沖縄旅行記
2001/11/08
朝当直明けで8時30分家につき最終準備をする。早いかなと思いながら9時半に出発する。小型スーツケースと肩下げバックをもつ。パルサーで車で名古屋空港へ向かう。出発時間が決まっているので緊張気味である。11時頃には小牧につく。野球のイチロー選手の家の近くを見ながら、昼飯をスパゲティ、そして駐車場へ。そこから空港へ送ってもらう。12時半には着く。旅行社のデスク前に人はいないので、到着ゲートの椅子で座る。13時半にいくとすぐにチケット手配してくれた。各自受付をして、出発ゲートへむかう。セキュリティ・チェックも簡単でした。14時にJALの沖縄発があり、14時15分から全日空飛行機に乗り込んだ。767でまずまず乗っていた。曇り空なので、雲を上昇するあいだ揺れた。定刻の16時40分頃には那覇につく、海のうえを傾きながら低空になると、海と陸との間に那覇空港があった。風で少しふらついたが着陸した。沖縄は暑かった。もちろん名古屋が寒いからだ。到着ロビーに琉球衣装の人がいて、沖縄だと思っていたら、この人が我々のツアーのお出迎えの人でした。しかもこの便には我々夫婦2名だけでした。なかば催促されて記念写真を撮った。タクシーで那覇のホテルへいく。甲状腺学会の会場ハバービューホテルへいく。ジーンズは小生一人であった。スーツ姿のペコペコ挨拶している間を抜けて受け付けする。8000円で参加証をもらう。認定医の記入の用紙はなかった。そこから待ち合わせたタクシーに再び乗り、「かりゆし琉球ホテル那覇」につく。少し昔風の琉装の受付嬢がいた。部屋は和室であった。不思議な感じだった。当直明けから車で名古屋、それから飛行機で那覇ということで一休み。
17時半にH先生に電話すると19時にホテルへいくという。それでは二人で少し国際通りまで歩いた。Tシャツを買い、かりゆしウェア(アロハ?)を買った。早速着てみる。折角だからこのまま着ることにした。ホテルに戻ると19時前なのにH先生がいた。タクシーで「うりずん」へいく、沖縄料理を堪能した。泡盛ものんだ。H先生は物足りないが22時には疲労したので終了とした。年取ったが昔と一緒である。沖縄の話や昔の話を楽しんだ。H先生はユタという地域の霊能者の素質があると自慢していた。ホテルには大浴場もあるが疲れていたので、部屋のバスでシャワーした。
2001/11/09
朝なんとか起きて、朝食バイキングですます。韓国系のひとが多かった。そしてパッケージして8時30分にロビーにいると、ここで初めてツアーのメンバーが揃った。11名だった。沖縄出身の茨城の夫婦、横浜の物静かな父子、熊本の銀婚の夫婦、年老いた母と娘2人の集団だった。バスは大型で、添乗員小山内さん、バスガイド石川さん、運転手あかさんで、晴れた沖縄をまわる。守礼の門、首里城である。20年前は工事していたが、今は大体完成していた。青い空に赤い建物が生えた。右が日本風、左が中国風の建物になっていた。内部は資料館になっていた。「もてなし」の国、平和外交で中国ー日本の2つの国からうまく独立していた琉球王国の象徴である。高くなっていて那覇の町を一望できた。
それから高速道路にのり、一路名護へ向かった。これも以前にはなかった。1時間もしないでついた。北部は木が多く、パインとサトウキビ畑である。ツアーおきまりの「森のガラス館」へいく、オレンジの美しいぐい呑みを高いが2000円で買う。ほかに文鎮かわりのガラスを800円で買う。これもオレンジ赤が美しい。
すぐ近くの「やんばる亜熱帯園」で植物をみて、昼食である。我々だけがビールをのんだ。石焼きの菜めしである。意外と満腹である。のれんを2800円で買ってしまう。紅型じゃないと思うが、典型的沖縄模様である。そういえば、昔沖縄ののれんをかけていた。20年前の土産だった。かみさんはネックレスを買う。昔は買わなかったのに最近買いたがるのである。まだ安いものしか買わないので許せるが、そのうち高いものを買い出すかもしれない。
次は海洋記念公園である。ここは昔海洋博があり、20年前も行ったことがある。定番のイルカショー、水族館、エメラルド浜をみた。海は緑と青の美しい色で、絶対本土にはないものだ。サンゴの石をひらう。かなり歩いた。青空なのでボーとしていると最高だ。そこから、バスで万座毛へいく。象の顔をした絶壁をみる。若いアベックがずーと抱き合っていた。なんだこりゃ。ガジュマルの木もたくさん生えていた。土産物屋が並んでいる。
残波岬ロイヤルホテルには17時につく。立派なリゾートホテルである。部屋も広いし、きれいだ。海の見える11階は素晴らしい。バスも少し狭いが良好である。夕食がついているので、あわてて18時に中華店にいくが、19時の帰るまで3組だった。コースを食べると腹周りがきつくなってきた。おいしい! 夕食後たくさんある土産物屋で目の保養をした。ホタル石、ガラスだが細工で青藍色に色々な模様が光る。3000円できれいなものがあった。ゴーヤマンを700円でかう。かみさんはちいさなシーサが描かれた壁飾りを800円でかう。20時30分から琉球舞踊ショーがあった。酔っぱらいがいて、21時前に引き上げる。シャワーを浴び、「恋い休み」をみて静かに寝る。
2001/11/10
今日も晴れ。朝食はホテルでバイキングである。ジュースとコーヒーがおいしい。窓からきれいな海がみえた。8時30分昨日と同じバスとスタッフと出発である。すぐに「むら咲きむら」につく。ここはNHKの大河ドラマ「琉球の風?」のセットをそのまま残し、体験村にした。シーサーの色付けをする。かみさんは赤、小生は緑である。お手本通りに塗る。下手でいいのだ。大分の旦那さんが色つかい多彩に塗り上げたので、小生も塗った。オーバーデコレションになるのが恐いが、まずまずの出来上がりである。色数も5種である。すっきりできた。かみさんは少し塗りすぎかもしれないがきれいにできた。そのあと海岸に行き、白いサンゴの砂、緑の海をみた。あわててバスに帰った。次に座喜味城址にいく、空が曇りかけてきた。子供たちが清掃遠足に来ていた。観光のためか「こんにちは」「おだいじに」と声を掛けてくれる。後でH先生はそのように教育していると言っていた。気持ちよい物である。石垣たけだが高台にあり、眺めはよい。電信用の円筒形の電線装置も見えた。ホテルもみえた。少し黒い雲から雨粒が落ちてきた。
次はコザ中央アベニューをみた。アメリカ風の店が並んでいた。変わったアジアショップもあった。何でも100円のアウトレット店もあった。嘉手納基地がみえるサンパウロの丘へいった。単なるただの土盛りである。警察車両とカメラマンがカメラを車から突きだしたまま座っている姿が珍しかった。基地は変わらないが、戦闘機ではなく一般の飛行機が次々と着陸してきた。米軍関係者は普通の飛行機で嘉手納基地に着陸する。プラザハウスで完全にアメリカ風のショッピングコーナーの中華料理店で昼食である。いつものビールを飲む。おいしい。土産物屋でかみさんはサンゴのネックレスを子供たちに3個買った。
それから中部を横断して太平洋岸にでた。海中道路と橋をわたり浜比嘉島にまでいった。沖縄本島の近くにも多くの島が点在している。道路や橋ができて便利になったが、住民数は減り過疎がすすんだ。もちろんできなかったらもっとひどかったかもしれない。バス再び国道58にもどり、北谷村から浦添市から那覇市まで町並みが続いた。浦添総合病院はみえなかった。ホテルには16時30分に着いた。小休止して国際通りへいくことになった。
国際通りは土曜日でにぎわっていた。三越から市場通りへいき、公設市場もみた。サンゴのブローチが3000円が800円なので買ってしまった。もう土産や日用品がたくさん安くあった。びっくりである。金沢の近江町市場よりすごかった。そのままにしてあるのが素晴らしい。H先生に電話して、通りに面している照屋時計店の横の「会津」を探すことにした。しかしみつからない。交番に聞いたが、照屋時計店はない。山城時計店だということになった。探すと香港飯店の横に見つかった。しかし会津がない。店屋さんや案内板の所には看板がない。K先生から電話があり、香港飯店まで来たというので、合流して探すがない。酒屋にきくと、少し離れた川沿いのホテル「まきし」の地下にあった。しかし客は誰もいない。とりあえずそこでビールをのんだ。H先生から電話があったが、先生も移転していることを知らなかった。遅れて19時過ぎに揃った「うっちん茶」でのむと泡盛も悪酔いしないということで、飲みだした。K先生は血糖が200になりびっくりして食事と運動を毎日1時間ほど続けている。禁煙もしている。体重は20kg近く減り、75kgまでなった。確かに全体が小さくなった感じである。髪も少なく白髪であった。20時30分過ぎにK先生の奥さんも参加すると、奥さんは堂々たるもので、しゃべりも断定的な言葉が多い。K先生はすっかり大人しく無口になった。奥さんから小生がよくこのメンバーと続けられるね、と不思議がられた。7年上の先輩だが同等にタメ口で喋っている。なるほどと納得した。23時まで喋ると疲れ、次に行く元気なく、ホテルに戻った。シャワーを浴びて寝た。疲れたが楽しかった。昔と一緒だ。
2001/11/11
朝少し頭痛と疲労を感じて、朝食を取る。日航ホテルも外観に比べると今ひとつである。残波岬ロイアルがよすぎたためだ。8時40分に集合メンバーは9名になった。今日は南部である。町並みが切れると、岩が剥き出しの枯れた感じの風景になった。玉泉洞王国村へいく。鍾乳洞があった。始めに広い洞窟があったが、後は同じ様な鍾乳洞が続いた。竜が洞よりは広いが、残念だが今ひとつ単調であった。出てくると昔の民家を移転して、沖縄の工芸を展示してある。地ビールを飲み、ここで久田先生に勧められた「うっちん粒」を買う。春うこん粒である。小さなポケットタイプで800円と高めであった。
次はバスで数分の沖縄戦の摩文仁丘と平和の礎へいった。ここは広かった。各県各国の犠牲者の名前を刻んだ碑が並んでいた。空は曇り。碑の灰色と馴染んでしまった。クリントン大統領も献花した平和の礎をみた。すぐ海がみえた。帰りに宗教団体が奉納会を開いて、沖縄のエイサ踊りをやっていたので少し見た。平和記念館も興味があったが、時間がなかった。バスはまた数分走り「ひめゆりの塔」につく。土産物屋は多いが、塔は小さい。自然の洞窟である。そこに小さな塔があった。最初は個人が作ったらしい。それに賛同して、記念館などができた。洞窟は深そうだった。アフガンでもビンラデンはこんな洞窟にいるのかと思った。記念館は綺麗で、整理された展示であった。ひめゆり隊の一人一人のプロフィルを紹介することで十分戦争の悲劇が伝わる。かみさんも泣いた。ただ医師はどうだったのか?同業として興味があった。医師そのものがいなかったのか?記載は一人だけだったようだ。
沖縄見物も終わり那覇空港に向けて走り出した。ガイドの石川さんは3日間熱く沖縄を語ってくれた。日焼けした顔とたくましさは素晴らしい。9名しかいないのに変わらず仕事してくれた。お別れして空港でソウキそばを食べた、豚の角煮がはいっている。検問が丁寧なのでゲートへいくのに列が長かった。早めに着いたので十分だった。熊本行きが定刻過ぎているのに、乗客が金属探知器を通過していない客がいて、横はいりされてしまった。14時20分出発した。16時50分に名古屋についた。込み合っていた。寒かった。駐車場に電話して、迎えに来て貰い同乗していく。暗くなりかけてパルサーで高速目指した。迷うことなく、高速に乗り、18時20分浜名湖SAにつく。豚汁定食を食べて19時15分家に着いた。疲れた。
沖縄は近い。14時には沖縄なのに、19時には家にいた。
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