フェニキア歴史紀行

1998年12月27日(第2日目) フェニキア人の港町  ベイルート−スール−サイダ−ベイルート

 到着ロビーのベンチに座って、実に朝の5時まで居続けた。空港は何にもないと言っていいくらいがらんどうだが、割と明るくきれいであり、ベンチなども新しい。俺はベンチでボーっとしながら、あちこちにできている出迎えの抱擁の輪を眺めていた。意外なことに、彼らは「メリークリスマス」とあいさつしていた。そう言えばと思い、空港内を見渡すと、クリスマスツリーをはじめ、様々な飾り付けが施されている。噂には聞いていたが、レバノンは予想以上にキリスト教が浸透し、社会の主要な地位を占めているらしい。

 レバノンは民族(宗教)のモザイクのような国家である。イスラム教徒がほとんどの割合を占める中東の国々の中にあって、キリスト教徒の割合が3割近いという、特異な国家形態を持っている。そして、単純にキリスト教とイスラム教に二分化されているだけでなく、キリスト教はマロン派とギリシア正教、そしてイスラム教はシーア派、スンニ派、ドルーズ教というふうに更に細分化している。この中で、フランスの植民地政策によって永らくこの国の支配階級にあったのがマロン派のキリスト教徒であるため、特にベイルートなどの都市部においては、キリスト教の社会的地位に占める割合が特に高いのだろう。それが空港のクリスマス飾りに現れているのではないだろうか。

 午前2時に到着した便が終わると、あとは6時すぎまで到着はない。2時半頃に最後の便の出迎えが一段落した途端に、空港内が閑散としてきた。この時間に掃除を集中的にするのか、5〜6人がモップを持ったり掃除車に乗ったりして、広い構内を順番に磨き始めた。彼らがベンチの近くに来たときは退いてあげたりして忙しかったが、あとはガイドブックでホテルをピックアップしたり、ボーっとしたりしてひたすら夜が明けるのを待った。

 午前5時頃、そういえば換金してないなあと思い、銀行がないかと2階の出発ロビーの方まで行ってうろうろしていると、タクシーのおやじに捕まってしまった。もう1時間くらいは時間をつぶそうと思っていたため、一度は断った。しかし、しつこく勧めてくるので、いい加減空港にいるのも飽きてきたこともあり、値段交渉してベイルート市街まで乗せていってもらうことにした。まだ真っ暗なベイルート市街を走り、現在の中心地でホテルも集まっているハムラ地区で降ろしてもらった。かつてのベイルートの中心地のダウンタウン地区が、内戦によってめちゃくちゃに崩壊してしまい、現在もまだ復興途上であるため、比較的内戦の被害の少なかったハムラ地区がベイルート一の繁華街となっている。

 夜明け前の繁華街は、ネオンが明るいのに人通りが全くなく、また車も時々しか通らないため、明るさが逆に静けさを引き立てており、かなり不気味である。映画とかで夢の中の場面として出てくる、明るくぼやけた、人がだれもいない静かな街(誰も乗っていないメリーゴーランドが回っているイメージ)ってこんな感じだったよなあ、とふと思ったりして、不思議な気分になったりもした。しかし、大きな荷物を背負ってこれから宿を探してうろうろしなければならない俺にとって、こんなに明るくては、金持ち日本人がうろうろしています、と宣伝しながら歩かなければならないように感じて、かえって暗い街の方がよかったのではないかとさえ思えてきた。やっぱりもう少し空港に居ればよかったかなぁ。広場恐怖症のネズミのように、明るく照らし出された自分の姿に怯えながら、ロンリープラネット(英語版ガイドブック)の地図を頼りに宿探しを始めた。1件、2件、チェックしておいた宿が見付からなかったり、夜のためか厳重に施錠されていたりして、なかなか安住の地に辿り着けない。だんだん不安が高まってきた。俺が泊まろうとしている20〜30ドルくらいの中級ホテル(内戦のため、ダウンタウン地区に多かった安宿のほとんどが崩壊してしまい、ベイルート市内の安宿は極めて少ない状況にある)に対し、午前5時過ぎに入り口を開けておけと言う方が無理なのかもしれない。それにしても、厳重な施錠を見ていると、治安が悪いことを如実に物語っているように思えて、実は後からそんなに治安が悪くないことを知るのだが、そのときは本当にびくびくしながら宿探しを続けた。

 ようやく4軒目に当たりがきた。ホテル・メイフラワーという名の、いかにもキリスト教でございますといったホテルが、フロントに電気を点けて入り口を大きく開けていたのである。助かった! 迷うことなく飛び込んだ。フロントにはおやじと床を掃除していたインド人のボーイがおり、こんな時間に突然入ってきた変てこりんな東洋人旅行者に対して、不思議そうな視線をそそいでいた。まあ、こっちは余り気にせず、いつものように交渉に入った。さすがに午前5時すぎでは早すぎるようで、今チェックインすると昨晩の分が必要とのことだった。それではせっかく苦労して空港で夜を明かした意味がない。仕方ないから、フロントで荷物を預かってもらって、夕方に観光から帰ってきてからチェックインするしかないかなと思っていると、向こうの親切によって、帳簿上は今日の昼にチェックインしたことにして、実際は今部屋に入れることになった。レバノンって、案外堅いな。5時台はさすがに初めてだが、6〜7時台に宿に着くことはよくある。しかしこんなことを言われたのは初めてである。フロントのおやじにしても、何かフランス人のような醒めた感じがする。ちょっとアラブって雰囲気じゃないよな。その時ちらっとそんなことを思ったのだが、何よりも落ち着くところが決まったことがうれしくて、まあ、そんなフランス的な冷たさなんて半分どうでもよかった。

 部屋はオーソドックスなヨーロッパの中級ホテルといった感じがする。部屋で少し休みながら外へ出る準備をして、午前6時半にまだ夜明け前の薄明るさの漂う街に出た。今日はレバノン南部へ行こうと思っていたので、フロントに鍵を預けたときに、バトル(戦闘)やボム(爆弾)は大丈夫か、と聞いてみた。フロントのおやじは、苦笑しつつも問題ないと答えてくれた。こっちは大真面目で聞いたつもりだったのに、向こうにしてみれば、的外れというかブラックユーモアくらいにしか聞こえなかったようだ。まあ、その反応を見て、少しは安心することができたのだが。

 今日俺が行く予定のサイダやスールは歴としたレバノン領だが、更に南のレバノン最南部はイスラエル軍による占領が続いている。そのため、現地の情勢は常に不安定、というのが日本にいたとき仕入れていた情報だった。ましてや米英がイラクを攻撃した今、緊迫の度合いを高めているんじゃないだろうか、と日本を発つ前からずっと心配していた。そのため、フロントのおやじのフランス仕込みの人をバカにしたような顔によって、現地感覚の安全度を的確に知ることができて本当に助かった。

 レバノン南部へは、ベイルート市南部のコーラ地区からセルビス(乗合タクシー)が出ている。そして、コーラへ行くには、これまたタクシーか市内セルビスに乗っていくしかない。しかし、地図を見るとそんなに遠くもなさそうだったので、歩いて行くことにした。徹夜明けで辛かったけれども、いろいろなものが見られるかもしれないという期待もあり、ぶらぶらとコーラに向けて歩き始めた。いろいろなものとは、勿論、内戦でボロボロになった建物などのことである。

 レバノン内戦については明日のところで詳しく述べるとして、俺がベイルートでまず見たいと思ったのは、悲惨な市街戦の痕跡だった。レバノンと聞くと、崩れかかったビルを背景に砲撃を続ける戦車だとか、市街戦を繰り広げる市民兵の姿がとっさに脳裏に浮かんでくる。おそらく小中学生の頃、何の気なしに見ていたニュースによって刷り込まれたイメージであろう。そんなかつては泥沼の無秩序状態にあったベイルートも、今では平和な時が流れ、人々は普通に生活している。そのような人々の姿と、内戦の爪痕であるボロボロのビルというコントラストを眺め、よくぞ平和がもたらされたものだ、という感慨に耽りたかったわけである。俗な野次馬根性が多分にあったことは否定しないが、市街戦の怖ろしさを肌で感じたいと思い、期待しながらベイルートの街を歩いた。ところが、コーラまでの約1時間の道のりには、そのような俺の欲求を満足させてくれるようなビルは全くなかった。ぼろいビルならあったというか、どれもぼろいビルだった。しかし、別に内戦でなくともこれくらいは普通に古くなるだろう。激戦地だったと言われているダウンタウン地区が、ハムラからコーラへ向かう道から外れていたこともあったのかもしれない。とにかく何事もなくコーラに着いてしまった。コーラの交差点はかなり大きく、また高架も走っており、まさにベイルート市内交通の要衝といった雰囲気がする。交差点の一角に、道が少し広くなったような形でセルビスのターミナルがあった。注意深く大通りを渡って、その一角へと行った。

 今から俺が乗ろうとしているセルビスタクシーは、レバノンの最も一般的な交通手段である。レバノンには鉄道がない。それは仕方がないとして、何とバスもない。バスがないとは一体どういうことだろうか、と思ってしまうが、噂では内戦の影響でめちゃくちゃになったバス路線がまだ復活していないらしい。実はレバノン中を回ってみると、バスがあるところもあった。しかし、その運行はガイドブックには書いてないし、実際不定期で、確実にここで待っていれば来るというものでもないらしい。それどころか、バスの運行の実態は、地元住民でさえあまりよく分かっていないのではないか。人々は、運良くバスがあればそれに乗るけれども、そうでなければセルビスに乗っているように俺には見えた。ここでもう少しセルビスの説明をしたい。セルビスタクシーとは乗合タクシーのことである、とガイドブックに書いてある。しかし乗合タクシーと言われても、他の国では乗合タクシーとは小型バンのところが多いから、レバノンのように外見上普通のタクシーと変わらないと、そのシステムが今一つよく分からない。もう少し後に知るのだが、要するに同じ車でも1人で乗るとタクシー、5人集まるまで待って乗るとセルビスタクシーということらしい。市内の場合は必ずしもこうではないものの、都市間移動の時は厳格にこのシステムが適用されている。当然値段はセルビスがタクシーの5分の1になる。また、前2人、後ろ3人という配置のため、はっきり言って前の2人はかなり窮屈で悲惨である。そのため、2人分の料金を払うと前に1人でゆったり座ることができるらしい。

 セルビスターミナルへ行くと、いきなり"シュトゥーラ?"と声を掛けられた。シュトゥーラとは明日行く予定のベカー高原入り口の街で、その時は全く知らなかった。いや、スールへ行きたいというと、他の車の運転手に対して、多分"この男はスールだ"とでも言ったのだろうか、何か叫んで俺の受け渡しが行われ、受け取った男から1台のセルビスに案内された。まだ誰も乗っていなかった。しかし、20分も待つとしっかり5人集まって出発した。前ほどではないと言っても、後ろもかなり窮屈である。これからスールまで2時間も、肩をすぼめたこの格好で耐えなければならないと思うと、少々うんざりした気分になってしまった。

 車はベイルート市街を抜けて、昨夜一晩過ごした空港の横を通って、海岸沿いの道を南下していった。ベイルート市街を歩いているときから感じていたことなのだが、レバノンの車ははっきりいって運転がめちゃくちゃでかなり怖い。また、道もぼこぼこで、至る所にアスファルトが剥がれて大きな穴が開いている。そのため、それを避けながらのジグザグ走行が続いている。内戦の影響かどうか知らないけど、主要幹線がこれではどうしようもないな。  それにしても、なかなか真っ直ぐスールへ行ってくれない。途中、3度ほど停まって、その都度乗客やら運転手が5分くらい買い物をしてくるのである。全く、セルビスなんて気楽なもんだぜ。こういう融通の効くところがセルビスの人気で、なかなかバス路線が復活しない理由なのだろうか。

 さて、もう一つこの道中で衝撃的なことがあった。何とラジオからジングル・ベルが流れてきたのである。しかもアラビア語で… 何やねん、それ! ちょっと反則ちゃうか? よく考えると当たり前のことなのかもしれないが、レバノンのキリスト教徒が、アラビア語を話すことを悟り、愕然としてしまった。アラビア語とはイスラム教であり、また、イスラム教とはアラビア語であると思っていた。事実、その昔、コーランはアラビア語からの翻訳が禁止されており(今も正式に許されているわけではないが)、イスラム教徒というのは、アラビア語でコーランを唱え、礼拝しなければならない存在だった。そんな俺が長年信じていたイスラム教とアラビア語の深い関係に、いきなり楔が打ち込まれた。袈裟を着た坊主連中が賛美歌を歌っているのを聞いたくらい驚いた。もっとリアルに言うならば、そのジングル・ベルを聞いていると、俺の空想の中で、トナカイがラクダに替わり、赤いサンタ帽がターバンに替わっていった。

 車はサイダの街を抜け、約1時間半かかってスールに到着した。街は海に突きだしたような小さな半島の部分にある。俺たちの車も幹線から外れて、少し半島部分に入ったところにある街の真ん中に停まった。今いる位置を地図で確認してから、スールの街を歩き始めた。

 スールは別名ティールとかティルスと言う。俺としては、高校時代に世界史で習ったティルスの方がロマンをかきたてられて好きである。ヘロドトスによれば、この都市はすでにBC2750年頃には存在していたらしい。当時この都市は、本土と島の部分とに分かれており、島の方は半ば要塞となっていたと言われている。その後約2000年間、エジプトの支配を受けたりしたこともあったが、地中海と内陸アジア、エジプトを結ぶ要衝として交易において莫大な利益を上げ、南の女王とも呼ばれる未曾有の繁栄を築き上げてきた。イスラエル王国とも友好関係を保ち、ダビデ王に石工や香柏を送ったり、ソロモン王がエルサレムに神殿を建築するときにレバノン杉を送ったというエピソードもある。地中海は「ティルスの海」とも呼ばれ、まさに彼らの船が行き交う庭のようなものだった。

 そして、ティルス、シドン、トリポリなどのフェニキア都市国家によって、地中海沿岸各地には、フェニキア人の植民市が建設された。その中で最も有名なのがBC9世紀にティルスにより建設されたあのカルタゴであり、その繁栄はやがて本国を凌ぐようになってくる。ちなみに、ローマとカルタゴの間で戦われたポエニ戦争のポエニというのは、フェニキアのラテン語読みである。皮肉なことに、植民市カルタゴの繁栄と反比例するように、ティルスの富は急速に減少し始め、国力も衰えてきつつあった。 オリエント世界にアッシリアの嵐が吹き荒れたBC8世紀、衰退しつつあったティルスは、アッシリアに抵抗する力もプライドもなく、しばらくの間屈辱的な隷属状態に置かれることになった。イスラエル王国などはこの時にアッシリアに反抗して滅ぼされている。その後アッシリアの力が弱まるにつれ、隷属状態から解放され、束の間の安息を得ることになるが、やがて様々な勢力との間に絶え間ない戦争が続くことになった。その中には新バビロニアの王ネブカドネザル2世による13年間の包囲戦も含まれている。ユダ王国の首都エルサレムを陥落させ、世に名高いバビロン捕囚を行ったネブカドネザル2世の攻撃は執拗を極めたが、海上に浮かぶ難攻不落の要塞都市は、何とかこの攻撃を耐え抜いた。(陥落したという説も有力)

 しかしBC4世紀、ついにティルスは都市国家としての終焉の時を迎える。それは、軍事の天才アレキサンダー大王の出現によって。同じフェニキア人国家のシドンやビブロスは、イッソスの戦いでアレキサンダーがアケメネス朝ペルシアの軍を敗走させ、シリア・パレスティナ地方へ進軍する素振りを見せるやすぐに、降伏して隷属するための使者を送っている。ところがティルスのみは隷属を拒み、ついにはその包囲を受けることになった。ティルスは、それまではペルシアの庇護のもとに交易を行い、またこの度の戦争においてはペルシア側に加担し、ペルシア海軍の主力を形成していたのだが、それはアレキサンダーへの隷属を拒んだことへの大した理由にならない。おそらく、ティルスのような交易によって生きる小国にとって、忠節などという考えは美徳ではなく、むしろバカげた行為だったに違いないからである。それではなぜ、ペルシアからアレキサンダー(マケドニア)に乗り換えなかったのだろうか。由緒ある都市としてのプライドや、最終的にペルシアが勝利をおさめるという見通しの甘さ、更にはこれらすべての考えの基本となっているところの、難攻不落の要塞であるという自信があったのだろうが、何よりも地中海交易の覇権争いが絡んでいると思われる。

 当時、東地中海で海上交易を取り仕切っていたのは、フェニキア人とギリシア人だった。一時、暗黒の時代にあり、フェニキア人に押されっぱなしだったギリシア人は、ペルシア戦争前後から徐々に勢力を拡大し、このころにはフェニキア人を圧迫しつつあった。そのような巨大になりつつあるギリシア人の勢力に対し、ティルスはアケメネス朝ペルシアを後ろ盾に、懸命に張り合っていた。そんな時にアレキサンダー大王の東征が始まった。言うまでもなく、アレキサンダーはギリシアの勢力を代表する存在である。つまり、ペルシアからアレキサンダーに乗り換えるということは、地中海交易を完全にギリシア人に明け渡すということに他ならない。ティルスにとって交易を失うということは、そのまま都市の死を意味する。死なないまでも、フェニキア人ではなくギリシア人の都市になってしまうであろう。そうなってしまっては、いくら堅牢な要塞があっても仕方がないということが彼らにはよく分かっていたのだはなかろうか。

 包囲戦の直接的なきっかけは些細なことだったと言われている。ティルスに向かって進軍してきたアレキサンダーは、ティルスからの使者に対し、ティルスの主神メルカルトに供物を奉納したい旨を申し出たが、それを断られたため包囲戦に突入したというのである。メルカルトは、アレキサンダーの父方の祖先と言われているギリシア神話の英雄ヘラクレスと同一視されているため、彼も奉納を申し出たという。しかし、これは事実上の降伏勧告だったのであろう。  毎度の如く、ティルスの市民は海上の要塞に閉じこもって、アレキサンダーという嵐が通り過ぎるのをひたすら待った。ネブカドネザルの13年に及ぶ包囲を耐え抜いたという自信が彼らを強気にしてしまっていた。しかし、アレキサンダーをネブカドネザルと比べるべきではなかった。彼らの不幸は、今回自分たちを囲んだ相手が、古代オリエント史上最高の名将ということを知らなかったことである。この天才は、今まで誰も考えなかった方法で、ティルスの攻略に取りかかった。

 アレキサンダーは、ティルスが難攻不落を誇っているのは、四方を海に囲まれているからだと考えた。ここで彼の発想は、凡人の及びもつかぬところに飛躍する。彼は将軍たちを前にこう言い放ったという。「フェニキア人も大陸に属することを教えてやろう。」 彼はティルスを大陸の一部にするべく、突堤を築き始めた。  「化け物か…」ティルスの市民は自分たちを囲んでいる弱冠20歳そこそこの青年に対し、底知れぬ怖ろしさを感じたに違いない。彼らは、一日ごとに近付いてくる陸地を眺めながら自分たちの末路を予感していたことであろう。しかしそれでも彼らは、絶望的な状況下で懸命に戦った。7ヶ月もの間、突堤によってつながってしまった陸と、それから海とからの絶え間ない猛攻を耐えに耐えた。

 なかなか落ちない要塞に、アレキサンダーは一計を案じた。今まで全軍で攻めていたのをやめ、兵士の大部分を休ませて、少数の兵だけの攻撃に切り替えたのである。態勢を立て直して再度全軍で攻めてくるのか、長期戦へ移行する準備なのか、諦めて次へ進軍するつもりなのか、ティルス市民は彼の真意を図りかねたが、取りあえず当面の危機が去ったということで、今まで張りつめていた緊張の糸が緩んだ。実は彼の狙いはそこにあった。突如ラッパが鳴り響くや、全マケドニア軍は取って返して一気にティルスを囲み、猛烈な勢いで攻め立てた。これにはさすがのティルスもひとたまりもなかった。人々は完全に戦意を喪失し、難攻不落を誇ったティルスの要塞はついに陥落した。この戦争で8000人の市民が死に、3万人が奴隷として売られた。このとき、自軍の膨大な損失に怒ったアレキサンダーは、都市の半分を破壊している。ペルセポリスを焼いたときもそうだが、この青年は時に激情に身を任せることが多かったようである。

 また、こんな話も伝わっている。マケドニア軍が陸続きになった要塞を猛烈な勢いで攻めているその裏で、アレキサンダーは技術者に命じて、可動式の攻城塔を作らせていたという。包囲から7ヶ月目にしてようやく、20階建ての高さを持つという怪物のように巨大な攻城塔ができあがった。後にも先にもこれほどの大きさの攻城具の記録は皆無と言っていい。出来上がった攻城塔は突堤を通って城壁近くまで運ばれ、城壁を守るティルスの兵の真上から矢を降り注いだ。ティルスの兵は城壁に近付くこともままならなくなった。こうして丸裸同然となった要塞はやすやすと陥落したらしい。いずれにせよ、このティルス攻めは、アレキサンダーの天才ぶりを示す逸話に彩られている。しかし、その華やかさの影で、かつて栄華を誇ったフェニキア人の都市国家がひっそりと幕を閉じたことを思えば、何とも物悲しい。やがて、分家ともいうべきカルタゴもローマによって同じ運命を辿るわけだが、古代史において、都市国家の滅亡がこの両者ほど詳しく語られている例は少ない。そのようなことからか、フェニキアという言葉の響きには、歴史に名を留めた最初の悲劇的な民族としての"もののあわれ"さがこもっているように思えてならない。特に滅びの美学を多分に持ち合わせた日本人としては、強い哀愁を感じる。

 ティルスの街は、アレキサンダーとその後継者の帝国の支配を経て、やがては大ローマ帝国の都市として再構築された。かつては要塞だった島の部分は海に突きだした半島のようになり、陸と完全につながって一つの街を形成した。水道橋、凱旋門、ヒッポドロモスなどが建設され、街もローマ風に変わった。現在残されている遺構は、ほとんどすべてがローマ時代に由来するものばかりである。ちなみに、ヒッポドロモスとは、映画「ベン・ハー」にも出てくる巨大な戦車競技場のことである。  大ローマ帝国の後は、その後裔のビザンツ帝国(東ローマ帝国)下でキリスト教文化が花開いた。大主教座が置かれ、14の主教座をその配下に従えていたという。4世紀には以前の輝きを取り戻しつつあった。そして、バジリカ様式の教会が、以前メルカルト神殿のあった場所に建てられた。その後、636年からはアラブ人の支配下に置かれ、イスラム教徒とキリスト教徒が共存するようになった。その状況は十字軍の時まで続いた。

 1124年、十字軍がこの海岸地方に迫った。1099年のエルサレム陥落の際、大量のイスラム及びユダヤ教徒が虐殺されたという衝撃は、まだ人々の記憶に新しいところであったため、他の都市の住民は大挙してここティルスに避難してきた。依然として、難攻不落の要塞だと信じられていたのである。しかし、今回は5ヶ月半の包囲の後、結局十字軍の手に落ちた。以来、十字軍の重要な拠点として、再び堅牢な城壁が築かれ、街にも教会が数多く造られた。かつて、キリスト教の迫害者として名高いディオクレティアヌス帝の命により壊されたバジリカの跡に、壮大なカテドラルが造られた。12世紀末に聖地エルサレムを奪回するため、第3回十字軍が起こされると、ティルスはそのエルサレム攻撃の拠点となった。この十字軍は、リチャード獅子心王とアラブの英雄サラディンの逸話で名高いが、リチャードやフランスのフィリップ尊厳王と共に参加していた神聖ローマ皇帝フリードリヒ赤髭王は、小アジアで渡河中に不慮の事故で亡くなり、ここティルスのカテドラルに埋葬されたと言われている。

 167年間十字軍の拠点となったティルスだが、1291年マムルーク朝の軍によって、再びイスラム勢力の支配下に置かれることになった。マムルーク朝は、ヨーロッパの再来を恐れ、古い遺構から十字軍時代のものまで、街を完全に破壊した。また、このころから、かつて良港を誇ったティルス港も沈泥のため使い物にならなくなっていた。こうして、ティルスの街は完全に歴史の表舞台から姿を消した。その後は17世紀初頭に一時復興しかかったこともあったものの、片田舎の漁港として現在に至っている。

 さて、セルビスを降りて5分も歩くと、半島側の遺跡が見えてきた。よく写真などで見たことのある、列柱通り(写真1写真2写真3)である。地中海をバックにして、多くの石の柱が天に突きだしている。ガイドブックには無料と書いてあったのに、遺跡の入り口にチケットカウンターがあり、入場料を取られてしまった。それだけレバノンが復興しているということなのだろうか。世界の平和を願う自称国際人としては、喜ぶべきことなのかもしれないが、正直言って金を取られるという現実自体は悲しかった。心の中で国際人と俗人が葛藤しつつ遺跡へと入場した。  遺跡内は、俺の他には4人のグループがいただけだった。これほどのレベルの遺跡としては、異常なまでの観光客の少なさである。ただ、後日他の街の遺跡に行ったときは、もう少し観光客がいたので、これはレバノン全土に言えることではなく、南部のみが特別ということなのだろう。危険と思われているのか、観光客から敬遠されているようである。

 この列柱通りは、ティルスが一つの街になった後のローマ時代のものだが、半島の先端近くにあることから、アレキサンダー以前は島の部分だったところと思われる。列柱通りに立ち、地中海を眺めながら、しばらくいろいろなことを考えた。ここから交易船を出して地中海を自由に行き来したフェニキア人たちのこと、アレキサンダー大王のこと、遙か海の向こうのカルタゴのこと。そんなこんなでボーっとしつつも、ふと我に返ると、目は自然と南の方へ向けられていた。あそこに見える陸地は、イスラエル軍の占領地だろうか。歴史の世界から現実世界に引き戻されると、そこにはイスラエルという国家によって引き起こされた、中東地域全体の大問題が横たわっていた。好むと好まざるとに関わらず、このことについて何かしら考えないわけにはいかなかった。

 今回、レバノン、シリアへ行こうと思った理由の一つに、4月にイスラエルへ行ったということがあった。あの時は、イスラエル側から中東の問題についていろいろ考えた。イスラエル北部の街アッコで北の方(レバノン)を眺めたり、ガラリア湖でゴラン高原をすぐ近くに感じたり、死海では対岸のヨルダンに目を奪われたりした。そのとき、次回の旅行ではイスラエルとの間に直接の利害関係を持つ国(シリア・ヨルダン・レバノン)へ行き、そこからイスラエルを見ながらいろいろなことを考えないと、何だか片手落ちのように感じたことが、今回の旅行の底辺にあった。  ここスールから南の方を眺めていると、アッコへ行ったときのことが思い出されてきた。このスールやサイダと同じく十字軍の街として知られるアッコは、ここから数十キロ南に行ったところにある。かつてはスールとも一つの文化圏を形成していたのだが、今では両者の間には越えられない壁ができてしまっている。いつの日か、ベルリンの壁のようにこの壁も崩れる日が来るのだろうか。この壁を作っているイスラエルという国家のことは、レバノン内戦のときに詳しく述べるとして、ここではその壁からこちら側に浸みだしている、レバノン南部の占領という事態を少し考えてみたい。

 地図の上ではレバノンの色に塗られていながら、イスラエルが公然と占領する地域があるということは、つい最近まで知らなかった。ヨルダン川西岸やガザ地区などは、イスラエルが占領している形態ではあるものの、イスラエル側が彼らの固有の領土であると主張しているため、一応の筋は通っている。もちろん、その主張の正邪は全く無視して、イスラエルの言い分が正しいと仮定しての肯定である。そのため、地図によってはこれらの地域はイスラエル国家の色に塗られている。しかしながら、イスラエルによるレバノン最南部の占領は、イスラエル側も明らかにレバノンの領土と認めた上でのものである。イスラエルは、レバノン内戦以来、南レバノン全体を占領しており、1985年に南レバノンから撤退を決めた後も、セキュリティゾーンとして、イスラエル国境地帯をそのまま占領地域として残した。イスラム原理組織ハマスや、PLOの越境攻撃からイスラエル本土を守るため、という名分の元に、白昼堂々と主権侵害が行われているわけである。主権国家間でこのような占領がまかり通るとは、実に信じ難い。こんな状況で、果たしてレバノンは本当に主権国家と言えるのだろうか。また、国際社会は、なぜこのような事態を公然と非難しないのか。考えてみればおかしな話である。まるで腫れ物を扱うかのようなその態度からは、イスラエル問題の複雑さ、つまり、欧米主導の国際社会自らがこの問題を作り出してしまったという後ろめたさが感じられる。

 列柱通りのある遺跡を出て、次は半島の付け根−昔は本土側だったところ−にある、もう一つのローマ時代の遺跡へと向かった。その途中、路上でサッカーに興じていた10歳くらいの子供たちのグループがいた。俺が近付いていくと、誰からともなく歓声があがった。たちまちサッカーは中断され、全員が駆け寄ってきた。見ると、どの子供の目も輝いている。余程に東洋人が珍しかったらしい。刺激的な要素の少ない鄙びた港町に住む彼らにとって、このような出来事でも1年に何度あるかという大事件だった、とまでは言い過ぎであろうか。彼らはまず俺に握手を求め、次いで「カラテ」を要求した。彼らを最高に満足させるパフォーマンスは持ち合わせてなかったが、イスラム教徒がみなコーランを知っているように、東洋人はみな武術ができる、という彼らのイメージを壊したくなかったので、真似事の構えだけをして見せた。それでも彼らの欲求は十分に充たされたようだった。

 彼らと別れ、更に進んでいくと、まるで工業団地の造成工事現場のような、広大な空き地が現れた。その空き地の向こうの方に、遺跡らしきものがある。う〜ん、どうやって行けばいいのかな? 空き地全体はぐるっと金網で囲われていたが、所々で破れていた。おそらくしっかりした入り口は、ここから半周した正反対のところにあるものと思われるが、ここの金網の破れ目から入っていいものやら、少しうろうろしていると、空き地に面したところにある電気工事屋の若い兄ちゃんから手招きされた。何じゃらほい、と行ってみると、修理しかけのエアコンを見せられた。どうやら日本製の中古品のようで、日本語で機能の説明が書いてある。彼は、"お前は日本人だろ、読んでみろ"とでもいうように俺の反応を待っていた。はっきり言ってどのようなリアクションをすれば彼が満足するのか分からずに困ったが、取りあえずその日本語を英語に訳して復唱してみた。そしてしきりに感心したような、少し誇らしいような表情をして見せた。彼はそんな俺の反応を見て、日本からの遠客をもてなすことができたと思い、とても満足そうだった。

 彼に遺跡への行き方を聞くと、そこの金網の破れをくぐっていけとのことだったので、言われたとおりに空き地へと入った。土がむき出しになったでこぼこの空き地を歩いていくと、やがて石畳の道が現れた。それに沿って歩いていると、知らないうちに周囲は遺跡になっていた。石畳の先には大きな凱旋門が見えたので、それを目指して歩いていった。アレキサンダーの凱旋門と呼ばれることもあるようだが、これはローマ時代に造られた街の入り口の門で、アレキサンダーとは関係ない。凱旋門をくぐる手前の右手に、巨大なヒッポドロモスがあった。ヒッポドロモスとは、馬で二輪戦車を牽く競技場で、ストレッチの長さは480メートルもある。現在の競馬場と違い、コーナーがマラソンの折り返し地点のように急だったため、よくそこで衝突や転落が起き、大いに盛り上がったらしい。コロッセオで行われていた剣奴同士やライオンとの闘いの例を引くまでもなく、ローマの娯楽というのは、現代の我々から見ると、つくづく残酷趣味に徹している。おそらく、落ちた人が馬蹄と車輪によって轢き殺されるに及んで、民衆の興奮は最高潮に達したのであろう。 また、凱旋門の周辺はネクロポリス(死者の街)になっていた。ローマの遺跡によくあるネクロポリスの中でも、ここのものは規模が大きく立派である。ネクロポリスやヒッポドロモスをぐるっと回り、再び石畳の道を引き返した。そして金網の破れから外へ出て、セルビスを降りた広場へと向かった。

 10分ほどで広場に到着した。サイダへ行くセルビスを探そうと思っても、ベイルートのセルビス乗り場と違ってただの駐車場も兼ねているようだったので、一体どこにセルビスが停まっているのか分からずに困ってしまった。ごちゃごちゃに車が停めてあるスペースをうろうろしていると、バスが停まっているのが目に入った。聞くと、サイダに行くという。そのときは、バスが運行しているとは思ってもみなかったので、意外な事態に少し戸惑った。が、促されるままにバスに乗り込んだ。バスはスール市内で客を拾った後、サイダへ向けて海岸線を北上していった。1時間弱掛かり、正午すぎにサイダに到着した。値段はかなり安かった。セルビスで行くことを想定した場合、おそらくこの3倍は取られたであろう。ただの道端が終点だったのでそこで降り、海の方へ歩いていった。

 サイダ、歴史的にシドンと言った方が良く知られているこの街には、紀元前4000年頃から人が住んでいた痕跡があると言われている。やがてフェニキア人の住む街となったシドンは、Murexという貝から取れる高品質の紫染料と、当時世界最高の技術を誇ったガラス工芸品の交易によって莫大な富を得て、永らく繁栄を極めた。たいていの歴史の教科書が、シドンとティルスを並べて記述してあるように、この両都市は同じような歴史を辿りつつ発展してきたと言っていい。アケメネス朝ペルシア時代には、ティルスと共にペルシア海軍の主力を担い、多くの優秀な船乗りや船大工を輩出した。

 しかし、アケメネス朝末期のアルタクセルクセス3世の時、ペルシアの圧政に堪えかねたシドンは、ついに反旗を翻した。が、すぐにペルシアの大軍に囲まれた。すると、彼らは城門を厳重に閉じ、そして自ら火を放った。火はシドン市街を焼き尽くし、4万人の市民が焼け死んだという。このことで、ペルシアに対する深い怨みだけが残った。やがて、アレキサンダー大王の東征が始まると、彼らは真っ先に恭順の使者を送り、そっくりそのまま自らの都市をアレキサンダーに明け渡した。これを境に人々は征服者に同化し、フェニキア人の都市国家としてのシドンは消滅した。シドンやティルスのみならず、すべてのフェニキア人−遠くカルタゴの地に繁栄を築いた同胞を別にして−が、アレキサンダーの東征を境に、忽然とその姿を消した。このように、謎めいた存在となってしまったフェニキア人とは、どのような民族だったのだろうか。

 フェニキア人は、何度も言うように優秀な海洋民族である。BC12世紀頃にヒッタイトやエジプトを悩ませた「海の民」の一派とも言われている。彼らは交易においてその威力を最大限に発揮した。地中海を庭のように駆け回り、当時の世界中の富を集めることで、空前の繁栄を築き上げた。かつて、征服もしくは戦争以外の手段、要するに知力や商才といったことだけで、これほどの富が集められたことはなかった。彼らの航海術がいかに優れていたか、また、彼らの好奇心がいかに旺盛だったかを物語る、一つの有名な逸話がある。ヘロドトスの「歴史」には、BC6世紀フェニキア人がエジプト王ネコスの命により、アフリカ周航を果たしたという記述がある。紅海を南に向かい、リビア(古代におけるエジプト以外のアフリカの総称)をぐるりと回り、3年後にヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)に達したという。その間、太陽が常に右手にあったと、ヘロドトスはまるで法螺でも聞いたように書いてあるが、赤道を境に、太陽が北に昇ることを考えるなら、東(紅海)から南周りで西(ジブラルタル)に周航したこの航海において、太陽が常に右手にあったことは正しい。バルトロメウ=ディアスが喜望峰に到達し、バスコ=ダ=ガマがインド航路を発見した2000年以上も前に、フェニキア人はアフリカを一周していたのである。驚くべきことと言わねばなるまい。

 そして、歴史上フェニキア人の名を不朽のものにしている事実として、彼らが商業活動の必要上から、22文字から成るアルファベットを発明したことがある。我々が馴染んでいるABCの原型がこのときに出来上がったわけである。アルファベットはやがてギリシア人を含む周辺の民族にも採用されていった。この発明がなければ、少なくともあの偉大なギリシア文学の成立はありえなかっただろうし、更に言うなら世界史の流れも違ったものになっていたかもしれない。

 こうしてオリエント世界において、数々の重要な役割を担ってきたフェニキア人だが、彼らは一つ一つの都市国家として存在して、政治的に結合して帝国をつくることがなかったため、常に巨大な勢力に対して弱い立場にあった。しかし、アレキサンダー以前は、歴史上のさまざまな大帝国の傘下に入り、その海上交易(もしくは海軍)を担うことで、うまく分業体制が敷けていた。それまで、大帝国は常に陸の民族が築いており、海については玄人ともいうべきフェニキア人に頼るしかなかったのである。ところが、フェニキア人と同じように、地中海を庭のように駆け回りながら各地に植民市をつくる民族−ギリシア人−が出るに及んで、彼らの地位も危うくなってきた。アレキサンダー大王の東征は、ギリシア人の要請によりペルシア戦争の復讐をするためと言われているが、その実は、もう一つ、ペルシアを後ろ盾に地中海を行き来していたライバル−フェニキア人−を蹴落とすためのものでもあった。ギリシア人は、功名に燃え血気はやる青年王を巧みに利用して、ついにはフェニキア人を消滅させることに成功した。このようにフェニキア人は、アレキサンダー大王の功名心と、ギリシア人の思惑によって歴史の渦の中に消えた。

 さて、シドンの歴史に戻ろう。アレキサンダー後のシドンはギリシア人の街となり、セレウコス朝シリア、次いでプトレマイオス朝エジプトの支配を受けた。その後はローマの勢力範囲となるが、その間を通して、独自の共和国態勢が認められ、フェニキア都市国家時代と基本的には変わらない自治が続いていた。ところが、アウグストゥス帝の時代になると、シドンは直接ローマ法の支配下(直轄地)に組み込まれた。聖パウロがカイザリアからローマへの伝道の途中に立ち寄ったのもこの頃である。以降、ビザンツ、アラブと支配者は変わっていったが、歴史的には平穏な時が流れていった。再び歴史の荒波に呑まれるのは十字軍のときである。1111年、エルサレムを拠点とする十字軍によって包囲を受けることになった。47日間に及ぶ攻防の後、街はキリスト教徒の手に落ちた。しかし、キリスト教徒の復権は長く続かず、1187年、今度はサラディン率いるイスラム軍の攻撃を受け、束の間のキリスト教時代は終わった。以後今日までイスラムを中心とした体制が続いている。

 ひとまず海岸に出ると、少し離れたところに海の城(写真1写真2写真3)が見えた。陸とは細い堤防で繋がっているだけで、四方を海に囲まれた、いかにも堅牢そうな城である。もともとはフェニキア人のメルカルト神殿があった場所に、十字軍によって要塞が築かれたらしい。入場料を払い、ただ一つ城への道である堤防を歩いていった。門をくぐったときに天井を見上げると、やはり椎の実型の梁が走っていた。ああ、十字軍の城だなあ。別に大したことではないのだけれども、ちょっぴり嬉しくなった。内部は縦横無尽に塀と石段と部屋があり、結構高いところまで登れるようになっていた。もちろん、手摺りも何もないので、高所恐怖症気味の俺にとってはちょっと怖かった。それでもてっぺんまで登ると見晴らしは素晴らしかった。城の全貌が手に取るように分かるばかりでなく、城と対岸のサイダ市街がコントラストを成しており、なかなか絵になる風景だった。また、ここの城は、絶好の釣り場を街の人々に提供しているようであり、海に面している岸壁には、びっしりと釣り人が並んでいたのがとても印象的だった。サイダの名の由来がフィッシングからきている、とガイドブックに書いてあったのを思い出し、妙に納得してしまった。現在のサイダの人々もフィッシングが大好きなようである。  海上にある城とは言え、打ち寄せる荒波に削られた険峻な崖の上に立つ城、といった通常我々が海上の城から抱くイメージからは程遠い、穏やかな雰囲気に満ち満ちていたため、思わず海風に吹かれながらボーっとしてしまった。こういうボーっとする時間を味わうために旅に出るのかもしれない。

 さて、海の城を出た後は、あてもなく旧市街をうろついた。モスクなどちょっとした観光名所がいくつかあったけれども、それらは覗くくらいにして、旧市街の迷路をひたすらぶらぶらと歩き回った。イスラムの旧市街を歩くというのも、ここ最近の中東旅行の楽しみになっている。実は、初日ということで、友達に絵葉書を書くため、いいのが売ってないかどうかも物色しつつ歩いていたのだが、いいのも何も皆無だった。観光客向けの土産物屋は勿論のこと、絵葉書を店先に置いている雑貨店すらなかった。経済の原則から言えば、需要がないから供給もないということになるのだろう。

 午後2時頃になり、いい加減疲れてきたので、そろそろベイルートに帰ることにした。街の中心のネジュメ広場にあるセルビスターミナルに行くと、30人乗りくらいの中型バスが次々と発車しているバスターミナルになっていた。どうやらほとんどのバスがベイルート行きのようであり、客が満員になるごとに発車していく。俺が乗ったバスもすぐに満員となり、ベイルートに向けて出発した。さすがに南部の中心都市というだけのことはあって、ベイルートとの間の人々の交流は活発なようである。一般車両も多く往来しているようで、サイダ市街やベイルート市街は勿論のこと、途中の幹線道路まで、メチャクチャに混んでいた。

 午後3時すぎにベイルートのコーラ地区に到着した。本当は市内セルビスに乗ってハムラ地区まで行きたかったのだが、情けないことにセルビスを捕まえるノウハウや交渉の仕方がよく分からず、結局5倍の金を払ってタクシーに乗ってしまった。ハムラ地区の本屋でようやく絵葉書もどきのクリスマスカード(?)を買い、4時頃にホテルに戻った。さっぱりしたかったので、早速シャワーを浴びたところ、お湯が温くてずっと震えていた。おまけに石鹸はサランラップで包んだ使いかけだし… こういったところがレバノンの本当の姿なのかもしれない。洗濯して、絵葉書を書いて、早々と6時半に寝た。

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