パレスティナ歴史紀行

1998年5月1日(第7日目) オールドシティの一日  エルサレム

 いつものように7時前に起床。バイキングの朝食を取り、8時半にホテルを出て観光に出発した。今日はいよいよ門をくぐってエルサレムの旧市街に入るつもりである。気持ちを高ぶらせつつ歩いていくと、やがて見慣れた城壁が姿を現した。そのまましばらく城壁に沿って歩き、ヤッフォ門の前まで来た。エルサレムへ来て今日で4日目、ふう、と息を整え、満を持してヤッフォ門をくぐって入城した。エルサレムは、一度は行ってみたいと思っていたものの、長年の夢というほどのこともなかったので、ここまで入れ込むつもりはなかったのだが… イスラエルに滞在しているうちに、勝手に自分自身で演出してしまった。

 ヤッフォ門を入ったところは少し広くなっていたが、すぐに狭くて薄暗いアラブのスークのような(というよりスークそのもの)街が始まった。地図を見ると、エルサレムのオールドシティは4つの地区に分かれている。イスラム教徒地区、キリスト教徒地区、ユダヤ教徒地区、そしてユダヤ人と同じく流浪の民であるアルメニア人地区である。ヤッフォ門を入ったところは、確かアルメニア人地区とキリスト教徒地区のはずだったのだが、実際に歩いてみると、どう見てもイスラム教徒地区にしか見えなかった。人が一人すれ違えるほどの幅しかなく、だらだら階段状に下っている道の両側には、土産物屋が並んでおり、主にキリスト教徒向けのグッズを売っていた。キリスト関係のものを売っているからといって、イスラム教徒ではないことの証明にはならない。むしろ、その全体的な雰囲気からは、アラブ人のにおいが強くした。イスラエルに滞在している間、この時を含めて、あなたはユダヤ人かパレスティナ人かという質問をしたくなったことが何度かあった。無論この質問は、我々が考えている以上にナーバスなものであり、無邪気な疑問ではすまされないことは何となく分かっていたので、結局どの場面でも発しなかった。そのため、ここに店を構えている人たちがどちらに属するのか確かめようがなかったが、この後旧市街を歩き回ってみて、エルサレムのオールドシティはここに限らずすべてアラブ(パレスティナ人はアラブ人の一つ)であると感じた。(オールドシティ写真1写真2写真3

 エルサレムのオールドシティは、フェズのメディナほどではないにせよ(行ったことはないが)かなり複雑で、持っている地図はほとんど役に立たない。最初にユダヤ人地区にあるシナゴーグ(ユダヤ教寺院の総称)などの見所へ向かおうとしたのだが、迷いに迷ってしまった。それでも何とかユダヤ人地区へたどり着くことができた。この辺りは、ところどころで地面が大きく掘り下げられており、第二神殿時代の地層や石組みを見られるようになっていた。それらを通りがかりに眺めた後、まずはアーチと塔の対比が美しい、フルバ・シナゴーグとランバン・シナゴーグへ入った。隣接していたため、2つのシナゴーグの区別はよく分からなかったが、フルバは18世紀、ランバンは13世紀に、ともにヨーロッパから移住、というよりは追われてきたラビ(ユダヤ僧のこと)によって建てられたものだそうである。特に思うこともないまま一通り見学して外へ出た。続いてカルドという古代からの大通りへ向かった。かなり道幅の広いアーケードの通りで、往事は北のダマスカス門から南の糞門まで通っていたらしいが、現在では200メートルほどが復元されて、両側に商店が並んでいる。ふうん、という感じでカルドを歩いてみたが、今書いた説明以上のことはよく分からなかった。

 その他にもイスラエルタワーだとかいう遺跡があったが、どうやら閉まっているようだったので、一度シオン門から城壁の外へ出て、昨日見られなかったオスカー・シンドラーの墓(写真1写真2)へ行った。「シンドラーのリスト」のラストシーンで出演者と生き残った人々が、石を置いたいったあの墓石は、下のゾーンの真ん中辺にあった。今でも石や花束が周囲の墓よりも多く置かれているため、遠目からもすぐに分かるようになっていた。シンドラーについては、映画化されて以来、賛否両論がある。なかでも、美化されすぎているだとか、本当はもっと利己的な人物だったとか、特に彼を非難する声が目立つ。しかし、映画やドラマにおいて、主人公を脚色して実際よりも良く描くということは、いわば当たり前のことであるので、特別に実像とかけ離れていない限り、そのような批判は的外れという他ないだろう。映画というものの本質は事実の隙間を想像と脚色で埋め、見る人に何かを訴え、魂を揺さぶるところにあるのだと思う。それに、彼の心情はどうであれ、ナチスから多くのユダヤ人を救ったことは事実であるので、ヒューマニズムだろうがエゴイズムだろうが、そのようなことは後になってみればあまり関係ないことである。しばらくの間、誰にも邪魔されずに、映画の中の悲劇的な場面を思い出しながら墓の前にたたずんだ。

 よしっ、と気を取り直し、シンドラーの墓を後にして、ダビデの街の方へと向かった。シオンの丘から東の方へ行ったところは、ダビデの街と呼ばれており、ダビデ王がエルサレムを最初に建設したのもこの地であると言われている。現在は、第一神殿時代の遺跡が残る考古学公園になっている。そこへ向かうべく、地図を見ながら最初は東へ行き、次いで谷になっている南の方へ下っていったのだが、入り口らしきものが見つからない。どうやら通り過ぎてしまったように思えたが、暑い中かなり急な坂道を下ってきたため、今さら坂道を登って戻る気にもなれない。もう少し行けばその次の目的地であるシロアムの池だったので、そのまま歩いていった。

 シロアムの池と533メートル上流にあるギボンの泉は、ヘゼキアのトンネルと呼ばれる水路でつながっており、夏の間はその水路を歩くことができるという。ここは、紀元前700年に、アッシリアに圧迫されていたユダの王ヘゼキアが、城内の水を確保するために掘った水路だと言われている。

 シロアムの池に着いた後、そこの管理人みたいな人にチップを払って、ヘゼキアのトンネルの口まで誘導してもらった。いくらこのトンネルを通ってギボンの泉まで行けると言っても、膝上まで水がある水路を歩く気には到底なれなかった。夏は通ることができるという注釈が付いているということは、もっと真夏になれば水位が下がるのだろうか。とにかくジーパンを脱ぐ気も、股の辺まで浸かる気もなかったので、そのまま地上にあがり、歩いてギボンの泉に向かうことにした。

 この辺は、すでに道の両側が高くなっており、いわゆるケデロンの谷と呼ばれる地域に入ってきている。ギボンの泉に寄ってそこを見学した後、更にケデロンの谷の奥に向かって歩き始めた。谷と言っても、当然川などはなく、両側がごつごつした斜面になっている谷底で、最初は舗装された道も、やがて普通の舗装されていない土の道に変わってきてしまっている。そのようなケデロンの谷を歩いていると、やがて前方から東洋人らしき人がこちらに向かって歩いてきた。話してみると日本人だという。ここイスラエルでは、韓国人らしき団体や個人は多数見たが、日本人と話すのは取りあえず初めてである。韓国人が多かったというのは、韓国ではキリスト教徒が多く、また、海外旅行が一般化されていないため、キリスト教巡礼の旅くらいでしか海外へ来ることがないからであろう。彼はエルサレムとテルアビブの間の街(空港の近く)の喫茶店で働いており、今日は久々の休日でエルサレムへ遊びに来ていると言っていた。会話の端々にイングリッシュが混じり、かなり怪しげな青年だったが、それでも久々の日本語に酔いしれてしまった。短い会話を交わした後、更に奥の方へと歩いていった。

 左前方に神殿の丘(旧市街の東南角)、右前方にオリーブ山を見ながらしばらく進むと、やがて右側に古ぼけた建物がいくつか見えてきた。周りに人家のないこのケデロンの谷にある崩れかかった岩窟は、昼間でさえ少々不気味に見える。これらはそれぞれ、ユダヤの預言者の墓だとか、ダビデ王の子アブサロムの墓だとか、かなり古い時代のもののようだった。

 ダビデ王とその子アブサロムの物語は、聖書のなかでも特に悲劇的な場面として有名である。それは、さながらギリシア悲劇のような物語となっている。ことの始まりは、ダビデがその忠実な部下ウリヤの妻を見初めたことだった。ウリヤが遠征で留守の時に彼の妻と通じて、彼女を妊娠させてしまったダビデは、慌てて彼を呼び寄せることにした。そして謁見の後、家に帰らせようとするのだが、ウリヤは遠征中の仲間を気遣って城の外に野営し、頑として家には帰ろうとしない。困り果てたダビデは、遠征軍の司令官に命じてウリヤを一番激しい前線に置くようにし、彼を戦死させてしまった。このことが主の怒りにふれ、ダビデとウリヤの妻の間に生まれた子供は、生後間もなく割礼を受ける前に病死してしまったのである。

 主の怒りはそれだけで収まらず、ダビデに第二の悲劇が訪れる。彼が一番愛していた、美しく気品があり人望も高い息子のアブサロムが父に反旗を翻し、父と子の戦いが始まったのである。その原因は、異母兄アムノン(ダビデの長男)に妹を犯されたアブサロムが、アムノンを刺し殺してしまい、一時逐電するという事件にあった。その後許されたのだが、これにより父子関係がギクシャクしてしまっていたわけである。そして戦いにはダビデが勝利したわけだが、前線の司令官はアブサロムを殺すなというダビデの命に背き、彼を討ち取ってしまう。最愛の息子を失ったダビデの悲しみは大変なもので、それ以降苦悩の日々を送ることになったということである。そんなアブサロムが眠るという伝説がある岩窟をしばらく眺めてから再び歩き始めた。

 それにしても、見上げれば旧市街の城壁が見えるような街の中心近くに、このような荒漠とした谷があることは驚きである。自分には、このことがエルサレムの街の雰囲気を素晴らしくいいものにしているように感じられた。そのままケデロンの谷を歩いていくと、やがて車がひっきりなしに通る舗装された大通りに突き当たった。ここからエリアとしては、オリーブ山になる。

 そのちょうど突き当たったところ、オリーブ山の麓だが、そこに万国民の教会という、カラフルなモザイクで飾られた教会があった。イエスが最後の夜を苦悶しながら祈って過ごしたというゲッセマネの園にあり、いろいろな国の寄付によって建てられたという新しい教会である。外から眺めれば十分のようだったので、中へは入らずに、次の目的地へと向かった。

 オリーブ山の麓から山頂にかけては、キリストに縁のある教会がいくつもある。下から順番に見ていこうと思い、急な坂道を登り始めた。ところが、どこでどう間違えたか、ひたすら続く階段道を延々と登る羽目になってしまった。大汗をかき、息を切らせながら、なんとか普通の道に突き当たったと思ったら、そこはもう山頂の街だった。地図上のどこにいるのか分からなかったので、人に聞きながらまず最初に昇天教会へ行った。イスラエルには珍しく、4世紀に建てられた教会をそのまま修復して使っているため、いかにもビザンツ時代の教会らしく、外見を見ているだけでいい気分になってくる。八角形のこぢんまりした礼拝堂の中は至ってシンプルで、はっきり言って何もないのだが、床の一部に石がむき出しになっており、そこに昇天時のキリストの足跡が残っていた。

 新約聖書の使徒言行録によると、キリストは磔刑の3日後に復活し、40日にわたって弟子たちに神の国のことを語り、エルサレムから至近距離のオリーブ畑という山から天に上ったということになっている。その場所がこの昇天教会であり、丁寧にも足跡か何かしらないが、少し凹んだ岩までが用意されているわけである。この「復活」というキリスト教の思想もかなり難しい。復活(祭)は英語で言うイースターであり、キリスト教徒最大の祝日である。16〜17世紀にプロテスタントの国オランダが、世界を席巻した時期があったが、その時の彼らに対する悪口が、「奴らはイースターでも船を出す輩だ」ということだったというから、その重要さが伺われる。そこまで重要である「復活」なのだが、聖書を斜め読みした限りでは、その意味合いが今一つ不明である。そもそも、復活の元となったイエスの磔刑の必然性、重要性についても、非キリスト教徒の俺にはよく分からない。イエスはブッダのように病死ではいけなかったのか、刑死に大きな意味があるのだろうか。人々の罪を背負って十字架にかかったというが、それはそれほど有り難いことなのか。新約聖書を書いた初期のキリスト教徒達が、イエスが磔刑で死んだという事実を、高度な理論によって尊貴な事象に変節させただけだと思うが、素人が一度聖書を読んだだけでは、その理論の本質を理解できそうにないので、ここでは詳しく調べない。

 続いて、昇天教会のすぐ近くにある、主の祈りの教会(パーテル・ノステル)へ行ってみた。ここは、ルカ伝に記されているように、イエスが弟子に主の祈りを教えた場所と言われている。この教会は19世紀に作られたもので新しく、庭園などもあって非常に美しい外観だった。この教会の面白いのは、礼拝堂の内壁や外壁、または回廊などに、英語、ヘブライ語をはじめ、日本語からエスペラントまで64カ国語で主の祈りが記されているところである。日本語では、「天においでになるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。みくにがきますように。…」とあり、クリスチャンには馴染みの一節なのだろうが、俺にはよく分からなかった。飽きもせずそれらを一つ一つ眺めてから外へ出た。

 ここから少し行ったところに見晴らし台のようなところがあり、そこからエルサレムのオールドシティが一望できるようになっていたので、そこへも行ってみた。正面に岩のドームの金色の屋根が輝き、実に素晴らしい展望である。ここからエルサレムを眺めていると、この山が聖書の数々の舞台になったのが分かるような気がした。今日はちょうど昼休みのため閉まっていたのだが、ここから少し下ったところに、イエスがエルサレムそ街を展望し、その滅亡を予測して涙したという教会がある。オリーブ山から眺めるこのエルサレムが滅亡してしまうことを思えば、イエスでなくとも涙したくなるのではないだろうか。

 正午から午後2時まではその教会(主の泣かれた教会=サンクチュアリー・ドミヌス・フレヴィット)のみならず、ほとんどの見所が閉まっているので、一度ホテルへ戻って、しばらく休憩することにした。途中で買い込んだジュースを飲みながら、本を読んだりしてくつろいだ。疲れも取れたし、そろそろ観光地が開き出す時間ということで、午後3時過ぎにホテルを出て再びオールドシティの中に入っていった。

 本日は金曜日であり、イスラム教の休日のため、岩のドームへは入ることができない。また、今日の夕方から明日土曜の夕方にかけてはユダヤ教の安息日に当たるため、嘆きの壁が撮影禁止になるらしい。ちなみにご存知の通りキリスト教は日曜日が休日と、この国では3つの休日を頭に入れて観光せねばならない。嘆きの壁の向こう側が岩のドームのある神殿の丘で、両者はすぐ近くにあるにも拘らず、今回のように曜日によっては一遍に見てしまうことができないわけである。旅人にとっては本当に迷惑なことである。

 さて、嘆きの壁(写真1写真2)の広場へ通じる道では、兵士が常時検問しているようだったが、一目で観光客の東洋人と分かったようで、何も調べずに通してくれた。予想以上に大きい広場の一辺に高い壁がある。これが有名な嘆きの壁で、その向こう側が今ではイスラムの寺院(岩のドームなど)となっている神殿の丘である。大勢の伝統的な黒い衣装に身をつつんだユダヤ人が、壁に向かって手を付いたり、本(旧約聖書?)を広げたりして祈っていた。観光客でも帽子をかぶっていれば近くまで行くことができるようだったが、敬意を払って少し離れたところから彼らを眺めることにした。

 嘆きの壁は、紀元70年のローマによるエルサレム陥落の時、唯一破壊を逃れた神殿の西側の壁である。それ以降ユダヤ人は神殿の丘に近づくことを許されなかったが、4世紀ころから、一年に一度だけここ西側の壁に来ることを許されるようになり、それ以来ユダヤ民族の最大の聖地になっている。1900年もの間、神殿の再建と民族の繁栄を祈り続けてきた尊い場所である。1900年かぁと思うと、その長さに対し空恐ろしい気分にさえなってくる。西陽の当たる壁を眺めながらいろいろなことを考えた後、広場を後にした。

 さあ、いよいよヴィア・ドロローサ(哀しみの道)を歩くことにするか。もし俺がキリスト教徒だったら、旅(巡礼)のクライマックスになるだろう、このヴィア・ドロローサとは、キリストが裁判で有罪となった場所から、磔となったゴルゴダの丘までの約1キロの道のりのことで、熱心な巡礼団は実際に大きな木の十字架を背負って行進することもあるという。また、途中の14カ所のポイントでは、信者たちはその都度行進をやめて祈りを捧げることになっている。行進だの、祈りを捧げるだのは取りあえずいいとして、まあ、興味半分ではあるが、異教徒の俺もその道のりをたどってみることにした。

 ヴィア・ドロローサの出発点であるローマの総督ピラトの官邸は、オールドシティの東側、オリーブ山へと続くライオン門(ステパノ門)のすぐ内側にある。ちょうどその前が、聖アンナ教会とヘデスタの池という遺跡(同一敷地内)になっていたので、ヴィア・ドロローサを歩く前に行ってみた。聖アンナとは聖母マリアの母で、マリアもこの場所で生まれたといわれている。そして同一敷地内にあるヘデスタの池は、アンナの家とは関係がない(と思う)のだが、ヘロデ王によって、神殿に参る人が沐浴したりするために作られた遺構であるらしい。特別に思いを馳せるようなこともなく、また、そう広くもなかったので、一通りさっと見てから外へ出た。

 第1留の官邸跡の辺からスタートし、しばらく歩くと、右側に第2留となる鞭打ちの教会が見えてきたのでそこへ入った。イエスはここで十字架を背負わされ、ローマ兵によって鞭で打たれたという。聖アンナ教会には殆ど人がいなかったのに比べ、ここには大勢の巡礼観光客がおり、礼拝堂ではみんな熱心に祈りを捧げていた。なるべく彼らの邪魔をしないようにぐるりと周り、再び哀しみの道を歩きはじめた。途中にエッケ・ホモ教会という由緒ある教会があったので、そちらも少し覗いてみた。エッケ・ホモとは、ラテン語で「この人を見よ」という意味であり、ピラトがイエスを指して言った言葉だとされている。続いてどんどん歩いていくと、ちょうど道が左に折れたところに、第3留のイエスが最初につまずいた場所があった。現在ではアルメニア教会となっており、その入り口には、十字架を背負って、倒れているイエスの姿を彫ったレリーフがある。また、もう少し行ったところが第4留で、マリアが民衆に混じってイエスを見たとされるところである。ここにも同じようなレリーフが掲げられていた。

 ここまで来たとき、何となくではあるが、自分なりにキリスト教を心で感じたような気がした。宗教心とはいかないまでも、かわいそうで哀れだという気持ちが湧いてきたのである。要するに平泉へ行って義経を偲び、会津へ行って白虎隊に涙するのと同じように、非業のうちに死んだ者の魂に対する哀れみと鎮魂の心情である。誤解のないように言っておくと、このような心情はキリスト教の教義とは本来全く相容れないものであり、キリスト教徒もそのことはよく分かっているものと思われる。それでもなお、おそらくお祈りのときなどは、半分くらいはこのような心情を持って神と対峙しているのではないだろうか。そうでもなければ、ヴィア・ドロローサをこんなにも演出しないだろう。

 もう少し言い換えてみると、神との契約という、キリスト教の大本の部分について、彼らも一番大切なこととして異存はない。しかし、それとは別に、同じく神との契約を大本とするユダヤ教やイスラム教と一番違うところである人間キリストというものが、信者達の魂を揺さぶるのではないだろうか。これは325年のニケーアの公会議で、キリストの神性を否定したとして異端となったアリウス派や、431年のエフェソスの公会議においてキリストの神性を十分に認めなかったとして異端となったネストリウス派の教義と似通った思想であり、神とキリストと聖霊を三位一体とする正統派(アタナシウス派)から見れば強く忌まれる思想であるのだが、言い換えるなら、一部の僧や神学者を除き、多くの民衆の心に根付いていた思想だからこそ、神学者達の間で異端と騒がれてきたと読みとることもできる。ここを歩いていると、表面上は異端である人間キリストについて、何か深く感じてしまうものがあった。

 第5留(クレネ人のシモンが代わりに十字架を背負わされたところ)から第8留(私のために泣かず、自分の子のために泣けと言ったところ)までは道端にほとんど何の痕跡もないまま、その場所だけが記されており(記されてない留もあったが)、通り過ぎるだけで先へと進んでいった。歩いているうちに欧米人の巡礼団に紛れ込んでしまった。何となく流れに身を任せるようにして彼らについていくと、狭く薄暗い道の脇にある石の階段を上っていくようだったので、よく分からないが続いて上っていった。この先はおそらく聖墳墓教会なのだろうが、彼らがいなければその登り口が分からなかったに違いない。階段を上がって少し行ったところが、どういう造りなのか知らないが、教会の屋上のようであり、コプト教徒の修道士が暮らしているバラック小屋があった。それを横目で見ながら、屋上にある入り口から中へ入った。そこからは暗い通路であり、ガイドブックを見ることもままならない俺にとっては、巡礼のまねごとをしている余裕はなくなってしまった。途中でいろいろな礼拝堂があったのだが、自分が何を見ているのかよく分からないまま彼らの後をゆっくり歩いていくと、やがて大きな聖堂の内部に出た。

 ここがまさしく聖墳墓教会である。このかなり大きな教会は、4世紀に建てられた伽藍をベースに、ビザンツ、十字軍、19世紀と、様々な時代の改築を経てきており、それらが渾然一体として存在して、かなり複雑な造りになっていた。また、各宗派(ローマ・カトリック、ギリシア正教、コプト、アルメニア等)が分割管理し、それぞれの礼拝堂を持っていたため、その構造をさらにややこしくしていた。辛うじて、聖堂の中央にある由緒ありげな建造物だけがキリストの墓と分かったのだが、あとはわけもわからず、聖堂内をぶらぶらしていると、いきなりかなり大々的なミサが始まってしまった。20人近くはいただろう正装の修道僧たちに、大勢いた熱心な巡礼の信者たちが加わったため、キリストの墓から出口にかけての主要な場所をすべて占拠されてしまった。ここでは、さすがにまじめに祈っている人が多い。彼らの前を横切るわけにもいかなくなり、仕方なくぐるっと遠回りして外へ出た。

 聖墳墓教会の正門の前には広場があり、多くの観光客でごった返していた。教会の全容を見たいと思ったのだが、広場が小さすぎるのか、建物が大きすぎるのか、全然よく分からなかった。結局、何から何までよく分からないまま、聖墳墓教会を後にした。この教会には何となく期待していたのだが、自分の勉強不足のためか、あまりしっくりしたものがないまま、ここを立ち去らねばならないのが残念である。今晩、ガイドブックの範囲内で勉強して、明日もう一度来ようかとも思ったが、ガイドブックの範囲と言っても知れていることもあり、やめることにした。旧市街を迷いつつも、5時半頃に宿へ戻ってきた。本を読んだり(罪と罰は下巻へ突入)、シャワー、洗濯をしたりして、9時に寝た。

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