フェニキア歴史紀行

1998年12月31日(第6日目) サラディンの都  ダマスカス

 朝6時に起床した。今朝は4時20分から約30分間、大音量のコーランが街に響きわたったため、飛び起きてしまった。まだ外は真っ暗だというのに… 全くえらい迷惑や!ほんまにええ加減にせえよ。この静寂を切り裂くようなスピーカーの朗誦は、俺には"ラマダンやるぜーっ!!"っていう気合いの掛け声のように感じた。毎日気合いでも入れなければ、腹が減ってフラフラになってしまうのだろう。起きたはいいが、とうとう今日は朝から本格的な雨である。これまでも毎日のように俄雨には降られていた。しかし、今日の雨は振り方がどことなく落ち着いており、しばらくは止まないように見受けられた。それにしてもダマスカスで雨とは、何となく似合わない感じがする。レバノンからシリアに来て、少しは天気も回復するかと期待していたのに、見事に裏切られた。とても観光する気分にはなれなかったけれども、かといって部屋にずっといるわけにもいかなかったので、9時にホテルを出た。

 雨の中をビショビショになりながら、まずは郵便局へ行って、昨日書いた絵葉書を投函した。そして、そのまま郵便局の構内で15分ほど雨宿りしてみたものの、一向に雨足が弱くなる気配はない。仕方なく郵便局を出て、旧市街の方へ向かった。ところが、道路があちこちで冠水していて歩きにくいのなんの。中東では大雨の部類に入るとは言え、日本の感覚からは普通の雨なのに、それで冠水とは排水設備の貧弱なことよ。おまけに寒くて寒くてたまらない。これでは観光にならないから、宿に引き返そうかと一度は思った。しかし、西の空が何となく明るいように感じたので、商店の軒下で待ってみることにした。寒さに震えながら30分以上も待ち続けた。

 ついに、果てしなく降り続くと思われた雨が上がった。やはり日本の雨と違って、待てば止むものである。水浸しの道路を旧市街の方へ歩いていった。やがて大きな道を渡ったところにダマスカスの城壁が見えてきた。その城壁のすぐ外側には、馬に乗ったサラディンとその従者たちの像が建っていた。躍動感に溢れており、実に見事な像である。その像を眺めながら、しばしの間サラディンに思いを馳せた。

 サラディン、サラーフ=アッディーン(宗教の救い)は、12世紀中頃にイラク北部のクルド民族に生まれた。意外なことにこの英雄は、現在自分たちの国を求めてトルコやイラクと果てしない抗争を続けているクルド民族の出だったわけである。同じクルド民族の住むシリアでは抗争が起きておらず、これはサラディンとダマスカスの関係のおかげかもしれない。本名はユースフ(ヨゼフ)と言い、幼年期は父アイユーブの赴任先のバールベックで過ごした。アイユーブは元々バグダードでセルジューク朝に仕えていたのだが、その頃はザンギー朝に仕えていた。サラディンは成人に達すると、アレッポにいる君主ヌール・アッディーンの元へ赴き、その薫陶を受けることになった。その後17年間、サラディンはヌール・アッディーンの右腕となり、十字軍との戦いに明け暮れることとなった。

 1163年、サラディンの運命に転機が訪れた。ファーティマ朝(カイロのイスラム王朝)の内紛とエルサレム王国(第1回十字軍がエルサレムに建てたキリスト教王国)の侵略が重なり、混乱を極めていたエジプトに介入することとなったのである。サラディンの叔父のシールクーフを司令官とするシリア軍は、3度にわたる遠征の末、エルサレム軍をエジプトから追い払った。この時、サラディンは嫌々ながら遠征に従ったというが、彼はここでも叔父の右腕として目覚ましい活躍をした。そして、ついにシールクーフはファーティマ朝の宰相(ワジール)となった。ところが、シールクーフは宰相になってから僅か2ヶ月後に急死し、サラディンが跡を継ぐことになった。事実上の王朝、アイユーブ朝の樹立である。青年君主となったサラディンは、まずは国内の混乱を収めた。そして、1174年にアイユーブ朝樹立後険悪となっていた元の君主ヌール・アッディーンが死去すると、シリアに軍を進め、ダマスカス、アレッポなどを手中に収めた。長い時間をかけて反対勢力を一つずつ潰し、1183年にエジプトとシリアを統一した。

 1187年、宿願の聖戦(ジハード)の時がやってきた。サラディンの元に集まったムスリム軍は2万5000騎、エルサレム王国を中心とする十字軍王国の軍も同数の2万5000騎。両軍はティベリア湖の西、ヒッティーンの丘(現イスラエル北部)で激突した。両者互角の大激戦の末、ついにムスリム軍が十字軍王国の軍を圧倒した。サラディンは戦勝の勢いをそのままに、沿岸のキリスト教諸都市を次々に占領していった。アッコ、カイザリア、サイダ、ベイルートなどである。残るはティルス、トリポリなど少数の沿海都市、それに内陸のエルサレムのみとなった。そしてヒッティーンの戦いから2ヶ月後、ムスリム軍2万騎がエルサレムを囲んだ。対するエルサレム軍は6万余りいたと言われているが、戦意は低く、実に呆気なく陥落した。

 この時サラディンは、捕虜となったキリスト教徒を人道的に扱ったことから、100年前のエルサレム陥落時に十字軍がイスラム教徒を虐殺したことと比較して、慈悲深い王という評価を受けている。しかし、実際に彼は慈悲深かったものの、この時の行動は普通のムスリムでも取るだろう当たり前のことだったのではないだろうか。この時代、野蛮で後進的だったのはむしろキリスト教徒の方だった。無知で好奇心も持たず、自分たちの知らないものを排除する、停滞した社会であった。彼らは悪魔のように思っていたムスリムの王が意外に慈悲深いのを見て、サラディンが特別だと思いたかったのだろう。イスラムの野蛮性と後進性は、昔から現代に到るまで吹聴されていることだが、それは単にキリスト教社会の驕りに他ならない。我々日本人のイスラム世界観も、欧米からの情報だけに頼っているため、片手落ちの間違ったものが何と多いことか。日本におけるイスラム諸国のイメージは暗い。非文明の野蛮国家、無知蒙昧の徒、テロと暴力の渦巻く世界などなど。これは、欧米植民地主義の反動からなる民族的な反感と、それを扇ぎ立てるどこの世界にもいる右翼的(国粋主義的)な人々、そして、それを一方向からしか見ていない歪んだ報道によって作り出された、実に不幸な間違ったイメージではないだろうか。

 さて、エルサレムを落とし、聖地を回復したサラディンだが、このことがヨーロッパ本国から十字軍を招くことになった。1189年の史上名高い第3回十字軍である。サラディンは厭戦気分の強かったムスリム軍を率いてよく戦った。また、病気中の敵将リチャード獅子心王に見舞いを送ったりと、彼の人柄を表すような逸話を残している。この戦役は、十字軍側の内輪もめなどで、結局決着がつかないまま、1192年に和平が成立した。そして、サラディンはその翌年、55歳の生涯を閉じた。その遺体は彼が晩年を過ごしたダマスカスの街に葬られている。

 サラディン像の近くから城壁の中の旧市街に入った。そして、そのまま薄暗いスークを歩いて、イスラム第四の聖地ウマイヤドモスク(写真1写真2写真3写真4)へと向かった。メッカ、メディナ、エルサレムに次ぐ聖地である。ここは、ローマ時代はジュピター神殿、ビザンツ時代は教会、そしてイスラムの支配後は教会兼モスクだったところで、そこに715年、時のウマイヤ朝のカリフ、ワリード1世が壮大なモスクを完成させたのである。入り口をくぐると、やや広い前庭と壮大なファザードが姿を現した。ファザードの壁面には、コーランに描かれた天国の楽園のモザイクがあった。金色を主体にしたきらびやかな構図である。天国を覆う緑の木々に神殿などが鮮やかに描き出されていた。小雨がぱらつく寒い日のためか、人も疎らにしかおらず、落ち着いて全容を眺めることができた。

 ダマスカスはサラディンの都となる500年以上前にウマイヤ朝の都となっている。661年、第4代カリフで、預言者ムハンマドの娘婿アリーが暗殺されると、アリーの生前から彼と敵対していたムーアウィアは、ダマスカスに都を定め、ウマイヤ朝を開いた。こうしてダマスカスはそれから約100年間、750年にアッバース朝が成立し、バグダードに都が移されるまで、カリフの御在所として栄えた。無論、アッバース朝時代においても、ダマスカスはバグダードに次ぐ帝国の最重要都市として、カイロと共に繁栄を続けている。

 ウマイヤドモスクを十分に堪能した後、すぐ隣にあるアラブ碑文博物館とサラディン廟に行った。碑文博物館の方は、アラビア語の書道が展示されているだけで、はっきり言って全然分からなかった。建物自体は15世紀の回教学校のもので、それなりの雰囲気はあった。アラブ碑文博物館を出た後、サラディン廟へ向かった。最初はどこにあるのか分からず、随分と探し回った。結局ウマイヤドモスクのすぐ隣の庭の中にあり、ちょっと拍子抜けした。入り口で靴を脱いで中にはいると狭い部屋があり、そこに美しい石棺が2つ並んでいた。一つはオリジナルで、もう一つはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世から贈られたレプリカだそうである。イギリスの3C政策(植民地による世界戦略、3Cはカルカッタ、カイロ、ケープタウン)に対抗したドイツの3B政策(ベルリン、ビザンチウム、バグダード)の名残だろうか。最初は先客の欧米人旅行者の団体(7、8人)がいたので、狭い廟内はさらに狭くなっていたが、やがて彼らが出ていったので、ゆったりと見学することができた。といっても2つの棺を見るしかなかったので、すぐに飽きて出てきてしまったが。

 出た後は、わけも分からず3人組の男の写真を撮ってやったりしつつ、アゼム宮殿の方へ歩いていった。スークのど真ん中にあるこの宮殿は、18世紀末のダマスカス総督の邸宅だったところである。中へ入ると小さな部屋がいくつもあり、その一つ一つに一場面の蝋人形が置かれていた。総督の部屋、ハンマーム(トルコ風呂)の場面、ハーレムの様子主人が客をもてなすためにコーヒー豆を煎っている場面などなど、当時の様子が細かく描写されていた。また、中庭も大変美しく、ホッと落ち着く感じがする。しばらく宮殿の散策を楽しんだ。アゼム宮殿を出た後は、聖アナニアス教会へと向かった。聖パウロを祀った教会である。パウロのことは後で述べるとして、ダマスカスがキリスト教とも関わりの深い街であることは、何となく意外な感じがした。教会へは、パウロの時代から存在する、ストレートストリート(真っ直ぐの道)と呼ばれる通りを歩いて向かった。その名の通り、旧市街を貫く全長1.5キロの直線の道は、ローマ時代に造られたものである。現在は車がすれ違うのがやっとの細い道だが、往時は幅が26メートルもある大通りだったそうである。途中、ローマ門と呼ばれる崩れかかった遺構の脇を通り、旧市街の東端のシャキル門のところまで歩いてきた。そして、門の手前で左に折れ、しばらく歩くと聖アナニアス教会に到着するはずだった。しかし無情にも13時でちょうど閉まったところだった。再開は16時であり、とても待てる時間ではないので、仕方なく引き返すことにした。明日余裕があればまた来よう。

 重い足を引きずりながら来た道を歩き、サラディン像の前まで戻ってきた。それにしても腹が減って死にそうだったので、食料品のスークに行き、すぐに食べられそうなものを求めて彷徨った。サンドウィッチのような気の利いたものなど全然見当たらない。あるのは野菜、肉、香辛料、日用雑貨… これじゃあな。野菜屋で軒にぶら下がっていたバナナを買おうとしたけれども、英語が通じず、向こうも俺の相手をすることを嫌がってしまい、結局失敗した。30分以上行ったり来たりして、やっとの思いで買い込んだのは、ビスタチオ500グラム(400円)とナン7枚(20円)だった。特にナンの方はスークの外で辻売りしていたものだけに少々怪しかったが、ラマダンのダマスカスで贅沢は言ってられない。2時半に宿に戻ると、貪るようにしてそれらを食べた。しかし、冷え切ったナンをそれだけで食べるのは、いかにも不味く、そして惨めだった。その後は何をするとなく、部屋でぶらぶらとくつろぎ、6時半には就寝した。

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