津田理子出演の安川加寿子記念会の演奏を聞いて

演奏後ロビーにて
 2002年7月8日、東京文化会館でひらかれた安川加寿子記念会で、私ははじめて実演での津田理子女史の演奏を聞くことができた。プログラムはリストの巡礼の年第一年「スイス」より四曲が選ばれていた。

 彼女の音楽との出会いは随分前のことだった。津田女史が夫君の指揮するチューリッヒのオーケストラと演奏したショパンのピアノ協奏曲のCDは随分前から持っていた。1度聞いて平板な外観に秘められた深い魅力に気付くことなくそのままになっていた。チューリッヒのオーケストラを調べるついでに取りだして聞き返して、「あれっ」と思った。音に余裕がありテクニックが前に出てこないため、地味に聞こえるだけで、良く聞けば深い深いファンタジーがそこに広がっているのだ。

 それに気が付くと彼女の演奏は私の心に深く刻まれてしまった。大向こうを唸らせようと、無理な解釈で飾ることなく、ひたすら正攻法で作曲家に迫るという津田女史の真摯な演奏態度は、古典的な落ち着きと風格すら感じさせた。私はやはり鈍感であった。最初に聞いたときに気付くべきだった。
 それから二年。チューリッヒ在住の彼女のホームページを見つけ、失礼とは思いながらもメールをした私に御親切にもCDやいろんな貴重な資料を送って下さったのだ。それから彼女のホームページを作ることとなった。そして今日の演奏会だ。
 演奏の素晴らしさは以前より愛聴しているCDによって予想はついていたが、実際はそれ以上であった。「ウィリアム・テルの礼拝堂」での強烈なカンタービレと余裕のあるそれでいて極めて強靱なフォルテシモは、深い感動を私に与えた。テクニカルな部分でも彼女の演奏は常に余裕が感じられる点が素晴らしい。深いタッチで、音が硬くなることはない。全てが木質の自然さが良い。あの音はおそらく彼女の天性のものなのではないだろうか。今日は4人のピアニストによる演奏会であったが、彼女だけがその木質の音をもっていた。色んな美質を持つ4人のピアニストの演奏であるから、これが1番などということは出来ないが、それぞれのピアニストのその素晴らしい音楽性に深く感銘を受けたが、なかでも津田女史の響きの美しさに、私は自分のピアノの理想に近いものを感じた。
 「 ヴァーレン湖畔にて」の美しいさざ波は、リストとダグー夫人の逃避行の悲しい結末を想像させるしめやかさをもっていた。静かにさざ波が鏡のような湖水に広がっていく様子がやわらかな左手のアルペジオの向こうに描かれていた。それは見事というしかない。
 私はリストのメロディーというのは大変強いカンタービレを要求すると思う。それは手本にしたパガニーニのヴァイオリン曲と同様である。「 ヴァーレン湖畔にて」の右手のカンタービレは更に見事だった。
 「泉のほとりにて」のきらめくような響きは、彼女が第一級のピアニストであることを証明してあまりあるものであった。「エステ荘の噴水」の試作のような位置づけの曲であるが、交差するアルペジォはラヴェルの「水の戯れ」のようでもあり、これは実は隠れた名曲なのだ。それを津田女史は実に見事に弾ききってみせた。彼女のテクニックに余裕があることの証左である。
 「オーベルマンの谷」での盛り上がりはCDでの冷静な女史の演奏からしたら意外すぎるほどであったが、決して興奮にだけ身をまかせている身勝手な演奏ではなく、見事にコントロールされた響きに、心を打たれた。長い作品だけに、冷静になりすぎると曲がもたなくなるきらいが無きにしもあらず。だが、彼女はこの曲でパッションを爆発させる。単純なテーマを幾重にも飾り、変装して聞かせる。下降型のメロディーだけに深い憂愁とロマンチックな味わいが交錯し、この作品はリストの多くのピアノ作品の中でも私は傑作であると思っているのだが、いかがであろうか。津田女史の今日の演奏はこの傑作を、沸き上がる情熱でもって表現していた。美しい響きをもたらす柔軟なタッチからくりだされる素晴らしい演奏はアラウやボレット等の名演に決して劣るものではない。私はあのホロヴィッツの演奏をも思いだしていた。
 CDから受けた感銘の数倍もの感動をもって、私は彼女の演奏を今も反芻しては楽しんでいる。日本でのコンサートの後はニューヨークでのコンサートだそうだ。きっと彼女の媚びない、真っすぐに作曲家に向う真摯な姿勢はニューヨーカーの心をとらえるであろうと信じる。成功を祈ろう。