フェニキア歴史紀行

1999年1月1日(第7日目) ナバテア人の都  ダマスカス−ボスラ−ダマスカス

朝起きると、昨日冷たい雨の中を歩き回ったせいか、熱っぽく喉が痛い。やばいなあ、風邪か? まだ5時半で外も暗かったが、起き上がってボーッとしていたら段々元気になってきた。やれやれ1999年の元旦だというのに、俺にとっては昨日と変わらない旅の空か。8時すぎにホテルをチェックアウトし、フロントで荷物を預かってもらって観光に出発した。今日は郊外のボスラへ行こうと思っていたので、地図を見ながらバスターミナルを目指して歩き始めた。元旦の早朝は人通りが少なく、街もひっそりとしている。一昨日行った国立博物館の横を通り、アサド橋の近くまで歩いていった。この橋の下にバスターミナルがあると聞いていたからである。ところが行ってみると、ワンボックスバンくらいの大きさのセルビスステーションがあっただけで、行き先案内もないし、車も客もまばらである。民営のブルマンバスのターミナルと聞いていたのに、どうも違うようだな。聞く人もないまま、周辺をうろうろしてみたけれども、バスターミナルらしきものは一切なかった。仕方なく、ブルマンバスとシェアを2分しているという国営のカルナックバスのバスターミナルへ向かった。

 ところが、地図を片手に探してみたものの、カルナックバスターミナルの方も見付からない。困った顔でいると、金網の向こう側の若い男に呼び止められた。軍服を着た兵士が数人おり、その中の1人だった。最初は緊張したけれども、その呼び方が職務上の詰問調ではなく、そこらの街をたむろしている兄ちゃんに声を掛けられたといった風だったので、無視していた。しかし、あまりにもしつこく呼ぶし、またバスターミナルの位置が分からなかったので、何かきっかけがつかめるかもしれないという期待から、その兵士と話してみることにした。彼がどこに行きたいのかと問うので、ボスラへ行くバスに乗りたいと答えた。すでに相手は数人集まっていて、見慣れない顔立ちの珍客を興味深そうに眺めている。彼らの間で短い話し合いが行われた後、一人が俺についてこいと、道を先導して歩き始めた。半信半疑でついていくと、やがてバスターミナルの大きな停車場に入り、その端に軒を連ねているバス会社オフィスの一つまで誘導された。そして、チケットカウンターの人にボスラに行きたいという旨まで告げてくれた。旅先でこういう親切に会うと助かると同時に本当に嬉しい。

 バスは10時半発ということだったので、まだ1時間半以上ある。時間的な余裕はそんなになかったが、昨日行けなかった聖アナニアス教会に行くことにした。方向感覚のつかみにくいダマスカスの新市街を通り、やがて昨日も通った真っ直ぐの道をかなりの早足で歩き、30分強で到着した。聖アナニアス教会は使徒パウロと関係が深い。偉大なヨーロッパ文明の根本思想であるキリスト教は、パウロなしでは恐らく成立し得なかったと思われる。単にユダヤの一つの教えに過ぎなかったイエスの思想を、強固な宗教として確立させ、広く普及させたのは、まさにパウロの功績と言っていいだろう。

 パウロは小アジアのタルソス生まれのユダヤ人であり、熱心な律法派(パリサイ)であった。ローマの市民権を持ち、その頃の名をサウルと言った。彼は律法派から見て異端のキリスト教を憎むこと甚だしく、エルサレムにおいて積極的にその迫害に係わっていたと言われている。彼がエルサレムからダマスカスへ向かったのも、ローマの兵士として当時ダマスカスに多数いたキリスト教徒を迫害するためだった。しかしここで「パウロの回心」と呼ばれる不思議な出来事が起こったことを聖書は記してる。

 「突然、天から光がさして」彼は地に倒れ失明する。ここからイエスの呼びかけが始まる。「サウルよ、サウルよ、なぜ私を迫害するのか」サウルは強くおののき、そして訊ねている。「主よ、あなたはどなたですか」イエスは答える。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ立って街に入っていきなさい。そうすれば、そこであなたのなすべきことが告げられるであろう」

 パウロは失明したままダマスカスの街に入り、そこでこれもイエスの導きによって現れた聖アナニアスにより洗礼を受けて、目も見えるようになった。キリスト教ではこの象徴的な事件を重視している。皇帝崇拝を拒絶するキリスト教は、新約聖書が編まれた頃、ローマ帝国から激しい迫害を受けていた。そのため、迫害者が熱心な信徒に回心することは、初期キリスト教にとって最大のテーマであり、まさに理想だったわけである。ルカ伝をはじめとする各書において、パウロの回心とそれに続く伝道の旅が大きく取り上げられているのには、このような背景があったからであろう。

 キリストに帰依したパウロはまずダマスカス市内で伝道を行った。その前にアラビア半島へ行き伝道を試みたという話も伝わっている。しかしこれらの伝道は上手くいかず、ダマスカスでは裏切り者としてユダヤ教徒から命を狙われる始末だった。この時に身を隠して難を逃れたとされている洞窟が、ここ聖アナニアス教会の地下にある。その後エルサレムに赴いたがここでも命を狙われ、しばらくはアンティオキア(現トルコ南部)の教会で活動することとなった。

 パウロは計3回の伝道の旅を行っている。その記念すべき第1回目がアンティオキアの教会から派遣されたものだった。彼は第1回目の伝道でキプロス島及び小アジア南部を訪れ、ゼウス(ギリシアの神々)を信仰する人々にキリストの教えを説いた。そして教会もいくつか建設した。第2回目の伝道の旅では、小アジア南部を再訪した後、トロイアからサモトラ島を経てヨーロッパに渡った。マケドニアのフィリピ、テサロニケ、ギリシアのアテネ、コリントスなどの街を訪れ、キリストの教えを説いた。各地で数々の奇跡を起こし、信者を増やしていった。そして、第3回目の伝道の旅では、主にこれまで旅してきたところを回り、信者の定着を狙った。その旅の終わりに、彼は投獄と苦難が待ち受けることを知りながら、敢えてエルサレムへと向かった。

 エルサレムに着いて間もなく、パウロはユダヤ人に見付かり、群衆によって殺されそうになった。しかし、エルサレム中が大混乱になったこの騒ぎを聞きつけて、ローマ軍が介入し、彼を逮捕して連れ去った。ローマ市民権を持っているということで、丁重な取り調べと弁明の機会が与えられた。ここでパウロはキリストの教えと自分の行いを大いに論じたため、ユダヤ人達の(彼を殺すようにという)必死の訴えにも係わらず、釈放されそうなところまでいった。しかし、彼は再びイエスの導きによって、ローマへ行って教えを広めるために、敢えて皇帝に上訴したのである。ローマでは2年間緩やかな監視のもと、訪問する者に対してキリスト教の教えを説き、各地の教会には手紙を書き続けたという。パウロの最後について、聖書は沈黙しているが、一説によるとローマ城壁の外で処刑されたと言われている。

 さて、聖アナニアス教会は元旦の朝早くということもあって、人もおらずにひっそりとしていた。教会には例のサウルが隠れたという地下洞窟もあり、なかなか見所が多い。また、教会内には、パウロの生涯を描いた30枚の絵がかかっており、その絵を追ってゆけば、その波乱に満ちた人生をたどることができるようになっていた。一通り見学し、教会内の売店で土産物を購入してから教会を出た。大急ぎで行きと同じ道を歩き、10時20分頃にはバスターミナルに戻ってきた。バスは定刻通り10時30分に発車した。ダマスカス市内を抜け、シリア南部の肥沃な大地を快調に飛ばしていく。シリア南部は玄武岩の肥沃な黒土が広がっており、視界一面畑である。飛ばしまくったおかげで12時にはボスラに到着した。

 石畳のだだっ広い広場で降ろされた。周囲の建物もこの石畳と一体化しており、何とも言えない自然な雰囲気をかもし出している。最初はどこか分からなかったが、どうやら広場に面している少し大きな建物がボスラ最大の見所のローマ劇場のようだったので、さっそく入ってみることにした。ボスラは紀元前1300年頃からエジプトの記録に現れている。この都市が本格的に歴史の脚光を浴びるようになるのは紀元1世紀頃、ヨルダンのペトラで名高いナバテア人が、ペトラと並ぶ首都として位置づけるようになってからである。106年ローマ人はボスラとこの地域を併合し、アラビアの属州の州都としてこのボスラに壮大な都市を建設した。ローマ人達はこの都市をノヴァ・タラヤナ・ボストラと名付けた。 ローマの建設した大都市はキリスト教の時代にも引き続き順調に繁栄を続け、大司教の座も置かれた。634年からはムスリムの支配を受けることになったが、ボスラの重要性は変わらなかった。ボスラにはイスラム教成立に関する重要な伝説があったからである。

 ムハンマドの少年時代、彼は叔父のアブー・ターリブに連れられて隊商の旅を続けていた。そしてボスラの街に立ち寄った際、彼らはキリスト教の修道士ボヘイラから食事の招きを受けた。この時ボヘイラは不思議な雰囲気を持つ少年ムハンマドに興味を持ち、いろいろ質問し、また体のあちこちを調べてみた。するとムハンマドの体にはキリスト教の古書にある預言者の徴があることが分かったのである。そのため、ボヘイラはアブー・ターリブを呼び寄せ、ムハンマドが未来に預言者としての使命を持っていることを伝えたというものである。

 ムスリム支配以後、ボスラはメッカへの巡礼ルートにあるということで、多くの人々が行き交ったのだが、この伝説のおかげでそのうちのかなりの巡礼客がこの街に小休止し、更なる功徳を積もうとした。意外なところに都市の繁栄の種が転がっているものである。12世紀の十字軍、そして13世紀のモンゴル襲来によって重大な損害を被ったが、それでもボスラはしぶとく生き残った。しかし17世紀末、このボスラを通っていたメッカへの巡礼ルートが安全でなくなり、遙か西の方を通るようになると、ボスラは自然に衰えていった。現在は遺跡に囲まれた静かな街となっている。

 さて、劇場内の複雑な通路と階段をいくつも登り、ゲートをくぐって客席の上の方に出た。その瞬間、思わず感嘆の声が洩れた。これはすごい… 今までいくつもローマ劇場を見てきたのだけれども、これに匹敵するものは一体いくつあっただろうか。雄大さ、優美さ、そして往時を偲ばせる完全さを兼ね備えている。正直言ってあまり期待していなかっただけに、余計に素晴らしく感じたのかもしれないが、とにかくしばらくの間陶然として立ち尽くした。(写真1写真2写真3) その後は精力的にシアター内を歩き回った。客席の一番上まで登ってより一層の雄大さを体験したり、舞台まで降りていき、細かい装飾や下から見上げる劇場の大きさを実感したりした。 ローマ劇場を出た後は、ボスラ市街(写真1写真2写真3)をぶらついてみた。劇場のすぐ外の広場こそきれいに整備されていたのだが、一歩街の奥に入ると、もうそこは遺跡の中だった。街中遺跡だらけという表現は間違っているのかもしれない。街が遺跡の中にある。むきだしの黒玄武岩で築かれた列柱の脇に土埃の舞う細い道があり、そこを住民がゆっくりと歩いている。アラブ世界は日本よりもずっと時間が緩やかに流れているのだが、特にそこはまるで時間が止まっているようにさえ感じた。しばらく旧市街を散策し、十分に堪能した後、バスを降りた広場脇の道端へ歩いて行った。

 時刻は午後1時半。バスが来るのが午後2時半と言われていたので、石の車止めに腰掛けて待つことにした。本当にここでいいのかなあと不安に思いながらもしばらく待っていると、セルビスの親爺から話しかけられた。これまでも手持ち無沙汰に待っている俺に対し、通りがかりのセルビスがクラクションを鳴らして誘いはかけられていたのだが、この親爺は大胆にも窓から体を乗り出して、どこへ行くのかと聞いてきた。ダマスカスへ行きたいと告げると、ダラアという街までこのセルビスで行き、そこからバスに乗り換えればいいと言う。どうしようか迷ったけれども、このまま待っていても本当にバスが来るのか分からないし(ただバスを降りたところで待っているというだけで、バス停の表示も何もなかった)、時間もあることなので、誘いに応じてセルビスに乗り込んだ。ところがこのセルビスは狭いボスラの街の同じところをぐるぐる回るだけでなかなか街の外へ出ていかない。盛んに通行人に向かってクラクションを鳴らしては大声で勧誘している。客が俺ともう一人だけなので、これでは出発できないのだろう。3周くらいしたところで遂に運転手も観念して、ダラアに向かって出発した。

 皮肉なもので郊外に出た途端に、あちこちから人が乗ってきて、2つ目の街に着いた頃には10人乗りくらいのセルビスは一杯になってしまった。運転手の隣りに座っていた俺の横にも人が乗ってきたため、俺の体は半分運転手の方へ押しやられてしまっている。またもやセルビス前部席の洗礼を受けてしまったわけだ。窮屈ながらも車窓の景色を楽しむことができた。周囲は一面の肥沃な耕地になっており、俺のシリアのイメージ−すなわち砂漠−を一掃するには十分だった。この視界の先にはゴラン高原があるが、そこもこのように沃野が広がっているのであろうか。あそこの土地をイスラエルが占領してから早くも30年以上の年月が経過している。今やユダヤの民が普通に生活を営む場所となってしまった。良質のワインの産地とも言われている。ここでは単純な感想を述べるに止めるが、既得権益が30年以上続いたのであれば、それがたとえ歴とした他人のものであろうと、もはや彼の所有権に属したと言っていいだろう。シリアがゴラン高原の沃野を取り戻すのは非常に困難なことに思えた。

 バスは街々をつなぎながら、約1時間かかってダラアに到着した。ダラアは特に見所はないが、ヨルダン国境に位置する南部シリアの要衝である。セルビスの親爺は街の中心で客を降ろすと、親切にもバスターミナルまで俺だけを連れていってくれた。多くの人がたむろしている、待合室兼切符売り場みたいな建物に入り、ダマスカスまでの切符を購入した。午後3時のバスがあるようである。しばらく待つとバスが来たので乗り込んだ。整備された道を快適に飛ばし、午後4時すぎにダマスカスに到着した。そこから歩いてホテルまで行き、フロントに預かってもらっていた荷物を受け取った。そして、まだ午後5時とかなり早かったけれども、特にしたいこともなかったので、ホテルのすぐ近くの空港行きバス乗り場(ただの高架脇の測道だった)からバスに乗って空港へと向かった。やたらとエンジン音がうるさいボロボロのバスだった。空港には午後5時半に到着した。

 予想していたとおり、何もない閑散とした空港であり、これから午後10時のチェックインの時までここで過ごさなければならないと思うと嫌になってくる。飯でも食おうかと思い、空港の建物内を歩き回ってみたけれども、やはり何もなかった。あ〜あ、もう少し市内をブラブラすればよかったなあ。その後は寒い中、ひたすらベンチに座って時が過ぎるのを待った。何度も経験して慣れてしまったとは言え、空港での(特に何もない空港での)待ち時間は辛い。やっとの思いで午後10時近くまで待ち、さあチェックインしようかと動き出したら、いきなり2階にレストランを発見。何だそりゃ! あまりのタイミングの悪さに少し力が抜けてしまった。  10時にチェックイン・入国審査を済ませた後は、意外に立派な(但し猫がうろうろしている)デューティーフリーで何か面白いものがないかとぶらついてみた。アラビア語のCDがあったので早速購入した。しかし、余っていたシリアポンドを使えず、仕方なくドルで支払った。余計な出費だったかな。深夜の0時に搭乗し、0時半頃飛行機は離陸した。

前の日へ   次の日へ   フェニキア歴史紀行のトップへ