フェニキア歴史紀行

1998年12月28日(第3日目) レバノン内戦とバアル  
                    ベイルート−バールベックーアンジャル−ベイルート

午前4時に一度目が覚めて、自分が今レバノンにいることに驚いた。それからもう一度寝て6時半に起床した。実に12時間も寝ていたわけだ。ゆっくり準備して、一旦8時すぎに部屋を出たが、フロントで国際電話のかけ方を聞いて、再び部屋に戻ってきた。どういうことかと言うと、Mさん(飛行機で一緒だったヨルダン旅行の母娘)とリコンファームが面倒という話をしていたときに、ヨルダン在住の友人にやってもらった方が確実ということで、お言葉に甘えてついでに俺の分も頼んでしまったから、その結果を聞くためである。ところが、聞くと、KLMはリコンファームがいらなくなったとのこと。それでも一応した方が安全ということだったけれども、まあ面倒だったから、いらないという言葉を信じて放っておくことにした。

 そして今度は8時半に、本当に観光に出発した。その前に昨日書いた絵葉書を出すために、ハムラ地区をうろうろして郵便局を探した。ところが、地図に郵便局のマークが書かれている位置をどれだけ探しても見付からない。仕方なく、コーラ地区へ行く途中にある別の郵便局まで歩いていくことにした。ちぇっ、今日も歩きか… 郵便局経由でコーラに向けて歩き始めた。コーラのセルビスターミナルには9時45分に到着した。今日はベカー高原にあるバールベックとアンジャルの2ヶ所へ行く予定である。取りあえず、ベカー高原入り口のシュトゥーラの街までセルビスで行き、そこを拠点に動くのが一般的のようだったので、シュトゥーラ行きのセルビスに乗り込んだ。

 昨日と違ってなかなか乗客が集まらない。1時間近く待ってようやく5人揃い出発した。毎度のごとく渋滞のベイルート市内をのろのろと走っていたので、俺はぼんやりと外を眺めていた。すると突如、凄まじくボロボロのビルが現れた。砲弾でボコボコにされた無惨な姿を晒している。"うわ! ついに出たーっ!!"ちょっと郊外へ出た所だったので、ここまで復興の手が回らないのだろうか。崩れ落ちないのが不思議なくらいのぼろさだった。

 レバノン内戦は第二次世界大戦後の紛争の中でも、かなり悲惨な部類に属すると言っていいだろう。内戦とはいうものの、もちろんその背景には中東全体を巻き込んだ根の深い問題がある。それは、歴史年表を見ればよく分かる。1973年に第4次中東戦争が起きた後は、イスラエルとアラブの間に戦争は起っていない。しかし、その直後の1975年にレバノン内戦が始まっている。これは言ってみればイスラエルとアラブの代理戦争(第5次中東戦争)の側面が強くあった。

 以前にも述べたとおり、レバノンは宗教のモザイク国家である。中世以降、キリスト教マロン派、イスラムのドルーズ教を始め各宗教組織が国内に割拠し、首長国の様相を呈していた。オスマントルコも、この地を直接支配下に置くことを躊躇い、緩やかな自治権を認め、半ば間接支配を続けてきた。ちなみにマロン派というのは、キリスト東方教会の異端派で、7世紀頃に迫害を逃れてレバノン山中に住み着いたものと言われている。やがて、キリスト教マロン派の共同体が大きくなり、ドルーズ教の生活圏にまで進出するようになると、彼らとの間に紛争が頻発するようになってきた。

 そして1860年、これまで劣勢だったドルーズ教軍が、オスマントルコの援助を受けて反撃を開始し、マロン派の大規模な虐殺が起きるに至った。ここで、キリスト教の保護者として、フランスのナポレオン3世がこの問題に介入してくる。オスマントルコの影響力は追い払われ、以降レバノンにはフランスの勢力下でマロン派が支配を行うという構図が確定した。第一次世界大戦後はレバノン(狭義のレバノンは、レバノン山脈とアンチレバノン山脈とその間にあるベカー高原のこと)を含むシリア地方(この地域の総称)は正式にフランスの委任統治領となり、レバノンのキリスト教社会は欧州との結びつきを強めていくこととなった。この辺りからレバノンの民族・宗教構成は更に混迷を深めていくことになる。それまでベカー高原周辺の狭義のレバノンにあったキリスト教社会は、フランスの後押しを受け、沿岸部のイスラム教社会に進出していった。これにより、現在のレバノン領土−広義のレバノン−が確定すると同時に、様々な宗教・民族といった爆弾を抱える実に危うい状況も作り出された。このときの大レバノン主義が、後のレバノン内戦を泥沼化させた根底にあったと言っていい。

 そして、レバノンは1943年に独立を果たした。独立後は、キリスト教マロン派が中心となり、各宗派にその人口構成に沿ったポストを配分するという政策で、際どいながらも均衡が保たれていた。そんな束の間の夢を打ち破ったのが、イスラエルの建国とそれに続く数度の戦争によって大量に発生したパレスティナ難民と、彼らの流入によって不安定になった中東の火薬庫−レバノン−に火種を投げ込み、大爆発を起こさせたPLO(パレスティナ解放機構)であった。

 中東の現代史がイスラエルとアラブの対決を中心として旋回していることは明らかなことであるが、レバノン内戦も多分に漏れず、そのとばっちりを受けたようなものである。1948年のイスラエル建国から1967年の第3次中東戦争(六日間戦争)までの間は、アラブ大国(エジプト、シリア、ヨルダン等)対イスラエルという構図で戦いが行われており、大量の難民がレバノン国内に避難してきたものの、内戦への直接の引き金にはなりえなかった。ところが、1967年の六日間戦争において、アラブの旗手だったエジプトが手ひどい損害を被り、イスラエル問題から一歩後退したことが、やがてはレバノン内戦へと繋がっていくことになった。

 1964年に成立したPLOは、当初エジプトをはじめとするアラブの大国の庇護を受けながら、国家間の戦争によってパレスティナの地を回復することを夢見てきた。ところが六日間戦争においてアラブ側が惨敗するに及んで、もはや誰にも頼ることができなくなった。彼ら自身が直接イスラエルと対峙しなければ、故地の回復は絵空事に終わってしまうかもしれない、という危機感が彼らを襲った。PLOが本格的にテロを開始したのはこの時からである。ヨルダンやレバノンにいたパレスティナ難民からも多数の若者がPLOに加わった。PLOが国内に存在するということで、ヨルダンとレバノンにおいて、政権の二重構造ができ、従来政権の基盤が危うくなった。ここで両者の取った行動が明暗を分けることになる。

 1970年、ヨルダンのフセイン国王は、PLOが自国内で横行している現状から、やがては彼らによって、政権のみならず国中が混乱に巻き込まれると判断し、PLOを国内から一掃する決断を下した。こうして王国軍とPLOとの間に内戦が勃発した。PLOを支援していたシリアが、ヨルダンやイスラエルとの本格的な抗争になるのを恐れ、軍の投入を見合わせたこともあり、PLOはヨルダン国内から完全に駆逐されて、その本拠をレバノンに移すこととなった。その後しばらくは、ヨルダン国内でテロが起きたりしたが、フセイン国王のこの英断により、ヨルダンは現在に至るまで安定した政情のもと推移している。一方、PLOの本拠を移されたレバノンとしては、たまったものではなかった。もとより大量のパレスティナ難民を抱え、宗教間の均衡が危うくなりつつあったところに、PLOまでやってきてしまったのである。これまでレバノンが内包してきた諸問題が一気に顕在化する形で内戦が勃発するのに、それほど時間を要しなかった。

 1975年4月、キリスト教民兵団がベイルート郊外において、パレスティナ難民の乗るバスを襲撃し虐殺した事件によって、ついに泥沼の内戦が始まった。数年前から燻っていたイスラム教徒とキリスト教徒の間の感情の鬱積が一気に爆発した。こうして起こったレバノン内戦は、やがて理屈抜きの果てしない殺し合いとなり、シリアやイスラエルの思惑も絡んで、益々深みにはまっていくことになった。

 レバノン内戦の記述は、藤村信氏の「中東現代史」に負うところが大きいが、氏によれば、レバノン内戦がこのように長期化したのは、大シリア主義に基づくシリアのアサド大統領が、レバノン国内に一方的な勝者を出さないように、常に負けそうな側を支援する政策を採ったことによるという。信じられないことだが、内戦初期においてシリアは劣勢だったキリスト教側を支援していたらしい。キリスト教側がシリアの仇敵イスラエルの支援を受けているにも拘わらずである。それでも1977年、こうしたシリアの介入によってレバノンにも一応の安定がもたらされたわけだが、その裏ではシリアとイスラエルの思惑が激しくぶつかり合っており、この安定は更なる深みに落ち込んでいく前の束の間の平和に過ぎなかった。

 シリアによる束の間の安定からイスラエルのベイルート侵攻までの間、複雑な合従連衡の動きがあったが、煩雑すぎるので省略する。要するにこの期間において、キリスト教徒とイスラエル、イスラム教徒とシリアが連携するという、本来あるべき姿に向かいつつあった。こうした自然な形の連携に戻ったことが、両国の介入を本格的なものにしていくこととなった。

 民族間の不文律による鬱積が吹き出した形で起こった内戦が、本格的なシリアとイスラエルの間の代理戦争に発展するのは、1982年のイスラエルによるベイルート侵攻からである。これは同時に、イスラエルという国家が本質的な変換を遂げてしまった出来事でもあった。これまでの4度に渡る中東戦争は、イスラエルにとって国家を守るための止むに止まれぬ戦争という側面があった。しかし、この第5次中東戦争とも言うべきベイルート侵攻は、イスラエルという国家にとって初めての自発的戦略行動であった。イスラエルの知識人の間にも、この侵略的戦争を疑問視する風潮が見られるように、国際社会はイスラエルの思い上がりに対して激しい拒絶反応を示した。欧米諸国は、中世以来長年に渡ってユダヤ人を迫害してきたという加害者意識から逃れるため、必要以上に過敏に庇護してきたイスラエルという国家が、もはや哀れな子羊ではなくなったことをはっきりと認識した。

 1978年からレバノン南部に侵攻していたイスラエルは、PLOを完全に駆逐するため、首都ベイルートへの侵攻を決意する。1982年6月、シャロン国防相の指揮のもと、イスラエル軍はベイルートに向けて進軍を開始した。抵抗らしい抵抗もないままベイルートに到達するや、PLOを殲滅するため、イスラム教徒の多く住む西部地区を徹底的に砲撃した。ここで国際社会がイスラエルの思い上がった行動に待ったを掛けたため、PLOは辛うじて殲滅を逃れ、アメリカの仲介により、他の中東の国へ脱出することができた。イスラエルとしては、一応の作戦上の成功を納めたかに見えたのだが、やがては混乱の中で撤退を余儀なくされることになった。その顛末は以下のとおりである。ベイルート侵攻後間もなく、イスラエルの占領下で行われた選挙により、キリスト教民兵団のリーダーが大統領に就任した。もちろん、イスラエルの息がかかっていることは言うまでもない。ところが、その大統領は、1ヶ月も経たないうちにイスラム勢力によって暗殺されてしまったのである。即座に怖ろしい復讐劇が起こった。西ベイルートのサブラとシャティラのパレスティナ難民キャンプを、リーダーを暗殺されて怒り狂うキリスト教(ファランジュ党)民兵団が襲撃した。彼らは手当たり次第に殺戮を続け、1500人を超すパレスティナ難民が虐殺された。この衝撃的なニュースはすぐに世界を駆けめぐったのだが、後日続報として伝えられた、すぐ近くにいたイスラエル軍が虐殺を黙認し、見て見ぬふりをしていたという事実の方が、世論を激昂させた。イスラエル軍は内外からの非難の嵐の中で、結局は政治的な失敗という評価とともに、ベイルートからの撤退を余儀なくされたわけである。

 イスラエル軍がベイルートから南レバノンへ撤退した後、国連の平和維持軍が、治安回復のために替わりにベイルートに入ってきた。しかし、イスラム教徒にとっては、国連でさえもキリスト教側の味方にしか見えなかった。すぐに、西側が中心の平和維持軍は、テロリストの格好の標的となった。無理もない話である。この数年間、宗教の違いによる憎しみに凝り固まっていた彼らにとって、敵味方の判断基準もまた宗教でしかない。アメリカとフランスが中心の国連平和維持軍は、1983年10月、テロによる犠牲者が300人を超すに及んで、ついにベイルートから引き上げた。ここからのレバノンは、政治的に全く説明のつかない混乱が永らく続くことになる。これまでは、内戦で国内が乱れていたとは言え、一応の政治的な集合離散が繰り返されていた。しかし、ベイルート侵攻を境に、理屈抜きの殺し合いが始まった。また、国内外では、イスラエル軍によって連れ去られたパレスティナ人政治犯の釈放を求めて、外国人を標的にしたテロや誘拐、ハイジャックが頻発した。内戦の勃発より10年が経過したが、なかなか出口は見えなかった。

 1987年、内戦を終結させるという名目を掲げ、シリア軍がベイルートへと進駐した。レバノンの主導権が、久々にシリアに渡った。しばらくの間は、各宗派の争いが続いていたものの、和平へ向けた動きが始まったわけである。1989年10月、サウジアラビアのタリーフにおいて、各派民兵組織による一応の停戦の合意が為された。その後も大統領が就任直後に暗殺されるなど不安定さはあったものの、1990年10月、シリア軍により東ベイルートのキリスト教民兵団の武装解除が行われ、引き続いてシリア軍とレバノン軍が共同して、国中の秩序を回復していった。しかしながら、以来レバノンは、現在に到るまで、治安維持と引き替えにシリア軍の駐留を認める、いわばシリアの属国のようになってしまっている。

 さて、ベイルート市街を抜けると車は山道に入り、ひたすら坂を登っていった。高度が上がっていくに従って、小雨がぱらつき始め、だんだん肌寒くなってくる。実は昨日の道もそうだったのだが、検問所が何カ所にも設けられており、そういったところはさすがにレバノンといった感じか。幸い、セルビスの場合はほとんどフリーパスだった。それでも変な東洋人が乗っているということで止められやしないかと、常にびくびくしていた。やがて、雪を被った3000メートル級の山々が連なるレバノン山脈の峠を越え、ベカー高原へと入った。そして、ベイルートを出て約1時間で、ベカー高原入り口の街シュトゥーラに到着した。

 セルビスから降りると、今まで一緒に乗ってきた2人のおやじから、「お前はこれからどこへ行くのだ」と尋ねられた。何でそんなことを聞くんだろうかと不審に思ったけれども、一応「バールベック」と答えると、そのうちの一人のおやじが、「俺に付いてこい」と言う。よく分からなかったが、ただの道端で降ろされて、どこに行けばバールベック行きのセルビスを捕まえられるのか分からなかったこともあり、彼の後についていった。200メートルほど歩き、別の大通りに行くと15人乗りくらいのバンが停まっていた。彼は「これに乗れ」と言い、俺と一緒に乗り込んだ。要するに俺が困るといけないと思い、親切心からどこへ行くか聞いてくれ、ちょうど自分と同じ方向だったから案内してくれたわけだ。疑った自分が恥ずかしくなった。おそらく彼は自分と違うところの場合でも、面倒を見てくれたであろう。旅先での親切は心の底から嬉しくなる。

 セルビス(バンだったがこれもセルビスと呼ぶのだろうか)は近隣の町々に寄りながらバールベックを目指した。途中、ザハレというガイドブックにも載っている大きな街も通ったとき、街の中心の広場に大きなサンタクロースの置物があったのが印象的だった。日本と違って、キリスト教徒がそんなにいないのにこんなことをする訳がないから、おそらくこの辺りはキリスト教徒の割合が高いのだろう。また、このベカー高原を通っている間中、周りは一面の葡萄畑だった。知らなかったが、ベカー高原はワインの一大産地であり、山梨の農家もここから葡萄の苗木を輸入したという。意外な繋がりがあるものである。

 約1時間掛かり、12時半にバールベックに到着した。街を歩いていると、スカーフで顔を覆っている人も多く、イスラム色がかなり強いように感じた。それもそのはずで、バールベック周辺は、シーア派原理組織ヒズボラ(神の党)の本拠地であることからも分かるように、イスラム教を熱心に信仰する人の多い地域である。そのため、日本まで聞こえてくるその印象はかなり悪い。現在でもイスラエル軍による空爆が時々起こっているようであり、そのたびに物騒な地として「バールベック」という名が日本まで届いている。しかし、住民はヒズボラとは直接関係ないわけだから、彼らにしてみれば迷惑な話である。セルビスを降りて5分も歩くと遺跡の入り口が見えてきた。背後にレバノン山脈が見える雄大な遺跡である。

 この街の歴史は、フェニキア人がリタニ川とアル・アーシ川に挟まれた、肥沃かつ重要な交易ルート上にあったこの地に都市を築いたことから始まった。現在残るバールベックの遺跡はローマ時代のものだが、そこはもともとフェニキア人が街の名前の由来にもなっている農業神バアルを奉った場所である。バアルは、オリエントにおいて、ヤハヴェを信仰するヘブライ人を除くほとんどの民族が信仰していた多神教の主神である。内陸シリアのアラム人の起源で、そこからフェニキア人などのセム系の民族に広まったと言われている。雷神ハダトとかバアル=ハダトと呼ばれることもある。バアルの名は、旧約聖書にも異国の邪神として登場している。主(ヤハヴェ)は、異国の邪神バアルを祀るヘブライ人に対し、何度も預言者を遣わし、その度に悔い改めさすのだが、時間が経つと彼らはすぐに預言者の言葉を忘れ、再びバアルを信仰しはじめる、という記述が旧約聖書に何度にも渡って出てくる。少なくとも、バビロン補囚以前は、ヘブライ人の間にも相当根強く信仰されていたようである。

 フェニキア人のバアル神殿は、バアルだけでなく、その妻である地母神アスタルテ(アラム人にはアタルガディスと呼ばれていた)、子神シミオスの三神一座が崇拝されていた。三神一座の崇拝は、オリエント地域のみならず、バルカンやスペイン、フランス、更にはスコットランドまで広くヨーロッパ地域に見られるものであり、このことからも、ヨーロッパのルーツは紛れもなく中東地域であることがよく分かる。  また、バアル信仰は性的で淫らで、また生贄を求める残虐な要素を多く含んでいたと言われている。シリア北部のウガリット出土の粘土板によると、フェニキア人達の飽くことを知らない血と肉欲の信仰が克明に記されている。その中には、彼らが信仰していたバアルの妻であり妹でもあるアナスの非常に恐ろしい習慣についても述べられている。彼女は生贄の血に首まで浸かることを好み、また生贄の頭と手を装飾品のように着飾っていたと言う。

 バールベックはやがてフェニキア人の街からギリシア人やローマ人の街となった。彼らは、バアルの神殿があった場所にゼウス(ジュピター)を奉り、ヘリオポリス(太陽の街)と呼んだ。バアルとゼウスは共にすべての神の頂点に立ち、また太陽神とされていることから、直接関連付けられ、同一視されていることが多い。フェニキアからギリシア、ローマへの移行がうまくいったのは、宗教上の共通点があったということが大きかっただろう。ローマによる支配は、BC64年のポンペイウス、そして、BC47年のカエサルの進軍により始まった。カエサルは、シリアの大都市パルミラと地中海沿岸の諸都市を結ぶ要衝の地にあるバールベックを重視し、大規模な都市の再構築を始めた。やがて、シリアにおけるローマ第一の植民市として生まれ変わった。カエサル以降もここには巨大な神殿が次々に建設され、ジュピター、バッカスをはじめとする様々な神が祀られた。ローマ帝国における聖地として、多くの巡礼者が訪れたと言われている。

 さて、遺跡の入り口に向かうと、レバノンでは初めて見る光景だったのだが、絵葉書やガイドブックを売る露店がいくつかあった。日本でツアー情報を見ていて、シリアからこのバールベックだけを見て、またシリアへそのままとんぼ返りしていくツアーが多かったので、そういった意味では、レバノン国内で唯一外国人(特に日本人)の多い観光地なのかもしれない。実際、日本語のガイドブックまでが並べられていたのには驚いた。ここでも経済の原則を持ち出せば、それだけ日本人が多くここを訪れるということだろう。

 中へ入ると、まず大きな階段があった。それを登りきると、6角形の前庭、続いて庭園があり、その奥に、ジュピター神殿の巨大な6本の柱が見えた。遠くにその柱を見ながら、楽しみをできるだけ後に取っておきたいという気持ちから、ゆっくりと廃墟となっている庭園を歩き回った。ぐるりと一周している間も、心は全然庭園など見ていなかった。列柱を見るための前座となる儀式をゆっくり終え、ジュピター神殿へと向かった。ジュピター神殿へと近付いていくと、左手の一段低くなったところに、ほぼ完璧な形を残すバッカス神殿が姿を現した。おっ、と思ったが、ひとまずはジュピター神殿である。列柱の真下まで行って上を見上げてみた。20メートルの高さを持つ巨大な石の柱は、威厳に満ちて天に向かって突きだしていた。呆れるほどの大きさで、ひたすらに圧倒される。

 十分に堪能した後、バッカス神殿の方に降りていった。こちらは柱や壁などが、ほぼ完全な形で残っており、たいそう美しい。ジュピター神殿が男性的ならば、こちらは女性的な雰囲気と言えるだろう。バッカス神殿のすぐ近くには、ガイドブック「ロンリープラネット」の表紙も飾っているライオンの雨樋が地上に横たわっていた。昔は西アジア一帯に広くライオンが生息しており、王権や神格の象徴になっていた。そのため、エジプト、シリア、ペルシア、さらにはギリシアにおいても、遺跡にその姿を多く見ることができる。バッカス神殿は、三方を列柱と壁に囲まれているが、一方が開いており、そこから内部へと入ることができた。ちょうど俺が入ったときは誰もおらず、神域という言葉が実によく似合う荘厳さに満ちていた。天井は最初からないのか、もしくは崩れたのか、ともかくぽっかりと開いていた。しばらくの間、静けさの中でぼんやりと神聖な雰囲気に浸ることができた。バールベックの遺跡を出た後、周辺をぶらぶらしていると、遺跡とレバノン山脈の調和が取れた非常に美しい風景に出会うことができた。そこでもしばらく景色を堪能した。

 さて、時間もないことだし、取りあえずセルビスに乗ってシュトゥーラに戻ることにした。ところが、街をどれだけうろうろしても、セルビス乗り場らしいところが見付からない。来るときにセルビスを降りたところは何もない道端だったし・・・ 遺跡の近くにタクシーが何台か停まっていたので、そいつらに聞いてみることにした。最初はタクシーだと言っていたのだが、俺が立ち去ろうとすると、セルビスだと言い始めた。何やねん、いったい! 俺が乗り込むと、10分ほど町中をぐるぐる回って、やっと1人の乗客を捕まえたところで、シュトゥーラに向けて出発した。運転手としては、5人いっぱいに乗せたかったのであろうが、1人よりはましだと思ったのであろう。  途中で何人かが乗ったり降りたりし、約1時間掛かって、シュトゥーラには2時半に到着した。降りたところにセルビスがたくさん停まっていたので、早速、何人かの運転手とアンジャルまで乗せていってくれるように交渉した。予想通り、アンジャルまではセルビスがない(要するにとても5人集まらないような場所ということ)ということで、仕方なくタクシーとしてセルビスをチャーターすることにした。  シュトゥーラからダマスカス街道(ベイルート−ダマスカス間の大動脈)を行き、脇道に逸れてしばらく登ったところにアンジャルの遺跡があった。運転手に入り口のところで待ってもらい、遺跡内に入場した。なだらかな山の斜面に遺跡が広がっている。バールベックもそんなに観光客が多くなかったのだが、アンジャルはさらに少ないため、気持ちいい静けさが辺りを支配していた。

 アンジャルの遺跡は、ウマイヤ朝の時代のものである。ウマイヤ朝とは、ムハンマドとその後継者の4人の正統カリフの後を受け継いだ形で、ムーアウィアが建てた、最初のイスラム世襲王朝である。イスラムは、正統カリフの時代とこのウマイヤ朝の時代に爆発的に普及した。現在のイスラム圏というのが、ほぼウマイヤ朝までに確定したと言っていい。ところがその一方で、ウマイヤ朝時代の遺物というのが、驚くほど残っていない。ウマイヤドモスクなどがシリアに弱冠残っている程度で、ことレバノンには永らくウマイヤ朝の遺跡はないと考えられてきた。ところが、1940年に発見されたアンジャルの遺跡は、やがて発掘が進むに従って、ウマイヤ朝の遺跡であることが判明した。8世紀初頭のカリフだったアル・ワリードにより建設された宮殿の遺跡である。歴史的に見ても非常に重要な発見であった。遺跡を見ている限りでは、外観などローマ時代の遺跡と変わらず、特にウマイヤ朝のものとは分からなかった。これは、建材の多くを周辺のローマ遺跡から再利用したことにもよるのだろう。また、ここからの風景は、煉瓦積のアーチにレバノン山脈が映えて大層美しかった。(写真1写真2

 30分ほどで一通りぐるりと回って、タクシーへと戻った。シュトゥーラには3時半すぎに着いた。そのままセルビスを乗り継いでベイルートへと向かった。小型バンの後部座席にただ一人の乗客だけだったので、かなりゆったり座ることができた。左折車(右側通行だから日本でいう右折車のこと)と直進車が入り乱れ、互いに車体を相手より先に入れた方の勝ちという、凄まじい交通無法地帯のベイルート市内を通って、4時半すぎにコーラのセルビスターミナルに到着した。そのまま、市内セルビスに乗り継いで、ハムラ地区へ向かった。5時すぎにホテルに戻ってきた。シャワーを浴び、7時半頃眠りについた。

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