伝えられる。明治に入って西洋よりバックギャモンが伝わったため、完全に姿を消したといって良い。

双六の遊び方(遊び方は一説です)

本双六

折り葉(下り葉、折り端=おりは)

柳(または、積み替え)

追い回し・追い廻し

大和

2014年、『盤双六の遊戯法についての一考察  −「双陸独稽古」「双陸錦嚢抄」は正しいか−』を発表しました。内外の様々な史料から考察すると、元々日本で遊ばれていた盤双六の遊戯法は大和であり、本双六は後世に伝わったものではないかと考えられます。過去の双六についての文献は「双陸独稽古」「双陸錦嚢抄」に遊戯法が書いていないことを見落としています。ご興味ある方はメール下さい。

「双六で振り返る2012年NHK大河ドラマ『平清盛』」

 

・長谷雄草紙(部分)

・鳥獣戯画(部分)

・彦根屏風(部分)

販売状況市販はされていない。まれに骨董店で販売されている。


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