パレスティナ歴史紀行

1998年5月3日(第9日目) ローマの足跡  エルサレム−カイザリア−エルサレム

 朝6時半に起床。朝食を取って、8時半にホテルを出た。本当は今日行くはずだった死海周辺へ昨日行ってしまったので、予定を繰り上げて、最終日の予定だったカイザリアへ行くことにした。まず市内バスでバスターミナルへ行き、そこからテルアビブ行きのノンストップバスに乗った。さすがにエルサレムとテルアビブの間はイスラエルの大動脈であり、10分おきにバスが走っている。バスは市街を抜けると、標高800メートルの高台にあるエルサレムから沿海都市テルアビブへ向かって一気に降っていった。途中から寝てしまったが、約1時間かかり、10時すぎにテルアビブの中央バスターミナルに到着した。

 さあ、ここからが大変だった。カイザリアは公共交通機関を使って行こうと思うと、実に不便な場所にあったからである。まず、テルアビブとハイファの間にあるハデラという街まで行き、そこからローカルバスに乗り換えていかなければならない。地球の歩き方にハデラまで行くと書かれていた番号のバスに乗ろうとして、入り口でハデラまで行きたい旨を告げると、運転手から違うと言われた。??! どういうことだろう。よくわからないまま、今度は自分なりに標識を見たりして考えた番号のバスに乗ろうとすると、これまた違うという。おいおい、どうやって行けばええんや。余裕があればハイファやテルアビブを観光しようかとも思っていたが、別にそれは明日あらためてすればいいだけの話であり、今日はカイザリアさえクリアできればそれでいいので、じっくりと考えることにした。それにしても今日はシャバット(安息日)明けのため、初日にも経験したことではあるが、兵士の数が多くてウンザリである(人が多すぎてなかなか気軽に運転手に聞けない)。

 考えていても仕方ないので、運賃が少しもったいないのには目をつぶり、ハイファまで行って、反対側からハデラに入ることにした。高速バスで1時間かかって懐かしのハイファに行き、そこから戻る感じでハデラに向かった(こちらは歩き方どおりでよかった)。そしてやっとの思いでハデラに着いたときには、もう午後2時を回っていた。その後、ここでカイザリア行きのバスを待っていると、何とというか、やはりというか、テルアビブで違うと言われたバスが来ているではないか!! どないなってんねん!! えらい損したわ。それからしばらく待って、カイザリアを通るローカルバスに乗った。まっすぐカイザリアに行けばいいものを、海岸近くの住宅地(別荘地?)をぐるぐる周りながら行くものだから、またまた時間がかかってしまい、午後3時半すぎにやっと、やっと、やっとカイザリアに到着した。

 カイザリアは、もともとはフェニキア人の小さな港町だった。それを大規模な街に造り替えたのは、またも登場するがヘロデ王である。イスラエルを旅していると、あちこちでヘロデ王という名前を聞く。日本人に馴染みのないこの人物は、紀元前後に親ローマ策を採り、イスラエルに繁栄をもたらしたということであるが、それ意外は勉強不足のためよく知らない。カイザリアはそのヘロデ王以後もしばらく栄え、ペテロやパウロの伝道の中心的都市となったこともあった。しかし、7世紀にアラブの支配が始まると、置き捨てられて一旦は廃墟になった。そして長い暗黒の後、この廃墟が甦ったのは、13世紀にルイ9世に率いられた十字軍によってであった。十字軍の砦が築かれ、束の間の繁栄の時代を謳歌したのだが、僅か10年後の1261年には、マムルーク朝によって再び廃墟になってしまったのである。その後は再び脚光を浴びることもなく、現在は静かな海辺になっている。

 入場券を買って中へ入ると、まず十字軍時代の城壁が現れた。アッコの城壁に似て、高さはないものの幅があり、重厚な感じがする。堀を渡って城壁をくぐる時、天井を見上げると椎の実型の梁がはしっていた。これもアッコの十字軍の街で見たのと同じだった。近いから同じ人物が建てたのか、それとも建築様式に十字軍様式というものがあるのだろうか。城壁の内側には何の変哲もないローマ・ビザンチン時代の遺跡が並んでおり、所々に十字軍時代の住居跡の崩れかかった塀があった。目に付くような特徴的なものもないので、すぐに見飽きてしまった。

 ほとんど観光客のいない遺跡の一角に座り、しばらくぼんやりと休憩した。ここカイザリアは、各地にあるアレキサンドリアと同じように、カエサルの名を冠した各地にある街の一つかと思っていた。ところが、どうもここの名はカイザル・アウグストゥスに由来しているようである。アウグストゥス以降、皇帝のことをカエサルにちなんでカイザルと呼んだことが、このややこしさを生んでいる。そのため、しっかり由来を調べないと、カエサルが建設したのか、後の皇帝が建設したのか分からない。まことにもって面倒なことである。

 さて、実はここカイザリアで一番見たかったのは、ローマ時代の導水橋である。海岸沿いに北へ1.5キロほど行ったところにあるようだったので、ちょっとウンザリだが、それでも見ないわけにはいかないので歩き始めた。ところが、海岸沿いのみち(北方向)は途中で90度折れて内陸の方(東方向)に向かってしまう。どこかにまた北へ抜ける道があるのかと内陸方向へ進んで行ったのだが、そのような抜け道はありそうにない。どうもおかしいと思い、90度折れた地点まで戻ってみると、行き止まりのように見える北側の土手に人が通った跡のようなものがある。これはと思って土手をよじ登ってみると、反対側に幅1メートルくらいの野道が続いていた。青い地中海を左手に見ながら野道を行くこと15分でローマ導水橋に到着した。

 地中海をバックにして砂浜に延びる導水橋はなかなか絵になる風景だった。逆光であまりいい写真を撮れなかったことが残念だったが、少しの間ローマ時代の橋と地中海をボーっと眺めた。しばらくのんびりしていたかったが、時間もないので引き返すことにした。再び15分歩いて遺跡のところまで戻り外へ出た。南へしばらく歩いたところにローマ円形劇場もあったので、そこへも行ってみた。しっかりと修復されているため、かなり美しい整った形のシアターだった。すぐ向こうに広がる地中海をバックにここから見る演劇は、さぞかし美しいものだったろう。地中海を旅しているといつも、ローマ人達(その前のギリシア人も)は、本当に風光明媚なところにシアターを作るものだと感心するのだが、ここもまさしくそのとおりの場所であった。全部一通り見て、午後5時すぎに外へ出た。

 さてと、ここで、いつ来るとも分からないバスをのんびり待とうと思い、バス停の看板の前で少しの間突っ立っていたが、どうも来る気配すらしないので(車が5分に1台通るか通らないかというひなびた道だった)、ローマンシアターの入り口にあるチケット売場のおやじにバスの時間のことを聞いてみた。おやじが言うには「ちょうど30分前に行ったばかりだから、あと2時間はないよ」とのこと。おいおい7時かよ。エルサレムへ帰れるんかいな。おやじにはヒッチでもして行けと言われたが、あまりそういうことは好きではないので、どうしようかと悩んだ末、歩いてバスの本数の多い道まで出ることにした。わずかな地理的な予備知識で判断した結果、おそらくその方がここで2時間待つよりも早いだろうと思ったのである。

 道がカーブしていたり、同じ大きさの道の交差点があったりして非常に分かりにくかったが、夕方だから、太陽のある方向が西という、いつも使う原始的な方法で何とか方向感覚を維持し続けた。この周辺は、区画割された家が建ち並んで、それぞれ何とかヒル(hill=丘)と名付けられていた。住宅団地なのかそれとも別荘地なのか知らないが、どの家も敷地をゆったりと取っており、日本の団地とはえらい違いである。その団地を抜けたところに高速道路があり、そこをくぐると前方に見覚えのある幹線道路が見えてきた。ハイファからハデラへ行く途中、またハデラからカイザリアへ行く途中にも通った道である。ずいぶん早足で歩いたが、何とか40分でバスの本数の多いバス停までたどり着くことができた。しばらく待つとハデラ行きが来たのでそれに乗り、ハデラには6時すぎに到着した。そこですぐにテルアビブ行きに乗り換え、テルアビブ市内が渋滞で時間が掛かったか、8時前にテルアビブ到着。休む間もなく、またすぐにエルサレム行きに乗り換え、9時にエルサレムの中央バスステーションに戻ってきた。ホテルへ帰ってからはシャワーを浴び、ビールを少し飲んで、11時半に寝た。

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