中国華南



(香港2編から)

1.華僑の故郷(潮州、6月5〜8日)

 中国側の審査も待たされず、到って楽だった。 バスの車体を調べていたのだろうか?バスが来るまで待たされた。 待っている間に近くにいた男が唾を吐いたので中国に戻った事を実感した。

 バスは建設中でこれからの町と言った感じのほこりっぽい町を後に高速に乗った。 深汕高速と標識に書いてあったので汕頭まで高速が伸びているらしい。
 中国の高速道路は外から人が出入りしやすいらしく、途中でバスを待っているらしい人が路肩に立っているのを見た。 バスは過当競争らしく、一人でも多く客を乗せたいので空いていると乗せてしまうらしい。 そのため、事故が多いらしく途中で跳ねられたらしい男の死体を見た。 一応、インターチェンジではそうした事を防ぐために「歩行者進入禁止」らしい標識があるのだが交通安全教育が徹底してないので守られてないようだ。

 西安からの列車では広東省は山が多いイメージだったが、車窓からは日本並みに平地があることが分かった。 ほとんどが田んぼらしく、青い草の原だった。

 途中、1回休憩して昼過ぎに汕頭に着いた。 汕頭の町に入ると台湾みたいにスクーターがたくさん走っていた。 台湾企業の現地生産だろう。 バスは汕頭の高級ホテルをいくつか止まって、バスターミナルには行かずに市街地の高級ホテルで終点になってしまった。 香港の代理店がバスとホテルのチケットを売っているのだろうか?

 Lonly Planetの地図を頼りに市バスでバスターミナルに向かう事にした。 エアコン無しの路線バスが北京の倍、西安の4倍の2元だったのには驚いた。 それだけ物価が高いと言う事だろう。
 バスターミナルに直行するバスではなかったので途中で降りてバスターミナルに向かった。 そこは旧市街地らしく、古い建物が密集していた。 町並みはマレーシア・ペナンのジョージタウンに似ていた。 どちらが先か分からないが、東南アジアとの間に人の行き来はあったらしい。 バスで移動中にタイ文字も表記された看板の店があった。 タイで一旗挙げてから帰ってきた華僑の店なのだろうか? あと、公園に大阪府岸和田市と姉妹都市の関係にあるらしい看板が立っていた。 安土桃山時代ころに堺同様、岸和田も大陸と交流があったのだろうか?

 バスターミナルで食事を済ませてバスで潮州へ向かった。 車窓はなんとなくタイの田舎に似ていた。 田園地帯にタイでも見かける2〜3階建ての1階が店舗の建物が沿道に並んでいた。
 潮州の人は昔からかなりタイを始め東南アジアに出ていったらしく、現在のタイ人には潮州人の血がかなり入っているらしい。 タイの王様に潮州人との混血がなった事もあるくらいだ。
 バスは1時間後の3時前に潮州のバスターミナルに着いた。 宿探しには苦労した。 小さい町だが、汗が噴き出すほど暑かったのでたまらなかった。 結局1時間ほどしてバスターミナルから10分ほどの明興旅社(S50元)にした。 40元の個室もあったが、10元プラスでシャワー付きだったので50元の部屋にした。

 汕頭同様、潮州も旧市街地は東南アジアの中華街のような町並みで初めて来た感じがしなかった。 ここも中国の先進地らしく、コジキがいるものの小奇麗な服装をした人が多く、その辺に唾を吐く人が少なかった。 大声を出す人は少なく、穏やかな感じの人が多い。

 夜になると夜市が立つ事も暑い東南アジアと似ている。 食べ物も東南アジアにかなり影響しているのだろう。 タイやインドネシアで見かけた魚のダンゴやシンガポールで食べた土鍋に入った鍋焼きご飯や鍋焼きお粥があった。 味付けは辛くはないが、油と塩が控えめだった。 具沢山のおいしいちまきもタイで食べた事がある。

 この地域では、広東語ではない福建語に近い方言の潮州語が主に使われているらしい。 食事をしていて、店の人に日本人ということが分かると「ジップンギア」と言っているのが聞こえた。 ちなみに台湾語では日本人は「ジップンナ」である。 土地のケーブルテレビでは潮州語のチャンネルがあって、潮州のニュースなどを潮州語で放送していた。 「日報」を「リーバオ」ではなく「ジッポウ」と発音していた。

2.客引きに付き合うと(潮州→廈門(アモイ)、6月8日)

 潮州から別の漢民族のグループ、客家が多い広東省梅州へ向かうことを考えたが、不便らしいので後回し(後で鉄道を調べると汕頭、潮州から1日数本、潮州から所要2時間で結ばれていることが分かった。)にして福建省の港町、廈門へと向かうことにした。

 早起きすれば7:00に廈門の隣町の章(本当はさんずいが付く)州までのバスがあり、乗り換えれば廈門まで時間がかからないだろう。 ところが、寝坊をしたので一旦汕頭に出てから廈門へ向かうことにした。
 汕頭のバスターミナルに着くと廈門行きは出たばかりらしいが、どこからともなく男が現れて廈門行きがあと30分ほどの11時20分に出るらしいことを言った。 付いて行くと大宇のバスの車体の写真を指差して「バスはこれだ!」らしいことを言った。 到着は午後4時らしい。 宿探しを考えて早めに廈門に付きたかったのでこのバスに乗ることにした。

 時間になると、日本だったらとっくに廃車になっているボロボロのバスが来た。 このバスはあちこちに隙間があいていて雨漏りはしなかったものの雨が降ると脇の隙間から水が流れてきた。 一応空調付きでこちらはちゃんと作動していたが、どこかの田舎から来たらしい中高年の4人組が窓を開けたので暑かった。 正直な所、彼らは経済成長から取り残されたクラスで教育を受けていたかもわからない感じがした。 10年前の旅行記によく見られた「中国人」の典型だ。 だが、あとで気が付いたが乗り物に慣れてないだろうから乗り物酔いをしただけだったらしい。
 快適度が低い上にこのバスは遅いというおまけまで付いていた。 廈門へ向かうバスに何台も抜かれて潮州から13:00に出たバスに抜かれた時はさすがにがっくりした。

 車窓は広東省ではまだ平らな土地があったが、福建省に入ると山ばかりになった。 これでただでさえ遅いバスがますます遅くなってしまった。 しかし、章州近郊になると水田や花畑が増えてきた。 福建省といえばお茶の産地だが、日本のような茶畑にしないのだろうか?それとも章州周辺はお茶の栽培をしてないのだろうか?

 章州からさらに進むと海岸に出て、シンガポールとマレーシアを結ぶコーズウェイのような橋を渡って島に上陸した。 この島が廈門で、この時始めて廈門が島ということが分かった。 橋を渡る前から遠くに大きな吊り橋や高層ビルが見えてきたので大連同様、近代的な町ということも分かった。 橋を渡るとコンテナが山積みになっていて、港の規模がうかがえる。 町はやはりモダンだが、橋に交通が集中しているので渋滞していた。
 渋滞したこともあってバスが終点に着いたのは2時間遅れの6時だった。 今までの経験上、バスがこの程度遅れるのはまだ許せるし、バスの車体が写真と実物と違うのは半分想像していたが、最初からバスターミナルで切符を買っていたらこれよりは快適だっただろう。

 バスを降りると宿の客引きがやってきた。 一人は300元の部屋だったので断ったがもう一人は30元だったのでとりあえず見るだけにすることにした。 行ってみると受付の料金表には安い所が70元だった。 客引きは30元の所があるらしいことを言ったので部屋を見ると蛍光燈がちらついていたのでパスした。 今度はエアコン付きの部屋を案内した。 部屋自体に問題は無かったが、80元だったのでそこもパスして早々に立ち去った。 客引きは代理店で企画しているツアーに参加しろらしいことを言ったが断った。 どうやら、実際より安い部屋を紹介して他から儲けようということだったのだろう。 客引きは役に立たないらしい。
 結局、宿はLonly Planetで紹介されていた霞渓旅社(S35元)にした。

3.ここもモダンな港町(廈門(アモイ)、6月8〜13日)

 暑さ、湿気でばてていたので廈門到着の翌日は休養して翌々日に19世紀中頃から戦前まで廈門がもっとも栄えた時の名残の洋風建築が多数残っている鼓浪嶋(Gulangyu)に渡った。 島で一番高くて眺めのいい日光岩周辺以外は庶民が住む住宅地だったが、建物のほとんどは19世紀風の煉瓦作りの洋館だった。 細い道が多く、静かな感じが長崎みたいだった。 もっともこちらは過疎化が進行してないのか?子供達の姿も見えた。
 ここは中国の中でも落ち着いた雰囲気のいい所らしい。

 さすがに老朽化した建物が多いので市政府あたりで建て替えを進めているらしいが、他の町みたいに高層ビルや高層アパートだらけにするのではなく昔の雰囲気を残した建物を建てている所が賢い。
 大抵の中国の町で再開発を終えた所は30年前のSFアニメーションみたいなビルばかりの町並みで木が少なく、暑い日は日陰が無いのでとても暑く感じる。 寒い日は風が強く吹いて一層寒くなるのだろう。 日本の京都駅などその土地の景観や気象条件を無視した設計は周囲から浮いてしまい、暑い日は一層暑く、寒い日は一層寒いので利用者に不便を強いることになる。

 旧市街で商業地区らしい中山路周辺は外見は昔のままで手を付けてない。 歩道の上に建物の2階がせりあがっていて雨の日でも傘をささずに歩く事ができる。 これでコンビニがあれば台湾の地方都市みたいだ。 
 言葉も台湾語に近い福建語で「チーアッ」とか「ピーアッ」と言うのを良く聞く。 マレーシアの中国系も近い言葉を使っているのか?良く聞いた。 ここから東南アジアへ旅立った華人は多いのだろう。 こちらの言葉で「日本人」は台湾語と同じで「ジップンナ」となる。

4.快適な移動(廈門→泉州、6月13日)

 廈門から泉州までは32元のハイデッカーの大型バスと19元のボロボロの小型バスが1時間に3便くらいある。 客引きのボロバスに懲りたので今回は32元の大型バスに乗ってみた。 やはり快適度は全然上で、エアコンが必要なほど暑くはなかったが窓は開かない様になっていたのでエアコンを使っていても窓を開けるという非常識な事ができない。 それ以前にその辺に唾を吐いたりゴミを捨てたり何をしだすか分からない田舎の人はボロボロのバスに乗るので平和だった。

 火車站前のバスターミナルを出たバスは再びコーズウェイのような廈門大橋を渡って本土に戻った。 廈門島内はバイク乗り入れ禁止だったらしく、再びバイクがたくさん走るようになった。 バスはしばらく国道を走ってから高速道路に入った。 高速道路は名前が泉廈高速だったので泉州から先は未開通なのだろうか?
 車窓は日本のような山と田園風景だった。 茶畑はもっと内陸に行かないと見れないのだろう。
 廈門、泉州間約100kmをバスは1時間少々で走った。 やはり快適だった。

 宿はバスターミナル近くの服装招待所(S40元)に宿泊した。 Lonly Planetによると相部屋で45元というのが紹介された中で一番安い所だが、日本人なら火車站やバスターミナル近くを探せば10〜20元の相部屋やトイレ・シャワー共同だったら30〜40元、トイレ・シャワー付きだったら50元からシングルに宿泊できる。 南部沿岸の地方でこれくらいらしいので内陸部ならさらに安くなるかもしれない。
 部屋のテレビには潮州同様、泉州のケーブルテレビでも福建語の講談と料理番組が放送されていた。 多分、他にも福建語プログラムが用意されているのだろう。

5.労働者諸君!(泉州、6月14日)

 泉州は13世紀に中国(当時は元)を訪れたマルコ・ポーロがここからイタリアへ戻る航海を始めた所で、「エジプトのアレキサンドリアと並ぶ世界最大の商業港」との記述を残している。
 しかし、今の泉州はその面影も無く、再開発がほぼ終わって横浜にあるニチイのショッピングセンター、マイカル本牧みたいになってしまった。

 そんな泉州にも昔の交易時代と華僑が旅立った時代の面影を残している所がある。 泉州に着いた翌日に泉州華僑歴史博物館と開元寺を訪れた。

 泉州華僑歴史博物館は華僑の組織が建てたものらしい会館の中にあって、宋時代から始まった泉州人の海外への植民から清末、戦前の移住の背景や移住の様子と移住者のパスポートなどの渡航書類、東南アジアを中心に日本、アメリカ、ブラジル、ヨーロッパなど世界各地にいる泉州人の国別数の地図が展示されていて面白かった。

 開元寺は唐時代に開設された寺院で、現在の建物は明か清時代のものだろう。 木が多いので木陰を求めた市民がくつろいでいた。
 木陰を歩いていると、後ろを歩いていた二人組みの女の子がクスクス笑っていた。 どうも私が着ていたTシャツの背中に書かれたことらしい。 Tシャツは横浜郊外の大船にあった映画会社の松竹のテーマパークで買ったもので、背中に映画「男はつらいよ」で渥美清扮する寅さんがよく使ったセリフ「労働者諸君!」が書いてある。 別に共産党員のウケを狙ったわけでなく、適当なTシャツがなかったから持ってきただけだった。
 3年前に台湾を訪れた時にテレビで台湾の鉄道マニアが出演していたトーク番組を見ていると昔の切符の裏に「大陸反抗、同胞を救え!」と言った政治的スローガンが書いてあって司会者と出演者一同大爆笑だった。 彼女たちも同じ感じで「今さらなんなの?」と思ったのだろうか? それに気が付いた時、新しいTシャツでも買おうかと思った。

 開元寺の一角に泉州近郊の干潟から発掘された宋時代の船を展示した博物館があった。 展示されていた当時の学術雑誌には長さ24.2m、幅9.15mと書いてあった。
 船自体は船体の下半分が残っただけだが、陶器、スパイス、織物などたくさんの積み荷が残されていて当時の交易の様子や造船技術を知る上でかなり重要なものだ。 発見された当時は世界の注目を浴びたらしく、日本からも神戸商船大の教授が訪れている。
 博物館では船体や積み荷の一部が展示されていて、泉州で一番面白い所だった。

6.人民ワールドに戻る?(福州、6月15〜17日)

 泉州から福建省の中心、福州までの移動もハイデッカーの高速バスを利用した。 ドイツ製らしいバスだと60元だが、桂林にある韓国大宇との合弁企業製のバスは52元と少し安い。 韓国製のバスは故障しやすいという噂だが、あまり人気がないらしい。 次のバスは韓国製らしい。 どうなる事やら。

 バスは外見や内装はきれいなハイデッカーで特に問題点は無かった。 バスには二十歳くらいの女性の車掌が添乗していて、お茶のサービスをしていた。 彼女は中国の南方の子にしては背が高く、スタイルが良かった。 飛行機を意識したサービスのつもりだろうか? この子が日本か香港で育ったらどうなっていたか?などと余計な事を考えてしまった。

 車窓は田園風景と山で、泉州と福州の間には山地があってトンネルがあったりした。 ここでも茶畑は見られなかった。
 約2時間後にバスは問題なく福州火車站近くの北バスターミナルに止まった。
 バスターミナルは市街地のはずれにあったのでホテルが多い所に旅社や招待所があると思ったが、意外にもホテルの多い地区は再開発済みで目的の宿が無く宿探しは苦労してしまった。 バスで火車站に戻ってみるとバスターミナルの北の通りに旅社が何軒かあった。 30元のトイレ・シャワー共同のシングルもあったが、余計な体力を消耗してしまったので三泰飯店住宿部のトイレ・シャワー付きシングル50元にしてしまった。 宿のおばさんたちは感じが良くて、チェックアウトの時に「また来い」と言われた。

 宿に荷物を置いてから火車站周辺を散歩した。 その時に価格が似たりよったりで新しい宿数軒発見して少し後悔した。 さらに火車站から外れると、再開発から取り残された古い建物の多い庶民的な地区になった。 中国北部の田舎の人達よりはきれいな格好をしていたが、あまり豊かな感じはしなかった。 でもここは笑顔と居眠りをする人が多いのんびりした一画だった。 そういう所だけでなく、福州の人は人はいいらしいがそこら辺に唾を吐いたり大声を出す人が結構いた。 バイクは汕頭、泉州に比べて少ない気がした。 平均所得が経済特区の汕頭、廈門に比べて低いらしい。 廈門から北上するにつれて人民ワールドに戻りつつあるようだ。
 言葉は廈門、泉州の「チーアッ」とか「ピーアッ」を使わないらしく、早口なのか?発音が違うのか?違う言葉の感じがした。 廈門、泉州は平野でつながっているが福州は山で隔てられているからか? でも、福州のケーブルテレビの福建語ニュースでは「チーアッ」と「ピーアッ」を短く発音していた。
 福建華人は廈門、泉州が多いのだろうか?

7.寝台バスは快適か?(福州→温州、6月17、18日)

 できるだけ昼間に移動して車窓を楽しみたかったのだが、福州の次の目的地、浙江省の温州まで12時間近くかかるらしいので寝台バスに乗ることにした。
 福州に着いた日に同じ時刻に出発するバスを見に行ったが、シートに白い清潔そうなシーツが広げてあったのでマシな寝台バスと思い安心した。

 当日の午後5時にバスターミナルに行くと以前乗った寝台バスと同じ程度のボロバスだった。 板で仕切られている寝台の長さは身長160cmくらいの人なら体を伸ばせそうだが、大抵の人はそうは行かない。 横に二人、一人だったので人口密度の点では横に二人、二人の以前乗ったバスよりはマシだが・・・。
 バスには寝台が2段になっていて、今回は運悪く上段だった。 しかも後ろなのでデコボコがあったり段差があるとジャンプしてしまうことすらあった。 ハイデッカーからボロバスまである福州から南の路線に比べてこんなバスしかない北側の路線は往来があまりないのだろう。

 暗いながらも車窓からそのことがうかがえた。
 福州から北の高速道路は建設中らしく、福州を出てから2時間後に高速に入った。 バスは6時に出ていたので距離400kmで全て高速なら夜中の0時に着いてしまうのでは?との不安があったがすぐに高速を降りてカーブの多い山道になった。 途中、霧が出てヒヤっとした所もあった。 これなら変な時間に着かないと逆に安心してしまった。 山肌に独特の刈り込まれた木の茶畑があった。 やはり内陸にあった。

 眠れないと思ったがいつのまにか眠りに就いてしまった。

(中国江南編へ)

(中国江南編から)

8.広州は危険な町?(上海→広州、7月4〜5日)

 最初の予定では上海まで行ったら香港に戻ってチベット行きに備えて靴など足回りの準備をして香港のG.P.O(中央郵便局)に届いた手紙を受け取ってチベットへ向かいチベットからネパールへのヒマラヤ越えをするつもりだったが、肺の機能が回復してないのでチベット行きができなくなった。
 そこで、以下のように予定を変える事にした。

1.手紙が届いているかもしれないのでとりあえず香港に行く。 また、7,8月は標高の低い所は非常に暑いので標高の高い雲南省で避暑をして休養する。 できれば四川省成都に出て、間もなくダム建設のため出来なくなる長江三峡下りの船に乗って武漢まで出て、そこから香港に戻る。
2.香港でパキスタン・ビザを取って涼しくなる9月ごろに甘粛省に行ってそこから新疆ウイグル自治区をまわって10月末にカラコルム越えをしてパキスタンに出る。

 上海から香港まで直通の列車があるが、二等寝台の硬臥の運賃が530元なのと広東省の客家の里、梅州まで行ってみたかったので広州まで行く事にした。
 上海から広州までは直通列車が日に3本と意外に少なく、1本は南京始発で上海は深夜2時頃の出発になる。 2本目は朝9時40分に上海を出て翌朝9時に広州に着く良い時間帯なのだが、2日に1本で鉄道の窓口で聞いても予約は難しい様だ。 3本目は夕方の17時に上海を出るのだが、広州には翌日の夜7時半に着く宿探しには条件の悪いものだが、これは指定した日の翌日のものが空いていたので選択の余地は無かった。

 当日に乗車すると前より子連れのグループが増えたような気がする。 近所に日本語が話せる青年がいたので聞いてみると夏休みが始まったらしい。 彼は雲南省出身だが、上海から90kmほどの江蘇省蘇州の大学を卒業したばかりで、これから広州に就職に向かうところらしい。 これからは観光地は混み合うのだろう。

 列車は高層ビルが立ち並ぶ上海の町を後にして田園地帯を通って夜に杭州東火車站に着いた。 暗くなるとする事が無いので9時には横になった。

 翌朝、明るくなったのは江西省の北部だった。 「江」という名前の通り、この省も長江の水系で地図を見ると[番+おおざと]陽湖という大きそうな湖がある。 車窓は以前通った湖南省に似ていて低山と田園風景にホコリが染み付いた服を着た田舎の人が歩いたり自転車に乗ったりという風景が続いた。 あまり豊かな所ではないらしい。
 昼前に湖南省の株州に着いて北京から広州を結ぶ京広線に入った。 ここまで上海から1,155kmを18時間かかっている。 大体時速65kmくらいだ。 ここから広州まで655km、8時間かかるので時速80kmとかなり速くなる。 北京から上海、広州など主要都市を結んでいる鉄道は整備されている様だ。

 広州に着く前に腹ごなしに丁度いい所がある。 快速などは広州の200km手前に韶関という所に最後に立ち寄る。 そこではおばさん達が広東名物の[(保)の下に(火)]仔飯という取っ手の付いた土鍋にご飯や具を入れて炊き上げたものをワゴンに載せて待ち構えている。 [(保)の下に(火)]仔飯は蓋を開けてレンゲや箸でほぐしながら食べる。 アツアツでホクホクしたご飯がおいしい。
 食べていると周囲の視線が気になった。 火車站のホームや車内で売っている弁当は大抵10元する。 町の大衆食堂の2倍くらいかかる。 今まで乗車した硬臥の乗客は何の抵抗も無く買っていたが、今回はあまり買っている人を見掛けなかった。 上海人は財布の紐が固いのだろうか?

 定刻より30分遅れの夜8時前に広州に着いた。 列車から外に出ると暑くて湿った空気に包まれた。 上海よりはるかに湿度が高いらしい。

 今回の話し相手だった日本語が話せる青年とは改札を出てから別れるつもりだったがなかなか離れない。 今夜の宿は火車站から離れた沙面島にある広東省外弁招待所(D50元)にするつもりで火車站から5路のバスが出ていると英字ガイドブック「Lonly Planet」に載っていたのでそれを話すとあちこちに聞いてくれた。 その結果彼は「今は夜で危ないからタクシーで行った方がいい。」と判断した。
 広州火車站周辺は昔から職を求めて田舎から出てきた人で溢れて中には盗みを働く者がいることで有名なのは知っていた。 そこで素直に彼の忠告を聞いてタクシーに乗る事にした。

 広州だけなのか?中国全体がそうなのか知らないが、広州火車站前のタクシー乗り場では乗客が目的地を運転手に言って運転手が了解したら乗るということになっているらしい。 日本と違ってその土地の地理を知らなくてもやっていけるらしい。 運転手の立場では営業を始めるのに融通が利く、お客から言わせてもらえばいい加減ということらしい。 広州は広い町なので東京と同様、生まれ育ったとしても自分に関係ない土地の事は知らないのだろう。 あるいは地方から出稼ぎに来た人でも簡単に運転手になれるかもしれない。

 私達が乗ったタクシーの運転手は沙面島のことは知らなくて、近くの黄沙という土地は知っていた。 運転手はとりあえず高速道路に乗って黄沙まで行ってそこで携帯で聞いたり近くにいた他のタクシーの運転手や公安に聞いて招待所の前に止まった。 フロントに行って聞いてみるとベットは空いていた。 その様子を見て青年は安心して去った。 火車站からここまでの運賃が20元かかった。 青年は荷物が多かったし付き合ってきれたので手ぶらで帰すわけには行かなかった。 どこに行くか知らなかったので30元渡しておいた。 随分お金がかかってしまったが仕方ないだろう。

 その後、広州火車站前に行ってみると、元々バスターミナルが集中しているので交通量があり、鉄道からバスに乗り換えする人が多いので混雑する。 更に、地下鉄工事のために狭くなっているので一層混乱していた。 治安の方はあちこちに公安が見張っていて、田舎の人が荷物を置いて座ろうとするとすぐに近づいてどかせる。 中国政府は犯罪で一度有名になる土地は徹底的に取り締まる。 やりすぎることがあるらしいが、査定で評価しやすいスピード違反の取り締まりだけ熱心で新しい形の犯罪に全く対処できない日本の警察は少しは見習って欲しいものだ。

 しかし、これだけ取り締まっても追いつめられた人間は盗みを働くらしい。 ある時、大通りで二人の公安に連行された髪がボサボサで汚い服装の青年と被害に会ったらしい小奇麗な服装をした女性が歩いているのを見た。 用心に越した事はない。

9.交易の跡(広州、7月5〜8日)

 広州及び広東省は中国の中では比較的新しい所だが、清朝はアヘン戦争前ころまで海外の貿易をここ広州だけに限定していた。 アヘン戦争後に沿岸部のあちこちの港が開かれても引き続き貿易が行われていたらしく、町の中心を流れる珠江の小さな中州で宿がある沙面島にはその痕跡が今でも残っている。

 恐らく19世紀は長崎の出島のような所だったと思わせるこの島にはアメリカなど各国の領事館があって、島内にはビザの申請書類の代書屋が目に付く。 上海の外灘ほど規模が大きくないが、西洋風の建物が建っていて島の中心には公園のような大きな通りがある。 建物は洋風でも広場では朝になると年配の人が体操をしたり、夜には子供達が舞踏をしたりしていて、やはりここは中国だ。

 大連や廈門同様、この島だけはゴミがあまり落ちてなくて落ち着いた感じがする。 英字ガイドブック「Lonly Planet」によると「この島には公安が監視しているのでコジキが立ち入る事が出来ない。」という意味の記述があったが、それを裏付けるように島にかかる全ての橋に監視員がいた。
 外国人の目に付きやすい所なので見栄っ張りの政府は注意しているのだろう。
 注意ついでにこの島で働いている人は中国とは思えないくらい英語が話せる。

 ちなみに広州火車站前にある衣類品の問屋街へ行けばインド系の人達が買い出しに来ている。 ある衣料品ビルにはキリル文字で書かれた看板があった。 韓国の釜山や日本の北海道だけでなくこんな南までロシア人が買い出しに来ているらしい。 アヘン戦争の前後はお茶の産地が近くて積出港だった広州は改革開放政策により電機関係だけでなく衣料品の産地になったので再び交易の地になったらしい。

10.謎の電子城(広州、7月5〜8日)

 宿のある沙面島の東にある橋を渡ると電子部品の問屋が入ったビルが多い。 中国語でビルは大抵、「大廈」となるが問屋、レストランなど同じ種類の商業施設が入ったビルには「城」がつくことがある。 電子部品のビルには「〜電子城」と書かれている。
 どんなものがあるか?興味があったので入ってみる事にした。

 意外とパソコンが無くて携帯電話そのものと部品を売っている店ばかりだった。 本体といろんなデザインのケースやアクセサリーが売られていたのは理解できたが、部品が実装された基板やモトローラーなどメーカー名が入った液晶パネルが売られてあったのは理解できなかった。
 これでニセモノでも組み立てるのだろうか?

 他にも家電関係のビルがあって、1階の入口に「ニセモノ注意!」らしい展示があった。 似たようなおもちゃが2つ展示してあって「ホンモノ」、「ニセモノ」らしいことが書いてあった。
 その脇でおばちゃんがファミコンソフトのケースにラベルを貼っていた。 彼女たちはソフトメーカーから委託されたのだろうか?

11.食在広州(広州、7月5〜8日)

 沙面島の北にかかる橋を渡ると漢方薬の薬材や食材を売る市場と大衆食堂が多い下町に入る。

 薬材には数え切れない種類の薬草の他に口を開けたトカゲの干物やタツノオトシゴの干物にカメの甲羅など様々な種類の動物の干物もあった。 食肉市場には豚肉の他にオリに入った鳥やウサギ、猫がいた。 他にもカメ、スッポン、カエルもいた。 中国人向けの簡単なガイドブックによると広州の所で”食在広州”の項目があり、「・・・肉材広羅、蛇、鼠、猫、狗(犬)、鷹、猴(猿)、虫、花等均可入席。・・・」と書いてあり、毒物や無機質以外なんでも食べてしまうということらしい。 ちなみに腐ったものは広東ではみかけないが、浙江省、上海、台湾で見られる「臭豆腐」という豆腐の表面を腐らせたものを油で揚げたものがある。
 南国広東には肉や魚の他にも野菜や果物など豊富な食材があり、中国一食い意地が張った土地なのかもしれない。
 また、新鮮な材料が簡単に手に入るので塩分が少なくて済み、辛さ、油も程々なので個人的にはここの料理は中国の中では一番と思っている。

 市場の近くの適当な食堂に入って出来立てのものを食べるとハズレが少ない。 土地の人が食べているものが気になると注文する事を勧める。 まずハズレが無かった。 個人的なお勧めは・・・

・[(保)の下に(火)]仔飯・・「地球の歩き方・香港」には「冬の食べ物」と紹介されているが暑い夏でもおいしい!
・具沢山で数え切れないほど種類があるお粥
・腸粉・・・・米の粉を水で溶いたものを薄く広げてレタスや肉、魚などの具を混ぜて蒸したもの。 餃子のたれみたいな醤油をかけて食べる。

 こんな所だが、他にいいものをご存知の方はmailで御教示願いたい。

12.金印の大きさ(広州、7月7日)

 大陸の南部にあり、アヘン戦争など近代史以前の歴史を聞かない広州だが市街地に漢代に広東を治めた南越王の陵墓がある。 博物館として広州の数少ない観光名所になっているので行ってみた。

 入場券を買ってから各国からのプレゼントを展示した所を無視して陵墓を見学した。 陵墓は発掘されてから見学しやすい様に屋根がかけられ、階段や手すりが付けられていた。
 意外だったのは2,000年前とは言え当時としては先進地、漢の一部なのだが王様の他に王女や使えていた人達まで埋めていた事だった。 日本の古墳時代にはそんな習慣があったことは知っていたが・・・。

 続いて発掘された財宝を展示した建物に入った。 展示物の目玉は今でも中国人が好きな玉の小さな板状のものを紐で繋げて作った王様の遺体を包んでいた「玉衣」だ。 胴体だけでなく、腕、足、頭まで全身覆うものだ。
 「玉衣」以外にもたくさんの玉や銅、金で作った埋葬品が展示されていた。
 規模が小さいとは言え秦の始皇帝とやっている事は同じなのだろう。

 埋葬品の中で気になるものがあった。 日本の福岡市の志賀島から発掘されたものと似ていた「金印」である。 こちらの方が福岡のものより大きく立派だった。 当時の日本はまだ統一されてなく、大陸と交易をしていた列島の一部の国なので貢ぎ物の大きさは少ないだろう。 漢から貢ぎ物に応じて金印の大きさが違っていたのだろうか?

13.広東語を話そう!(広州、7月5〜8日)

 上海にいたときは「説普通語」、「説文明語」と日本で言えば「丁寧な標準語を話そう」という意味らしい標語をあちこちで見た。 一般的に中国語の方言で長江から南の沿岸部のものには「上海語」、「福建語」、「潮州語」、「広東語」などと全く違った言語のような表現になる。 実際、一般的に中国語と呼ばれる「普通語(中華人民共和国)」、「国語(それ以外の中国系の土地)」とは発音がかなり異なるらしい。 海外にいる中国系の人どうしでもどちらか一方が中国語を話せないと会話は英語によるものになってしまう。

 北京の党中央としても国の統一を図るために「ことばの統一」を進めるのは当然の事だろう。 そこで上海に「普通語を話そう」という標語が見られることになる。
 「説普通語」、「説文明語」は今の所上海でしか見てないが、広州では逆の現象になっている。

 あちこちからの人で溢れている広州火車站前では感じなかったが、下町に立ち入るとあちこちからあの声が大きくてにぎやかな広東語が聞こえてくる。 市バスに乗ると普通語のアナウンスの後に広東語のアナウンスが入る。 これは広州だけだ。 また、デパートに入って店を冷やかしていると店員の子が広東語で話し掛けてくる。

 一応、ここは中国なのだがなんとなく北京の党中央に対して「言葉のことで干渉するな!」、「我々は我々の道を行く!」と主張しているような気がするのだが、気のせいだろうか?

14.台湾人もびっくり!(広州、7月8日)

 広州を去り、香港に向かう日の朝に広東名物(あとで広西壮族自治区にもあることが分った。)の亀ゼリー、「亀之膏」に挑戦してみた。 香港にもあるのだが、例の大衆食堂のある通り中に亀ゼリーを1.5元で売っている所が多いので今のうちに挑戦する事にした。

 亀ゼリーは亀の甲羅のエキスの他にいろんな漢方の薬材が入った甘い薬膳デザートと言った感じのものだ。 甘いシロップがかかっているのだが、漢方薬のなんとも言えない味がするものだ。 同じ部屋に宿泊していた日本人に食べさせると「進んで食べる気がしない。」と言っていた。
 また、同じ部屋にいた台湾人にゼリーのことを話すと驚いていた。 台湾にはあまり無いらしい。 一口食べさせるとなんとも言えない複雑な表情をしていた。

15.気になる脇の下(広州→香港、7月8日)

 今回も羅湖の境界から香港に入る事にした。
 相変わらず混乱していた広州火車站前の流花バスターミナルから出ている深[土川]行き高速バスに乗って深[土川]へと向かった。

 今回の車掌の子は肌が浅黒くて漢人とは違った風貌だった。
 羅湖に近い深[土川]火車站前のバスターミナルに着く前に深[土川]市内で1〜2個所立ち寄る。 一つの停留所に着くと車掌がこちらに近づいて座席の上にある荷物の棚に手を伸ばした。 すると、半袖シャツの袖から彼女の脇の下が丸見えになって、脇毛が見えてしまった。

 去年の東南アジアの旅では気が付かなかったが、中国の女性は脇の下は手入れしない人が多いみたいだ。
 東南アジアの女性は半袖のTシャツか長袖シャツが多く脇の下の様子がわからない。 中国では袖なしの服を着ている女性が多いので腕を上に上げなくても脇毛がはみ出しているのが見えてしまう。

 東南アジアの旅で感じたのだが、ミャンマーから東のアジアの人達の中で日本人が一番体毛が濃いらしい。
 日本人の男のスネ毛を見てタイ人やインドネシア人は珍しがって引っ張ってみる。 痛がると面白がってさらに引っ張る。 韓国人の足を見てもスネ毛が薄い男性が多い。 中国人も日本人と比べて体毛が薄いらしく、スネ毛が薄い男性が多い。
 女性の中では、手入れしているのか知らないが脇の下に毛が数本生えている程度の人がいた。

 車掌の子の脇毛は漢人の女性よりはるかに長かった。 風貌と言い、彼女は少数民族らしい。

(香港2編へ)

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