レバノン



(シリア編から)

1.復興の町(ベイルート、8月23〜25日)

 道を下った所にレバノン側イミグレーションがあった。 レバノンは内戦が終結してから10年くらいしかたってない。 そのせいか、役人は迷彩の軍服を着ていた。 軍が管理しているのかもしれない。
 国交の無いシリアからの入国になるからか?事前にビザを取得してなくてもイミグレーションで48時間無料トランジットから6ヶ月マルチまで様々なビザが取得できる。 支払は現地通貨レバノン・ポンドだけで、周辺の銀行はレートが1US=1,500LPを下回るので割高になる。 レバノンは岐阜県くらいの面積で、ベイルートとバールベック遺跡が見れればいいと思っていたので無料48時間ビザを申請した。
 スタンプにはレバノンの国章、レバノン杉がデザインされていた。 通常、国章にはイスラム圏の国は月と星、あとは鷲、インドの象、日本の菊の花と様々だが、木がシンボルなのは珍しい。

 バスはさらに高度を下げて畑が広がる農村地帯に入った。 時々ある町には両替屋、銀行があった。 銀行には大抵ATMがあった。 シリアにはダマスカスに少し見かけただけなのでまた発展した所に来たことを実感する。 レバノンは20年前の内戦に入る前まで中東の金融の中心だったらしい。 復興が進んで金融機関が充実したということだろうか? 今のレバノンではレバノン・ポンドと米ドルが平行して流通している。 米ドルの現金の入手がしやすいところだ。
 さらに進むとまた山道に入った。 今度はレバノンの海岸部と内陸部を分けるレバノン山脈だ。 こちらは2,000〜3,000m級のピークが並び、冬はスキーができるらしい。 交通量の割に道が整備されてなく、所々で道の拡張工事をしていた。 ファーストフードなど郊外型の店舗に混じって銃弾の跡だらけの廃虚の建物が散在していた。 交通の要衝を巡っての奪い合いの跡なのだろう。

 峠を越えてしばらく下ってから北西に大きな町が見えてきた。 ベイルートだろう。 この道は山道でかつ、幹線道路なので排気ガスが充満していた。 いずれ問題になるだろう。 バスは次第に高度を下げてベイルートの町に入った。 港湾地区を通り過ぎて午後2時過ぎにシャール・ヘローのバスターミナルに到着した。 宿はそこから歩いて数分のNew Talal's Hotel(D6,000LP)にした。

 宿に荷物を置いて散策することにした。 シャール・ヘローは町の東に位置し、その隣りがかつての町の中心だったが、内戦のために廃虚になって今は復興工事が行われている。 そこを境に西はイスラム教徒が、東はキリスト教徒が支配していたらしい。 しかし、撤去されたらしいビルの跡はビルが建っている所もあるが大抵はアスファルトで舗装されただけの広場だった。 復興地区はなんとなく中国の再開発地区に似ていた。 ちなみに宿の近くにはまだ撤去されてない崩れたビルが残っていた。 かなり復興されただろうが、町にはまだ崩れたビルがそのままになっていって、中には人が住んでいるスラム状態の所もあった。

 20年前の内戦は背景に周辺諸国や米ソの思惑もからんでいただろうが、要はキリスト教徒グループとイスラム教各派の派閥争いが転じたものだ。 どんなに繁栄しても、政府が機能しなくなるとあのような内戦で国が乱れるということなのだろう。

 復興地区を過ぎると段々オシャレな店が増えてくる。

2.オシャレな町でコーヒーを(ベイルート、8月23〜25日)

 ベイルートのハムラ地区はレストランやブティックが集まっている。 中東では有数のおしゃれな町らしい。 道行く女性はキリスト教徒が全人口の3割と周囲の国より多いこともあるだろうが、露出度が高い。 それでも、ダマスカス同様足を見せる現地女性はほとんどいない。

 ハムラ地区には書店も多い。 イギリスやフランスなどヨーロッパからの輸入が多く、その場で米ドルかレバノン・ポンドに換算してほぼ等価で購入できる。 そうした状況を反映してか、土地の人にはアラビア語、フランス語、英語の順に言葉が普及しているらしい。 事情はよくわからないが、もともと生活水準が高い所らしく、教育水準も高かったので同じく内戦から復興しているカンボジアとは状況が大分違う。

 そんなオシャレな町に東京でおなじみらしいスターバックス・コーヒーの店がある。 店員はキビキビ働いていて、英語が達者なのでとても便利だ。 ただ、コーヒーが4,000〜6,000LPと宿代と同じくらいで、恐らく日本と同じくらいの価格だろう。 しかし、それだけにうまいコーヒーが飲める。 コーヒーを飲みながら辺りを見回すとやはり中産階級の人達がくつろいでいた。 中にはノートパソコンを持ち込んで仕事をしている人もいた。

 久しぶりにエアコンが効いた落ち着いた雰囲気が気に入って2日通って10ドル以上使ってしまった。 こういう所ではケチケチしないほうがいいだろう。

3.古代ギリシャの神殿(バールベック、8月24日)

 レバノン2日目に古代ローマの遺跡が残るバールベックへ向かった。
 宿の近くのシャール・ヘローからバールベックへのセルビスが出ているコーラ・バスターミナルへ向かうバスがあるらしいが、行ってみるとなかなか見つからない。 近くのおじさんに聞くとセルビスを勧められた。 近くを通っていたセルビスに「コーラ?」と聞くとうなずいたので乗車した。
 所が、車は正反対の方向へ向かっていた。 隣りの席の人に聞くとやはり違うらしい。 この車はシャール・ヘローのさらに東の「ドーラ」へ向かうものだった。 いつもながら発音には泣かされる。
 運転手にコーラ・バスターミナルへ向かうセルビスを教えてもらってようやくコーラ・バスターミナルに着いた。

 セルビスはベイルートの町を東へ進んだ。 この辺にはまだ崩れたビルが建っていた。 復興にはまだ時間がかかるだろう。 その後、昨日通った山道の幹線道路を登った。 登るに連れて気温と湿度が下がって快適になった。 ベイルートは海に面しているので湿度が高く、蒸し暑い。
 峠越えが終わるとレバノン、アンチレバノン山脈に囲まれたベッカー高原に入った。 この辺はレバノンの穀倉地帯らしく、畑が広がっていた。 ブドウの栽培も盛んらしく、山梨県の勝沼みたいなブドウ畑が広がるところもあった。 所々に軍事基地があるせいか、セルビスに兵士が乗り込んでくることもあった。 この地域は保守的なイスラム教徒が多いらしく、訪れた当日は金曜日、イスラムの休日だったのでシャッターを下ろして休みにしていた店が多かった。 公式にレバノンの休日は日曜日らしいが。 そうした土地のせいか、ベイルートのように土地の奪い合いが無かったらしく、銃弾の跡は見かけなかった。

 コーラから2時間ほどでバールベックに到着。 ここで昼食を取った。
 シリアやヨルダンなど乾燥している土地では農業に不向きなせいか、食材が少ないらしい。 その影響か?外食の種類が少ない。 ピザ生地を薄くしたパンを巻いたサンドイッチかチキンの丸焼きの2種類だ。 ここで焼き肉を挟んだサンドイッチを食べてみたが酢が効いて意外とうまかった。 レバノンはアラブ圏の中では食事がおいしい所らしい。 ベイルートでは海に面しているため、イカや魚を挟んだサンドイッチもあり、こちらもまずまずの味だった。

 食事が終わると遺跡見学に向かった。 遺跡は1世紀から2世紀のもので、古代ギリシャ、ローマ遺跡らしく丸い石柱が建ち並ぶ神殿跡だった。 ここの神殿は規模が大きかったらしく、転がっていた石柱の直径は人の背ほどもあった。 また、酒の神様、バッカスの神殿が外壁がほぼ完全な形で残っていた。 神殿には近くのブドウからできたワインでも捧げられたのだろうか? 他にモザイク画と古代ローマ遺跡おなじみのものがあった。
 面白かったのは19世紀の修復時のものだろうか?19世紀の落書きが残っていた。
 遺跡の高台から周囲を望むと畑が広がる穀倉地帯だった。 やはり、経済的に恵まれないと大きな建築物を建てられないだろう。

4.海岸通を北へ(ベイルート→アリダ、8月25日)

 レバノン3日目の午前中はのんびりして、昼のバスでシリアの港湾都市ラタキアへ向かった。
 シャール・ヘローバスターミナルの切符売場へ行くとバスではなく、セルビスだった。 大した事ない路線だから仕方ないのだろう。 セルビスはほぼ満席で出発した。

 車はベイルートを東へ港湾地区を過ぎてから北上した。 道沿いには郊外型の店が建ち並んでいた。 沖縄の国道58号線の雰囲気だ。 2時間ほどしてレバノン北部の都市、トリポリに着いた。 まだ復興が進んでないのか?埃っぽいゴチャゴチャした町だった。 ここでも銃撃戦が展開されていたらしく、銃弾の跡が残る建物があった。 内戦は主に海沿いで展開されていたらしい。

 海岸通りをさらに進んでイミグレーションに着いた。 マイナーな国境らしく、プレハブの建物だった。 その割に混雑していたので時間がかかった。 無事出国スタンプが押され、再び車に乗って川を越えてシリアに再入国した。

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