フェニキア歴史紀行

1998年12月29日(第4日目) 勝者たちの碑文 
                   ベイルート−ナハル・エル・カルブ−ジェイタ洞窟−ビブロス−トリポリ−ベイルート

 朝6時に起床した。昨晩はすごい雨だったらしく、一度凄まじい雷鳴で目が覚めた。地中海の冬はかなり荒々しい。フランス風に表現するなら、ミストラルが吹き荒れたといったところだろうか。当初、2泊と言っていたのだが、もう1泊ここに泊まることにして、8時すぎに宿を出た。

 ベイルート市街にはそれほど見所はない。そんな中でも、市の西海岸にある「鳩の岩」というのが、ガイドブックにもベイルート市の一番の見所と書いてあったので、歩いてそこへと向かった。ひとまず海岸へ出て、海沿いの道をしばらく歩くと、写真で見たとおりの奇妙な形の「鳩の岩」が見えてきた。ここらは海岸と言っても断崖のかなり高いところにあるため、鳩の岩も上から見下ろすことができる。どれだけ鳩と言われても、どうしてもそう見えない「鳩の岩」をしばらく眺めていると、ぶらぶらしているおやじが寄ってきて、写真を撮ってやると言ったので、鳩の岩をバックに写真を撮ってもらった。その後、もうしばらく海岸の道をうろうろしていると、いきなり目の前で事故が起こった。強引に横から出てきた車に対し、直進車が急ブレーキをかけたのだが、タイヤが滑って激突したわけである。まあ、皆あんなめちゃくちゃな運転をしてりゃあ、事故の一つや二つは起きるわな。

 海岸沿いの道でタクシーを捕まえ、ダウラのセルビスターミナルへ行ってもらった。レバノン南部やベカー高原などへはコーラからセルビスが出ているのだが、北部へは、ダウラからセルビスが出ているのである。ダウラのセルビスターミナルも、コーラと同じく大きな交差点の一角にあり、かなりごちゃごちゃしていた。さっそくターミナル内をうろうろして、一人のおやじと交渉を始めた。今日はひとまず、ナハル・エル・カルブ(ドッグリバー)へ行くことが最大の目標である。1日潰してもいいから、何としてでもこれだけは達成しなければならない。ところが、交渉してみると、セルビスはないということが判明した。仕方なく、タクシーをチャーターして行くことになった。ついでにナハル・エル・カルブから少し内陸に入ったところにあるジェイタ洞窟にも行くように交渉をまとめ、タクシーに乗り込んだ。海岸線をトリポリ方面に向かって北上する幹線をしばらく行き、トンネルを抜けたところにある細い道の入り口でタクシーが停まった。意外な近さと、意外に幹線沿いの開けているところにあったことに驚いた。

 外へ出ると、どうやら運転手がガイドのように説明してくれるようで、彼も一緒に降りた。最初に見せられたのは、ナポレオン3世のものだった。道路すれすれの低さにあるため、間近で見ることができる。1860年から1861年にかけて、マロン派キリスト教徒とドルーズ教徒との間で紛争が起こったとき、フランス軍がレバノンに介入したときのものである。これを境にして、レバノンはフランス社会に組み込まれていくことになった訳であるから、まさに記念すべき碑といったところだろうか。その他に2〜3の碑があった。それらを見終わると、運転手は崖を登っていく階段の方を指して、あちらへ行けと言うので、この他にもいろいろな碑が見られるのかと思い、そちらへ登っていった。国道のトンネルの上を通り、順路に従って登っていくと、次々といろいろな碑が見えてきた。ところが、そのほとんどの碑は、風雪によって石灰質の岩が融けてしまったのか、表面はざらざらの平らな面になっているだけだった。ただ、アッシリア時代の碑と思われるものに、辛うじて人物のレリーフが微かに残っているのを見て取れたので、それが収穫と言えば収穫だった。

 冒頭にも書いたとおり、ここナハル・エル・カルブを見るためにレバノンへ来たと言っても過言ではない。それほど、これらの碑を見て、何かを感じたかった。なにしろ、碑文を残した面々が並ではない。ラムセス2世、ネブカドネザル2世、カラカラ帝、そしてナポレオン3世。さらには名前の分からないアッシリアの諸王、ギリシア時代、アラブ時代、帝国主義時代の列強の碑文に、それを追い払ったレバノン建国のものまで。この崖の前に立つと、幾層にも折り重なった歴史の厚みがずしりと感じられる。必ずしも英雄的な行為をした者がここに碑文を残したわけではないが、この場所の気分が不思議と英雄的であるため、後から見る者を感傷的にさせるのであろうか。ここでは、特にネブカドネザル2世について詳しく記述したいと思う。ラムセス2世も興味深いのだが、いずれエジプトへ行ったときに調べればいいだろう。

 ネブカドネザル2世は、古代オリエントの新バビロニア帝国の王である。新バビロニア帝国とは、初めてオリエント世界を統一したアッシリアの後に栄えた王朝で、紀元前7世紀の中頃にメソポタミアの地に興り、やがて勢力を拡大し、紀元前612年にはアッシリアの首都ニネヴェを陥落させて、強大を誇ったアッシリアを滅亡させている。新バビロニア帝国は、ハンムラビ王で名高い古代バビロニアの直系を自負しており、国号にもその名を用いた。但し、オリエントを統一することはできず、メディア(現在のイランの辺り)、リディア(小アジアの辺り)、エジプトと共にオリエント世界の4分の1を支配するに止まっていた。その版図はメソポタミアやシリアなどであった。

 ネブカドネザルは、帝国を興した初代ナボポラッサルの子で、紀元前605年に王位に就いた。ところが、王位継承後ほどなく、重大な危機が帝国と彼の身を襲った。エジプト王ネコ(ネコス)2世が、ナボポラッサル死後の混乱に乗じて、大軍を率いて新バビロニアに攻め込んできたのである。しかしネブカドネザルは冷静かつ勇敢であった。彼はすぐさま軍を率いて出撃し、勢いだけで攻めてきたエジプト軍を大いに打ち破って、逆にシリア・パレスティナの覇権を彼らから奪ってしまった。  エジプトの勢力をパレスティナから退けると、続いて小勢力の掃討に掛かった。13年におよぶ包囲を受けたのが前述したティルスであり、バビロン補囚という惨禍を被ったのがユダ王国のエルサレムである。但し、連れ去られたユダヤ人達は、バビロンでもユダヤ社会の形成が認められ、信仰を失わなかったということであるから、アッシリア時代のそれ(イスラエル王国の滅亡など)よりは随分ましだったらしい。

 ヴェルディの有名な歌劇に「ナブッコ」という作品がある。ナブッコとはネブカドネザルのイタリア語読みである。「ナブッコ」は、ネブカドネザルによるバビロン補囚を題材にしている。我々日本人には、ネブカドネザルという変わった名前は、あまり馴染みがないわけだが、ユダヤ教徒やキリスト教徒にとっては、聖書上の重要人物として、超が付くくらいの有名人と言っていい。ヘブライ人達が合唱した「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」は、イタリアの第二の国歌と呼ばれるほどイタリア人達に愛されている。当時のイタリアはちょうど独立戦争の最中であったため、イタリア人達はヘブライ人の合唱に自分たちをオーバーラップさせて、深く感ずることがあったようである。無論、ヴェルディもそれを意識して書いている。

 ネブカドネザルがエルサレムを陥落させたのは、紀元前586年のことであった。ユダヤの民は当時の世界の大都会バビロンに連れ去られた。しかし彼はユダヤの王族を位を高くするなどして厚遇したと言われている。また、この偉大な王の治世には、バビロンに7層のジグラット、後世にバベルの塔と呼ばれているものや、世界の七不思議の一つに数えられている空中庭園が作られるなど、贅を尽くした都市建設が行われていた。一方、国内には運河や貯水池が設けられ、経済的にも繁栄を極めた。しかし、新バビロニア王国は、ネブカドネザルの死後20年あまりで、東から台頭してきたアケメネス朝ペルシアのキュロス2世によってあっさり攻め滅ぼされてしまった。

 さて、ナハル・エル・カルブを出発した車は、海岸線を離れ、内陸へ向かって山道を登っていった。やがて谷道になり、かなり深い渓谷の上も通った。しばらく山道を進むと、道が下りになった辺にジェイタの洞窟があった。渓流に緑深い山々が連なる風景には、とても中東とは思えない、日本的な美しさがあった。 大きな駐車場でタクシーを降り、運ちゃんに見送られて観光に出発した。渓谷に沿ってロープウェイと舗装道路があった。どれくらい遠くか分からなかったので、ロープウェイで登っていくことにした。6人乗りくらいの小さな箱が5〜6個連なっているもので、俺が乗ったときは乗客が誰もいなかった。少し待つと1組だけ来て、ロープウェイも動き始めた。5分ほどで上の駅に到着。そのまま順路に沿って、洞窟の入り口へと向かった。

 チケットを買って中へ入ると、写真撮影は厳禁のようで、荷物とカメラをロッカーに預けさせられた。 鍾乳洞へと続く真っ直ぐのトンネルを歩いていくと、徐々に湿気と気温が高くなり、蒸し暑くなってきた。そしてトンネルを抜けたところに鍾乳洞が広がっていた。高校の修学旅行で行った秋芳洞も確かこんなんだっけなあ。中東にこのような鍾乳洞があることは、何とも不思議なことに思われてならなかった。 内部はライトアップと音によって、幻想的な雰囲気が醸し出されていた。自然の造形美を堪能しつつ最奥部まで歩いて行き、また順路に従って戻った。割と観光客は多かったけれども、前後に誰もいなくなるときがあり、そうすると鍾乳洞はかなり不気味だった。

 30分ほどで外へ出て、そのまま行きに登ってきたのと同じロープウェイで降りていき、下の洞窟へと向かった。ロープウェイの下の駅から少し登ったところに入り口があったので中へ入った。 下の洞窟は、地底湖になっており、洞窟を降りていくと、ボート乗り場があった。ここで、ちょうどボートで周遊を終えてきた日本人の集団に会った。レバノンで、しかもジェイタ洞窟で日本人に会おうなどとは夢にも思っていなかったため、かなり驚いた。日本人というのはどこにでもいるんだなあ。自虐的な笑いと共に、我が同胞の好奇心に敬服する。俺の方は、ボートに乗って乗客が集まるまで待った。10分くらいしてようやく10人くらいが乗り、ほぼ満員になったところで出発した。所々天井が低く、頭を屈めなければならなかったが、ボートで探検する地底の鍾乳洞は、大層美しかった。

 さて、下の洞窟を出て、駐車場に戻り、車に乗り込んだ。運ちゃんとの契約はここまでで、これからベイルートへ戻るはずだったが、まだ昼前だったこともあったので、このままビブロスまで行ってもらい、そこで降ろしてもらうことにした。少し料金を上乗せし、運ちゃんと交渉を始める。彼はしばらく考えていたが、ビブロスまでの途中でセルビスをやっていいか(要するに同乗者を拾いながら行っていいか)と俺に賛同を求め、それで交渉がまとまった。雨の中をビブロスへと向かった。途中で2度ほど客を乗せたり降ろしたりしながら、正午すぎにビブロスの街に到着した。タクシーのおやじとは街の中心近くで別れ、俺はビブロスの遺跡へと向かった。5分も歩かないうちに遺跡の入り口が見えてきたので、チケットを買って中へ入った。

 ビブロスは、複雑な運命をたどったフェニキアの諸都市国家の中でも、とりわけ数多くの主人を持った都市だった。この都市の最も古い痕跡である新石器時代の住居跡は、紀元前5千年紀(5000〜4001)と推定されている。住居は砕いた石灰を敷き詰めた床に部屋は一つだけの簡素な造りだった。そこでは狩猟採集の他、原始的な農業も行われていたことが確認されている。紀元前4千年紀になると、金属や土器の使用が一般化し、埋葬用の赤焼きの壺(テラコッタ焼)も多数見付かっている。そして、紀元前2500年頃、ティルスなど他の沿岸都市と同じくフェニキア人の植民市になった。今も遺跡に残るバーラット・ゲバル神殿は、古代フェニキアにおいてかなり名が知られており、そのためビブロスは地域の宗教センターとしての役割を担っていた。また、エジプトとの深いつながりもあった。神殿はエジプトのファラオから莫大な奉納を受け、それによって街も活気付くと同時に、文化的、宗教的にエジプトの強い影響を受けた。ビブロスはエジプトの他にもメソポタミアや後にはギリシアの影響を受け、多様な芸術や建築が生まれた。

 紀元前2150年、シリア・パレスティナのセム系遊牧民であるアモリテ人が街を侵略し、住み着くようになった。彼らは文化的な発展性に乏しい民族で、その主な業績は街を破壊したことくらいである。そんな彼らが造った数少ない物として、地下王墓や破壊的な火の神レシェフ神に捧げられたオベリスク神殿がある。紀元前1725年、やっとアモリテ人の支配から解放されたと思いきや、次の支配者になったのは、アモリテ人より凶暴なヒクソスだった。エジプトを混乱の渦に巻き込んだヒクソスは、東方のセム系遊牧民とされているが、真相はまだ謎のままである。彼らは馬で牽いた戦車に乗って敵を蹴散らすという戦法で征服地を拡大してきていた。このような戦法に全く不慣れだったエジプトは、上代以来初めて異民族にナイルの豊土を明け渡すことになってしまった。

 しかしヒクソスの天下は永く続かず、エジプト新王国が再びエジプト人の手に実権を取り戻した。そして、ビブロスをはじめとするフェニキア諸都市もエジプトの勢力下に落ち着いた。ビブロスは再び宗教、芸術、慣習などでエジプトの影響を強く受けていき、エジプトの豊穣の神、イシス神の信仰も盛んに行われるようになった。フェニキア人の偉大な功績であるアルファベットの発明も、この時期のビブロスで行われたと思われる。古代オリエントで従来使われていた楔形文字よりも、取引記録などをつけるのに有用なこの筆記システムは、急速に世界に広まっていき、それとともに文明化の波も広がっていった。

 ところで、ビブロスという街の名がバイブル(=聖書)の語源になったことは、この街を訪れる者にとっていわば常識なのだが、その由来は、エジプトとこの街、さらにはギリシアとの三角関係から来ている。エジプトとフェニキアの蜜月時代のこと、ギリシアは紙(パピルス)をエジプトからの輸入に頼っており、それは一旦ビブロスの港を経由して運ばれていた。そのため、ギリシアではパピルスのことをビブロスと呼んでいた。そしてビブロスが集まったもの、すなわち本のことはビブリオンと名付けられた。それが時代と国の変遷を重ねて、聖書(The Book)が英語でバイブルと呼ばれるようになったと言われている。

 ビブロスの繁栄の時代は長続きしなかった。やがてティルスの台頭により、フェニキアで最も重要な都市という名声が失墜し、その後は強国の草刈場となり、主人を転々と変えていくこととなった。ギリシア人、アッシリア帝国、新バビロニア帝国、そしてアケメネス朝ペルシア帝国。しかしながら、ペルシア帝国の下では、民族の自治が大幅に認められ、交易港として再生した。ペルシアの下で繁栄は、アレキサンダー大王の時代も続いた。彼らはいち早く自発的にアレキサンダーと同盟を結び、王権を存続させることに成功した。彼らはギリシアが衰え、ローマが台頭してきた時も、上手く彼らとの交易によって、都市の繁栄を続けている。そしてビザンチン帝国の時も。しかしこの頃、後の衰退の原因となる種が自らの手によって蒔かれていた。街の発展を支えていた木材が、計画性のない伐採により年々減ってきていたのである。そのような自然環境の変化に加え、東方からイスラムがやってきたため、その衰退は決定的なものとなった。ダマスカスやバグダードのイスラム帝国は、西方キリスト教社会との交易には全く無関心であり、従って西方と東方との交易を仲介することを生業としてきたビブロスは、急激にその重要性を失っていった。  その後は、十字軍のときにキリスト教のトリポリ伯領になったことを除いて、比較的平穏無事な時が流れている。1860年にレバノンに滞在したフランスの歴史家によって遺跡の発掘が始まり、内戦で中断したままになっているものの、現在のこの遺跡が姿を現したわけである。

 遺跡(写真1写真2)はまず入り口に十字軍の城塞があり、そこから一望できる狭い範囲に様々な時代のものが集まっている。一応ガイドブックには配置図付で説明されていたが、何が何だか分からぬまま彷徨い歩いていたため、あまり深く感じることもなかった。遺跡を出た後は、セルビスターミナルからタクシーに乗ってトリポリへと向かった。ビブロス〜トリポリ間もセルビスはないようである。整備された高速道路を飛ばして、午後1時半頃にトリポリに到着した。このトリポリがレバノン最後の訪問地である。この3日間、我ながら呆れるほどのハイペースであちこち回って、ほとんどレバノンを見尽くしたと言っていいかもしれない。

 さて、タクシーを降りたはいいけれども、現在地が全く分からない。地球の歩き方の地図も、ロンリープラネット地図も、お粗末そのものだったこともあり、不覚にも現在地をつかめないまま30分以上も彷徨する羽目になってしまった。街自体の特徴が少なく、また旧市街で道が入り組んでいたこともあって… まあ、言い訳はすまい。まだまだ未熟だったということだろう。 中東特有の薄暗いスーク(市場)を行ったり来たりし、坂を登ったり降りたりしているうちに、何とか街の高台にあるセント・ジル要塞に辿り着いた。やれやれ苦労したわいと、入り口をくぐって中へ入った。 早速、城壁のところまで行って外を眺めてみた。トリポリの街が一望できるのは勿論、遠くには地中海も見える。それにしてもこの街は大通りがほとんどなく、屋根と複雑な路地によって埋め尽くされている。これでは道に迷ってしまうのも無理はないと、自己弁護したくなるというものだ。しばらく眺めた後、要塞を一周してから、丘を下り、ようやく構造の分かったトリポリの街をうろついた。

 トリポリの歴史はフェニキアの諸都市の中では比較的新しく、BC800年頃、現在の市街地よりも海側にある地域に都市が築かれたのが始まりとされている。新しくてBC800年だから呆れるより他ない。最初はちっぽけな貿易港に過ぎなかったものの、やがてビブロスやシドンなど、他のフェニキア都市国家と連邦を形成し、街も大きくなっていった。そして、他の都市と同じように支配者を転々と変えていき、その間多くの神殿や贅沢な建物が建てられて街は発展した。543年にはこの地を巨大地震が襲い、街や港を破壊し尽くしたが、ビザンツ帝国の力により、街はすぐに再建された。635年には、街はシリア総督ムーアウィア率いるムスリム軍によって完全に包囲され、兵糧攻めを受けた。トリポリ住民は、ビザンツ皇帝の助けを借りて辛うじて海上に逃れ、ムーアウィアは無人となったトリポリの街に入城した。こうしてこの街の主はイスラム教徒に変わった。

 11世紀の中頃まで街はムスリムの手にあったが、十字軍による長い攻防の末、1109年にキリスト教徒の手に陥落した(トリポリ伯領)。このとき、膨大な量のアラビア語の蔵書(10万冊)が焼け落ちたと言われている。また、攻城に苦労し、最後はジェノヴァ人の力を借りてやっと落としたため、今でも街にはイタリアの影響が残っているらしい。  その後はマムルーク朝(1289〜1516)、オスマントルコ(1516〜1920)、フランス(1920〜1943)、レバノン(1943〜)と変遷して現在に至っている。レバノン内戦の時も、ベイルートや南部ほど被害を受けなかったため、比較的古い街並みが残っている。

 さて、スークを歩いているとき、雨が強くなったので、軒下に30分近くもやり込められてしまった。今日も昨日と同じく、一日中降ったり止んだりのはっきりしない天気である。うっとうしいと思いつつも、いつかは止むだろうと辛抱強く待ち続けた。ようやく小降りになってきたので歩き始めると、やがて日差しがさんさんと降り注いできた。この天候には苦笑せざるを得ない。現在地が分かったといっても、分かりにくい街であることに変わりはなく、ガイドブックに名前だけ挙げ連ねられていたモスクやメドレセ(神学校)のほとんどに辿り着くことができなかった。なんとか大モスクだけ見つけ出して中へ入った。グリーンに塗られたドームが印象的だったが、サマルカンド(ウズベキスタン:96年8月訪問)やイスファハン(イラン:97年8月訪問)の美しいブルータイルのドームには比べるべくもなかった。

 その後、再度スークをうろうろして、その雰囲気を十分に味わった後、ベイルートに帰ることにした。しかし、本当にこの街には苦労させられることよ。セルビスターミナルが分からず、三たび迷ってしまった。苦心して行きにタクシーを降りたところまで行くと、そこがセルビスターミナルだった。 すぐにベイルート行きのセルビスを見付け、後部座席に乗り込んで、客が集まるのを待った。やがて3人組のおばちゃんが乗ってきたので、俺は前の席に移動させられた。運ちゃんは何とかもう一人集めようと、しばらく「ベイルート!ベイルート!」と声を張り上げていたが、やがて諦めて、午後4時にベイルートへ向けて出発した。やれやれ前に一人で座ることができて助かったぜ。しかし、途中からおやじが隣りに乗り込んできたため、助手席2人乗りの洗礼を受けてしまった。めちゃくちゃ窮屈で苦しかった。 途中、セルビスの運ちゃんと話していたとき、決定的なこと(絶対に言ってはいけないタブーなのに…)を言われてしまった。

 彼曰く「君はフランス語ができるのか?」「いいえ」
 彼曰く「君はアラビア語ができるのか?」「いいえ」
 彼曰く「君は何語ができるのだ?」「日本語と英語が少しだ」
 彼曰く「君は英語がこの有様で、しかもフランス語もアラビア語も話せない。よく一人旅なんかできるなあ。感心したよ」だとさ。
 そりゃあ、自分でも分かっていたよ。だけど、何であんたに言われなあかんの?今まで何とか旅してきてるんやから、放っといてんか!!

 80キロの道のりを、約1時間掛かって、午後5時にはベイルートのダウラに着いた。 さて、ダウラに午後5時すぎに着いたと言っても、すでに外は薄暗い。セルビスに乗り継いでハムラ地区にあるホテルに帰ろうと思っていると、いきなり何かに勧誘された。よく分からなかったけど、どこへ行くかを聞いているようだったので、「ハムラ」と言うと相手は「乗れ」と言う。訳も分からず、スイミングスクールの送迎に使っているような中型のバスに乗り込んだ。 これがとんでもなく変なバスだった。どう見ても中高生の悪ガキにしか見えない3〜4人の集団が前方の席に陣取り、大騒ぎしながら運転しているのである。やばいかな、とも思ったが、乗り換えるのも面倒で、また道端でセルビスを捕まえるのも大変そうだったので、我慢してこのバスに乗っていることにした。 ベイルートの運転がめちゃくちゃなことは前述したとおりだが、このバスは更に強引で乱暴で、もう、事故らないのが奇跡としか言いようがなかった。そのような運転に圧倒されているうちに、降りるポイントを逃してしまい(ハムラ地区の中まで行くと思ったのに、海岸沿いにその周囲を通るだけだった)、しばらくしてからそれに気づき、バスを降りてから30分近くも歩く羽目になってしまった。まあ、セルビスの半額と激安だったからいいと言えばいいのだが…  ホテルには6時20分頃到着した。シャワーを浴び、少しくつろいで、午後8時すぎに就寝した。

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