高田 保 たかた・たもつ(1895—1952)


 

本名=高田 保(たかた・たもつ)
明治28年3月27日—昭和27年2月20日 
享年56歳(清閑院文誉秀保居士) 
神奈川県大磯町東小磯坂田山 高田公園 
茨城県土浦市中央2丁目5–2 高翁寺(浄土宗)



劇作家。茨城県生。早稲田大学卒。新劇運動に参加し、大正13年戯曲『天の岩戸』を発表。昭和4年新築地劇団に参加、プロレタリア戯曲家として活躍するが、のち転向。戦後は「東京日日新聞」に随筆『ブラリひょうたん』を連載、好評を得た。戯曲集『人魂黄表紙』自伝的小説『人情馬鹿』などがある。







 立秋、藤村舊居に住んではじめての季節である。庭にかぼそい桔梗の花が咲いてゐるのだが、紫ではなくて白である。藤村先生は白い花が好きだつたのだそうだ。好んで植えられたのに違いない。
 今日は八月廿二日、藤村忌七回目である。久しく標木のまゝになつていたお墓が、やつと石碑になつた。この標木まゝだつたのを、何か置き去りにでもしているかのようにとつて、近緣者や町の人を責めるような文章を、あるときある新聞に書いた人があつた。が實は土葬だつたので、土がすつかり固まらぬ間は重たい石がのせられなかつたからである。事はよく質してみないとわからない。
  寺の名は地福寺、境内に梅林があり、いかにも藤村好みといつていゝ寂びたところだが、その梅では今度新しい話ができた。墓石の土臺を据えるため、上の土をすてゝ掘り下げたのだが、傍の梅の木がそこへ太い根を這わして來ていたそうだ。その根の先を探ると、藤村先生の寢棺の方へといつている。棺は二重の厚板で、變りなくがつしりしているとわかつたのだが、その厚板の間を食い破るようにして、その根の先が更にその中へと延べていた。先生をそこに納めた位置から察するとどうやら先生の、合掌された胸のあたりへいっているらしかったというのである。梅林はいずれも白梅だが、この梅だけはさらに白さを增すかもしれない。いずれ藤村梅とでも呼ばれるようになるだろう。


                               
(『ブラリひょうたん』・藤村忌)



 

 尾崎士郎『人生劇場』の吹岡早雄は奔放な大学生活を送っていた高田保をモデルにしているそうだが、プロレタリア劇作家として出発した彼の作家人生はすべからく風刺とユーモアに富んだものであった。戦時の無理がたたって持病の肺患を悪化させ何回目かの喀血をした以後は療養生活に入り、昭和23年、大磯北本町の借家へ転居、翌年3月には島崎藤村未亡人がしばらく離れることになった大磯東小磯の旧藤村宅に転居した。『ブラリひょうたん』の執筆に専念しながら地元の青年や町民たちとの交流を愉しみにしていたのだが、病状は次第に悪化をたどり、大喀血に襲われた27年2月20日、窒息により、藤村終焉の家で高田保も急逝した。保の初七日であった26日に没した母と保の合同葬儀が28日に郷里土浦の菩提寺高翁寺で執り行われた。



 

 旧東海道の松並木越しに大磯港やキラキラと輝く相模湾、江ノ島、真鶴、小田原までもが望める。手前の町並みを横切っているのは東海道線。あえぎあえぎ急道をのぼって辿り着いた大磯町坂田山山上の高田保公園は、保の死を悼み友人や町の有志らによって昭和29年に開設された公園で、階段を上り詰めた奥に大谷石屏風があり、「海のいろは ひざしで変わる」と刻された赤御影の碑が嵌め込まれている。とりどりの玉石でデザインされた地面に置かれた黒曜石には佐佐木茂索筆「高田保ここに眠る」とある。保は郷里土浦の菩提寺高翁寺に眠っているのだが、谷口吉郎設計のこの墓にも分骨されて著書『ブラリひょうたん』三冊と筆、原稿用紙、小さな金銅仏とともに埋葬されている。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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