パレスティナ歴史紀行

1998年5月2日(第8日目) エリコと死海  エルサレム−エリコ−クムラン−マサダ−死海−エルサレム

 7時すぎに起床し、朝食を取って8時半に宿を出た。歩きながらどうしようかと考えたが、後悔したくなかったので、朝一番で昨日閉まっていて行けなかった、主の泣かれた教会(サンクチュアリー・ドミヌス・フレヴィット)へ行くことにした。旧市街を素通りしてオリーブ山まで歩いていき、汗をかきながら急坂を登ってやっとのことで到着した。イエスがオリーブ山からの帰途、エルサレムの滅亡を予言して涙を流したというルカ伝の記述をもとに1955年に建てられた新しい教会である。ここの庭からのエルサレムの眺めは抜群で、岩のドームも本当に美しく輝いて見えた。さて、本当はここから眺めてばかりおらず、教会の中に入りたかったのだが、中で大勢がミサをやっていて、小さなこの教会はほとんど貸し切り状態になっていたため、ドアに鍵は掛かっていなかったものの、とても入れるような雰囲気ではなかった。いつ終わるとも知れず、しかもここの庭には、今やっている団体が終わったら自分たちの番という団体が2つくらい待っていたため、中へ入るのは諦めて教会を後にした。

 オリーブ山を下り、ライオン門からオールドシティに入った。そのすぐ左側が神殿の丘であり、現在では岩のドームとエル・アクサ寺院という2つのイスラムのモスクとなっている。さっそく神殿の丘へ入ろうと思ったのだが、その入り口で「ここはムスリム専用だから西側の入り口から入れ」と言われた。入ってしまえば同じだから、別にムスリムと非ムスリムを分けることもなかろうに。少し不満だったが仕方なく別の入り口へ向かった。相変わらず道が分かりにくく、迷いに迷った末、やっと入り口を見付け、中に入ることができた。

 中央の岩のドーム(写真1写真2)に近づいてみると、遠くからは金色のドームばかりに目がいっていたのだが、それとは比べものにならないくらい、壁の青いタイルが美しい。今ではエルサレムの象徴のようになってしまったこの岩のドームに、金メッキが張られたのは1964年と、驚くほど最近のことである。だからと言うわけではないが、何色のドームだったかは知らないけれども、何も金色にすることはなかったのではないだろうか、と個人的には感じてしまう。最近建てたような鉄筋コンクリート製ならばいざ知らず、このような美しいブルータイルで覆われた由緒あるモスクを台無しにしてしまう行為のように思われた。勝手な想像であるが、1964年という時期から見ると、じわじわと押し寄せるユダヤ教徒に対し、イスラム教徒としての精神を発揚しなければ、という観念にとらわれ、美的感覚に思いを巡らす余裕もないままに金メッキを張ってしまったのであろうか。やがてその不安は現実のものになるわけだから、彼らの示威行動が全く理解できないわけではないのだが…

 この神殿の丘の歴史は古く、エルサレムの街が築かれると同時に始まっている。ダビデ王が神の契約の箱を置いた場所、ソロモンの神殿のあった場所とも言われており、それが発展する形で現在の神域が確定されたのは、紀元前20年のヘロデ王の時とされている。その後、さまざまな変遷を経て、691年にイスラムのモスクが建設されて現在に至っている。

 当然のことながら、エルサレムはイスラム教にとっても大切な聖地である。ユダヤ、キリスト、イスラムの聖地エルサレムには、意外にもイスラム教関係の見所がほとんどなかったため、これまでイスラム教とエルサレムの街の関係についてあまり考えることがなかったが、岩のドームの前に立ってみると、「あっ、ここはイスラムの聖地なんだ」とあらためて気が付く。この岩のドームは、その名のとおり、聖なる岩を覆うように建てられている。イスラム教によれば、この岩は、世界が創造された時の基礎石であり、マホメットが昇天したときに足跡を残したのも、また、最後の審判の日にすべての魂が集まるのもこの場所だと言われている。このようにエルサレムはイスラム教徒にとって非常に重要な場所でありながら、彼らのこの街に対する態度によそよそしさを感じてしまうのは何故だろうか。もちろん今世紀に入ってからのユダヤ人との政治・宗教的な対立が原因の一つであることは間違いない。パレスティナ人以外のほとんどのイスラム教徒は、エルサレムに来ることができないのだから、よそよそしいというよりはタブーになってしまったということだろうか。

 しかしながら、このことは何も現代に入ってからのユダヤ人との関係からだけではない。どうやらマホメットは当初、メッカではなくエルサレムをイスラム教第一の聖地にしようとした形跡がある。ところが、彼は突如メッカに鞍替えしてしまった。イスラム教徒のエルサレムに対するよそよそしさは、このころから始まったらしい。コーランには礼拝の方角について次のような記述がある。「愚かな者は我らを、祈りの方角を変えるような(いい加減な)奴と悪口を言うだろうが、東も西も、もともとアッラーのもの。最初に礼拝の方角をエルサレムに定めたのは、本当に使徒(マホメット)に付いてくる人とそうでない人を分けるための方便である」と最初にエルサレムを祈りの方角(第一の聖地)にしつつも、それを変更するに至った理由(言い訳)が述べられている。そして「どっちを向いて祈るのか分からなくなっているな。それでは得心のいくように聖なる礼拝堂(メッカ)の方を向け」というふうにあまりしっかりした説明もないまま、メッカを新しい祈りの方角(第一の聖地)と定めているのである。なぜエルサレムからメッカへの聖地の移動があったのだろうか。

 コーランの記述だけでは、その本当の理由が分からないが、どうやらこの裏には、マホメットがユダヤ教徒と完全に敵対関係になったという出来事が深く係わっているようである。前にも書いたが、マホメットにしてみれば、ユダヤ教(旧約聖書)という土台の上に立った新しい預言者として、啓典の民(ユダヤ教徒、キリスト教徒)が自分を認めるのは当然であるという主張をしたものと思われる。彼自身は、イスラム教という別個のものを起こす気などなく、ユダヤの一預言者として自らを見ていたのではないかという節さえある。ところがユダヤ教の側からしてみれば、例のキリストの磔刑の時と同じく、マホメットは勝手に預言者を語る扇動者でしかなく、しかも異民族(アラブ人)ときているものだから、おそらく激しく迫害したのだろう。やがて、マホメットの死後数年も経たないうちに、エルサレムはイスラム教徒の手に落ちるのだが、エルサレムに対するイスラム教徒のわだかまりは、コーランを通してその後も残り続けたに違いない。メッカ巡礼の裏にこのようなユダヤ教徒との確執があったと思えば、実に興味深い。

 さて、岩のドームは靴を脱げば中へも入れたのだが、何だか入っちゃいけないような気がして、遠慮することにした。後から思えば少しもったいないような気もするが、あのときは中へ入ろうという気が全然起きなかったのである。外から十分に眺めてから神殿の丘を後にして、ダマスカス門へと向かった。

 今日は何が何でもエリコへ行かなければならないから、多少の妥協は仕方がないという気持ちで門のところまで行ったのだが、一昨日の独立記念日と同じように、全然シェルートがいない。確かに今日はユダヤ教でいうシャバットであるため、一般のユダヤ人は完全に休んでいるのだが、アラブ人のエリアであるダマスカス門は大丈夫(普段通り)だろうと思っていただけに、意外な展開である。一昨日の独立記念日にしたって、アラブ系のパレスティナ人には関係ないことであるのに、それに便乗したのか何か知らないがダマスカス門周辺は閑散としていた。どうやら予想に反して、パレスティナ人は、生活カレンダーをユダヤ人のイスラエル国家に合わせているように見えた。

 どうしようもないから、しばらくダマスカス門周辺で、物欲しそうにぶらぶらしてみることにした。粘ってみると何とかなるもので、しばらくして背の高い兄ちゃんから話しかけられた。彼ら(もう一人兄ちゃんがいた)はシェルートを使って、白タクのバイトに励んでいるようである。エリコへ行きたいということと、エリコではここを回って欲しいということをしっかりと告げて、値段交渉に入った。意外と安い値段でまとまったため(多少高くても妥協するつもりだった)さっそくシェルートの後部座席に乗り込んだ。そしてすぐに、俺達3人を乗せた車は、エルサレムを東に向かって出発した。エリコはエルサレムの東約40キロのところにあるのだが、エルサレムが標高800メートルほどなのに対し、エリコは海抜下350メートルと、約1200メートルの標高差がある。そのため、車は両側が不毛の岩山となっているワジ(涸れ谷)を縫うように、ひたすら下っていった。やがて右前方に死海の見える世界で一番低い盆地へと入り、左(北)へ曲がってしばらく行くとエリコの街に到着した。

 エリコはパレスティナ自治区のヨルダン川西岸地区における主要都市の一つであり、日本におけるイメージは、必ずしもよくない。確かに日本の報道を見ていると、エリコはテロや暴動が頻繁に起きている治安の極めて悪い土地でしかない。しかし、この世界最古の城壁都市は、現実にはオレンジのたわわに実る豊穣の地である。聖書の世界においても、豊かさの象徴である約束の地カナンとは当にこの辺りのことを指しているのである。実際に、エルサレムから死海沿岸にかけての荒漠たる大地ばかりを見てきた目には、ここエリコは緑多き、まさに楽園のような場所に思えた。それでも、やはりパレスティナ自治区ということで、街の中心付近を車で通ると、猥雑と言っては怒られるかもしれないが、いかにもアラブ的な雰囲気に満ち満ちていた。

 さて、運転手の兄ちゃんたちだが、エリコのいろいろなところを回ってやると言った割には、あまり市内の地理に詳しくないらしく、何度も引き返しては道行く人に聞いたりしている。何とかして最初の目的地であるヒシャム宮殿に到着した。ヒシャム・パレスとは、8世紀に建てられたウマイヤ朝の宮殿跡とのことである。エリコといえば古代のものばかりだろうと思っていたので、ウマイヤ朝というその新しさには意外な感じがした。車には入り口のところで待ってもらって、観光客の誰もいない遺跡を歩き始めた。イスラエルのシンボルマークであるダビデの星をかたどったようなストーンウインドウや、イスラエルで最高の保存状態とも言われる「Tree of life」のモザイクなどを見て回った。このモザイクは、客室の床を飾っていたもので、今では鉄格子越しにしか見ることはできないが、青々と生い茂る木を中心に、その周辺に集まる鹿とそれを狩るライオンの姿が鮮やかに描かれている逸品である。誰にも邪魔されずじっくりと見て回ってから車に戻った。

 続いては、また人に聞きまくって、テル・エッスルタンへと向かった。これこそが4000年前の城壁や1万年前の住居跡の遺跡であり、まさに聖書の世界が広がっていると言っていいだろう。旧約聖書のヨシュア記では、イスラエル人が約束の地カナンを得るために、エリコを攻める記述があるのだが、それはこの城壁だったのだろうと言われている。

 このテル・エッスルタンの丘を登る前に、すぐ近くにあるエリシャの泉というところに行った。預言者エリシャが水を塩で清めたという伝説の泉で、エリコにとって命綱ともいうべき水脈となっている。入り口とも見張り小屋ともつかぬところにいるおやじにチップを払って(というより後で請求された)中を案内してもらった。バナナ畑の間の草の生い茂った道をしばらく歩くと、一跨ぎできるくらいの水路が現れた。これがエリシャの泉だという。確かにここエリコにあっては、冷たく澄んだ水そのものが貴重であり、この水路も特別な場所なのだろうが、もう少し神秘的な泉を期待していただけに、これかぁと思ってしまった。

 その後で道を挟んで反対側にあるテル・エッスルタンへと行った。入場してすぐに丘を登り、上がりきったところに深く掘り下げられた土の壁があった。この他に住居跡が少しあっただけで、華麗で豊富な歴史を持つエリコにしては少し物足りない感じがする。しかし、この丘からの眺望は素晴らしかった。眼下には緑の多いエリコの街が広がっているのだが、樹木や畑の中に家々があるようにも見え、その豊かさには驚かされる。また、背後を見上げると、キリストが悪魔に挑まれた誘惑の山がそびえている。「もし、お前がひれ伏して私を拝むなら、ここから見える全世界をお前にやろう」という悪魔の言葉からも、キリストの時代、エリコは豊かな土地の象徴だったことがうかがえる。魅力のない土地に対して、悪魔もこんなことは言えないだろう。丘を下り、外へ出たところにあった売店でオレンジを絞ってもらってそれを飲んでから、車へと戻った。

 これでエリコはおしまい。12時前と少し早いが、あとはエルサレムに帰るだけである。ところが車に乗ると、クムラン、マサダはどうだと持ちかけられた。死海沿岸の見所は明日行こうと思っていたのだが、一日数本というバスを乗り継いでいかねければならないようだったので、少し心細く思っていただけに、渡りに船と交渉してみることにした。高いのか安いのか分からないが、だいたい現地ツアーで行くのと同じくらいの値段で決着がついたので行ってもらうことにした。

 車は死海北岸にあるヨルダン国境(アレンビー橋)の近くを通り、死海西岸を南下していった。旅行前、このアレンビー橋を渡ってヨルダンへ行こうかと思ったこともあったが、あまり手を広げすぎても虻蜂取らずになりかねないから、諦めたという経緯があった。そのため、死海地方へ来ると、どうしても対岸のヨルダンに目がいってしまうのは仕方がないことか。エリコから約15分でクムラン(写真1写真2)に到着した。

 クムランは、紀元前2世紀頃から厳格なユダヤ教団が生活していた遺跡である。そして何よりもここの名を世界に轟かせたのは、近くの洞穴から見つかった死海写本の存在である。600を越える巻物は、イザヤ書などの旧約聖書や創世記外典、ユダヤ経典のテキストが記されており、今まで最古の写本と思われていたものから、更に1000年も古いということで、考古学会の大発見であった。何だか敦煌の莫高窟の仏教経典の話に似ているなぁと、ぼんやり思うのだが、やはり歴史の東西の同一性というものがあるのであろうか。一昨日行ったエルサレムの死海写本館にその実物は収められており、ここはその遺跡となっている。券を買って中に入った。

 クムランの遺跡は少し死海西岸の幹線道路から登った高台にあるため、ここから死海を見下ろすことができる。死海から吹きつける風が実に気持ちいい。教団が共同生活をしていた遺構を歩き回り、岩の側面にぽっかり空いた洞穴(おそらくここで死海写本が見つかったのであろう)を眺めたりした後、出口へ向かった。出口は大きな土産物屋の中を通らなければならなくなっていたので、その土産物屋を少しぶらぶらしてみた。ほとんどが死海のミネラル美容グッズである。石鹸、シャンプーから、ハンドクリーム、入浴剤まで何でも揃っている。土産にはちょうどいいなあと思ったが、今買っても荷物になるだけなので、物色だけして車に戻った。

 車はクムランを後にして死海西岸を一気に南下し、マサダへと向かった。死海というその名の通り、現在ではミネラル製品などを生み出すものの、それ以外は何ももたらさない死の世界が広がっている。魚がいないのは当たり前だが、この上は鳥も飛ばないという。そして死海の沿岸を走っていて気が付いたのは、集落が全然ないということでだった。ビーチリゾートは2カ所ほどあったのだが、他は全くの不毛の沿岸である。陸地にも人を寄せ付けない死の世界があるわけである。1時間弱も走ってやっとマサダ要塞のふもとに到着した。

 マサダの要塞は、ユダヤ人にとって特別の場所である。イスラエル建国以来、初年兵の入隊宣誓式はここで行われ、「二度とマサダを陥落させない」という言葉で式は締めくくられる。ここは、紀元70年にエルサレム陥落した後も最後のユダヤ人が立て籠もり、2年に渡ってローマに抵抗し続けた、ユダヤ民族にとって魂の叫びが聞こえてくるような聖地なのである。元々はヘロデ王の冬の宮殿として建てられたものであるが、どういう巡り合わせか、ユダヤ民族の断末魔の場所となってしまったわけである。上部が平たくなった荒々しい岩山が天に向かって突きだしており、これではさすがのローマ軍もさぞかし手こずったことであろう。上まではロープウェイが通じているので、それに乗って一気に登ってみた。

 東西400メートル、南北700メートルの広大な敷地には、宮殿、浴場、シナゴーグ、将校の住居などがあり、見応え十分である。しかし歩き回っているうちに、暑さでちょっとへばってきてしまった。毎日暑い中を歩き回っていたのだが、今日は特に暑く感じる。やはり地形的にも死海地方は暑さが厳しいのであろう。暑いなぁと思って立ち止まったとき、ふとここで籠城した人々の苦労について考えてしまった。このような過酷な地での籠城は、かなり大変だったことと思われる。その顛末は詳しく知らないのであくまで想像の域を出ないが、この難攻不落の要害を攻めるローマ軍以上に援軍の当てのない籠城は苦しかったに違いない。このような場所では、最初に持ち込んだ量以上の食料や水を得られたとは到底思えない。自然、それらがなくなった時が終わりの時だったのだろう。それでも年間数十ミリ降るわずかな雨水を、無駄なく集められる貯水システムがあったというから、涙ぐましい努力である。遺構の間を歩いている時は、そのようなことばかり考えていたのだが、要塞の端から下界を眺めるときだけは、何もかも忘れさせてくれる最高のパノラマに酔いしれた。クムランの時も素晴らしいと思ったのだが、ここの方が見下ろすという感じがして、より大自然を満喫できた。 (写真1写真2写真3

 帰りは、スネーク・パスと呼ばれる麓と要塞を結ぶただ一本の道を下りていってもよかったが、行きと同じようにロープウェイで絶景を見ながら一気に下ってきた。兄ちゃん達はいい加減待ちくたびれていたようで、上半身裸になって寝ていた。俺が戻ってきたということで、早速エルサレムへの帰路についた。もう半分どうでもよくなっていたが、それでもせっかく死海まで来たのだから水際まで行きたいと思い、彼らにその旨を告げてどこか死海の水に触れるところに寄ってもらうことにした。マサダからエルサレムへの道のりで、一番有名なビーチリゾートであるエン・ゲティで降ろしてもらった。

 まさにヨーロピアンリゾートであり、多くの家族連れやカップルで賑わっていた。水際の近くまで行ったのだが、彼らに占領されているビーチに普通の格好(Tシャツ、ジーパン)の俺が行くのは、いかにも場違いでどうしても行きにくかったので、死海の水を触るのを諦めて、少し離れたところから浮いている人などを眺めるだけにした。人によっては、もったいないと思うことであろう。しかし、死海に入るためにイスラエルに来たわけじゃないから、まあいいか。また、ヨルダンへ行ったときにでも、浮かべばいいだろう。

 そして、エン・ゲティを出た後、車は猛スピードで飛ばしていき、午後4時にエルサレムのダマスカス門のところまで戻ってきた。そこから歩いてホテルへ帰り、それからはくつろいで過ごした。それにしても今日はあちこち行って疲れたわい。シャワーを浴びたり洗濯したりして、8時半頃寝た。

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