パレスティナ歴史紀行

1998年4月30日(第6日目) 半世紀という日   エルサレム

 独立50周年の朝は、6時半に目覚めた。昨日はみんなかなり遅くまで騒いでいたようであり、3時頃目覚めたときも、まだ外は喧しかった。さすがに騒ぎはもう終わっており、ひっそりとした日曜の朝特有の気怠さが漂っている。7時に朝食を取り、ゆっくりと準備をして、8時半すぎにホテルを出た。

 今日は新市街の見所をすべて片付けてしまおうと思い、まずは昨日行けなかったヘルツェルの丘へ行くことにした。祝日にも拘わらず、何故かバスが動いているようだったので、シオン広場からバスに乗って行った。言い忘れていたが、昨日初めてバスに乗ったときに、カルティシアという11回使用できる回数券を買っておいたので、気軽にバスに乗ることができる。ヘルツェルの丘のすぐ前のバス停で降りて丘を登っていった。前にも紹介したとおり、ヘルツェルは19世紀末の初期シオニストで、第1回シオニスト会議を提唱した、いわば建国の父とも言うべき人物である。ここには、そのヘルツェルや6日間戦争(第3次中東戦争)の時のレビ首相、また、最近暗殺されたラビン首相の墓などがある。また、丘を登っていく途中には、国を守るために死んだと思われる、無数の兵士の墓が並んでいる。近くまで行って見てみると、どの墓も割としっかりとした造りだった。よくニュースとかで、戦死者の墓標が並んでいる映像を見て痛ましいと感じるのだが、ここに並んでいる兵士達の墓は、随分と誇らしげであった。他のほとんどの戦争が、愚かな指導者のエゴのために起こったのとは対照的に、イスラエルにおけるここ半世紀の戦争(状態)は、自らのアイデンティティとプライドを守るためであるから、いってみれば戦死者は皆が救国の英雄の扱いを受けているのである。ただ、イスラエル側にエゴがなかったわけでなく、また、アラブが一方的な侵略者でないことも付け加えておく。

 そもそもこのイスラエルとアラブの問題は、シオニズム運動が盛んになってきた第1次世界大戦中に行われた、イギリスの背面外交に端を発していると言っていい。イギリスは、まず1915年にアラブ人に対し、オスマントルコへの反乱を期待して「フサイン・マクマホン協定」を結び、戦後のトルコからの独立を約束している(結局反故にした)。次いで1917年にはユダヤ人に対し、その経済力を期待して「バルフォア宣言」を発し、パレスティナでのユダヤ人国家建設に協力することを表明している。すべての根源とは言わないが、少なくとも端緒になったことは確かである。大英帝国のあくどさは、大英博物館の収蔵品を見れば一目瞭然なのだが、近代社会になってからの世界の紛争の8割は、彼らが原因を作ったのではないかと思えてくる。インドとパキスタン然り、アフリカの民族問題然り。20世紀も終わろうとしている現在においても、帝国主義の亡霊が未だにあちこちで生き続けているわけである。

 さて、そのような、まるで花壇のように整備された兵士達の墓を見ながら登っていくと、一番奥の広くなったところに、由緒ありげないくつかの大きな墓があった。墓石(日本のように立てておらず、長方形の平たい石を寝かした型である)には、数多くの献花や石が置かれている。西洋(ひょっとしたらユダヤ教の習慣?)では、お墓にお参りした人が、墓の上に小石を置いていく習慣があるようで、映画「シンドラーのリスト」でもラストに石を置いていく場面がある。おそらく独立50周年も迎えるに当たり、ここ数日で普段より多くの石が置かれたのであろう。ところが、これらの墓は、すべてヘブライ語で書かれているため、誰のものだかさっぱりわからない。一番献花や置石の多かった墓が、1995年没となっていたので、おそらくこれがラビンだろうということだけは辛うじて分かった。

 イツハク・ラビン。6日間戦争を指揮した国民的英雄の元参謀総長が、首相として和平へ向けて大きな前進を果たしたことは、実に興味深い。以前は正真正銘のタカ派の軍人であり、対アラブの象徴のような人物だったのである。それだけに、彼の首相就任によって、ユダヤ民族の国威発揚を期待していた過激派にとっては、和平プロセスが裏切り行為と映ったのだろう。彼自身の心境の変化があったのか、もしくは国民の平和を求める声が以前よりも大きくなっていたことで、それに応えたのかどうか知らないが、いずれにせよ物事の本質を捉えることのできる有能な人物だったに相違ない。イスラエルにとって彼を失ったことはあまりにも大きく、少なくとも和平プロセスに遅れが出ていることは否めない。しかも、その後タカ派のネタニヤフが首相に選ばれるなど、国民の間では必ずしもラビンの和平プロセスが支持されていたのではないという事実があり、問題の根はかなり深い。現在、ネタニヤフ政権は、東エルサレムでのユダヤ人入植地の建設を強引に押し進めたり、ヨルダン川西岸からの部分撤退を拒んだりと、タカ派の威信を存分に発揮している。それだけに、ネタニヤフを首相に選んだようなイスラエル国民に対して不安を抱いていたのだが、このラビンの墓への参詣者の多さを見て、国民の和平を望む声が小さくないことを知り、少しだけ安心した。

 戻るような形で、丘の一番高いところまで登っていくと、作りかけの野外式典会場があった。そのときは作っている途中と思ったのだが、今から思うと、前日のすごい人のことも考え併せて、バラしているところだったかもしれない。ちょうどヘルツェルの墓石の後ろに50周年のロゴの入ったゲート状の看板があり、それを見る感じで、正面から墓石に向かって赤い絨毯が敷かれていた。また、背後には特設の観客席があった。例年ここで独立記念の行事をするということであるから、今年は何かここで大がかりなことをする(した)のであろう。しばらく見学した後、丘を下った。

 ここで突然、今日は徹底的に新市街を見ようという考えから、今回の旅行で一番行き難いと思われるエリコ(ジェリコ)を、今日の残りの時間で片付けようという考えに変わった。というのも、新市街の残りの見所は、時間の切れ端を見つけて行けばいいのだが、エリコはある程度まとまった時間が必要であるし、もしも時間切れで行けなかったということでは、あまりにも悲しすぎるからである。バスでシオン広場まで行って、一度ホテルに戻り、それからダマスカス門前のシェルート乗り場へ歩いていった。

 ところが、どうも昨日来たときと様子が違って閑散としており、俺が前を通っても声を掛ける人すらいない。いやそれどころか、客待ちをしていそうなシェルートが全然ないのである。これはどういうことかと、周辺をうろうろしていると、ダマスカス門からもう少し東のヘロデ門の方へ行った路肩に、暇そうなシェルートがたくさん停まっていた。彼らの何人かと話してみたが、今日は祝日だからシェルートはなく、タクシーで行くしかないと言う。そして、そのタクシーというのが、彼らのシェルートの車なのである。祝日はシェルートの運行が禁止されているのか、客が少なく運行が成立しないのか知らないが、とにかく走ってないということで、彼らは同じ車を使って白タクの運転手に変身して、バイトに精を出しているのである。何人かに、いくらで行ってやると声を掛けられたが、どれも高かったので、また別の日(シェルートの運行している日)に出直すことにして、ダマスカス門の前を後にした。

 ということで、当初の予定通り新市街観光をすることにした。次の目的地のイスラエル博物館は、地図を見ると歩いて行けそうだったので、街は歩くもの、という俺のポリシーに従って歩き始めた。今日は一日中そうだったのだが、空ではまるで航空ショーのように、アクロバット飛行が続いている。編隊飛行してみたり、空に50という文字とかダビデの星を描いてみたりと、いろいろなことをやっていた。そんなわけで、航空ショーを楽しみながら歩いていったのだが、思っていた以上にイスラエル博物館は遠い。汗だくになって30分以上掛かってやっと到着した。祝日で地元の人が来ているのか、開いていないところが多いから観光客が集まってしまったのか知らないが、すごい数の人がいた。

 イスラエル博物館は、メインの死海写本館をはじめ、複数の博物館からなっている。しかし、やはり一にも二にも死海写本館ということで、まずは、タマネギ型の風変わりな外観の建物に入った。内部には、1947年にクムランで見つかった旧約聖書の最古の写本が展示されていた。これらは紀元前3〜2世紀のものと推測されており、今世紀最大の考古学的発見とも言われるすごいものである。しかしながら、啓典の民(ユダヤ、キリスト、イスラムなど、旧約聖書から続く一連の啓典の流れを汲む宗教の信者)でない日本人にとって、その発見のすごさは今一つ理解できない。聖書に馴染んでいない我々には、現在彼らが親しんでいる聖書が、紀元前から存在していたことが、しっかりした巻物の形で証明されたことに対する感動を共有することは不可能なことのように思われた。

 啓典の民という言葉が出たついでに、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の関係について考えてみたい。これら3つの宗教は、成立順に不等号式でいう<の関係にある。すなわち、ユダヤ教では旧約聖書(モーゼ及びその他のユダヤの預言者)のみが聖典、キリスト教では旧約と新約聖書が聖典、イスラム教では旧約と新約とコーランが聖典となる。そこで、不等号の小(ユダヤ)から大(イスラム)の方を見るとき、あいつらは唯一の聖典である旧約聖書以外に、勝手に神の啓示だとか、預言者だとか言って偽りの教えを広めている、ということになる。一方、不等号の大から小の方を見るとき、あいつらは新たに下された神の啓示や預言者を信じない不届きな奴らだということになる。コーランでは、新たな神の啓示を信じようとしないキリスト教徒とユダヤ教徒に対する悪口と呪いの言葉が延々と書き記されている。その中には、奴らは同じ啓典の民で神についてよく知っているくせに、他民族に神の啓示が下されるわけがないと言って新しい教えを信じないという、ちょっと拗ねたような恨みっぽい文言も見受けられる。こういう場合、最初に相手を馬鹿にしたり、また、迫害する側にまわるのが不等号の小(ユダヤ)の方である。そのため、不等号の大(イスラム)の側では相手に対し、深い憎悪の念を抱くことになってしまうのである。様々な問題の根は、千年、二千年も前から続いているこういうところにもある。

 さて、死海写本館を出た後は、敷地内のモザイク画の展示を見たりしただけで、他の博物館には入らずに外へ出た。このイスラエル博物館のすぐ北側がクネセットという国会議事堂で、また、すぐ西側がヘブライ大学のキャンパスになっている。ただ、イメージとしては、ワシントンだとかキャンベラといった感じで、割とゆったり目に敷地も取ってあるので、すぐ隣と言っても、互いの広大な敷地や生い茂る木々のため、あまり建物は見えなかった。観光地にもなっているクネセットへ行こうと思ったのだが、そこへ通じる道は車道が通行止めになっており、兵士が警備していた。どうやら、ヘブライ大学のキャンパスにおいて、独立50周年の記念行事(アメリカのゴア副大統領などの各国首脳を招いた式典)が行われるらしく、また、国会議事堂はイスラエルの政治的なシンボルでもあるので、その分警備が厳重になっているようである。本当に昼下がりののどかな雰囲気が漂っているのだが、現実だけはそうもいかないようである。

 車はクネセットの方へは行けないようだったが、人は別にいいようだったので、車の通っていない広い道を歩いた。ところが、クネセットの入り口まで行くと、ここにも兵士が厳重に警備しており、聞いてみると今日は観光客は入れないようである。仕方なく、クネセットに隣接する公園に、人々がたくさんいたので行ってみることにした。多くの地元住民が、休日をアウトドアで楽しもうとして、バーベキューやら何やらいろいろなことをやっている。しばらく彼らを眺めていたが、ちょうどそこからクネセットの建物を見ることもできたので、少しだけ得したような気分になった。十分に疲れを癒やした後、バスに乗ってヤッフォ通りまで戻ってきた。今日の予定の箇所はすべて見終わったのだが、まだ時刻は午後2時前である。明日以降に行く予定だったシオンの丘へいくことにした。

 旧市街の城壁に沿って南へと歩くと、現代のメインゲートであるヤッフォ門が見えてきた。しかし、中に入りたい気持ちをぐっと抑えて、その前を通り過ぎた。やはり、エルサレム入城は、それなりの心の準備が必要だと思ったからである。ヤッフォ門を過ぎてそのまま南へ歩き、城壁の南西角を東へ曲がったところがシオンの丘である。丘というからには、高みに登るのかと思ったのだが、高さ自体は城壁と変わらない。ただ、城壁に接している北側以外は落ち込んでおり、特に大きく落ちている南側のヒンノムの谷から見れば、ここも立派な丘なのであろう。エルサレムの街は本当にでこぼこなので、その辺が非常に分かりづらい。シオンの丘の狭いがとても整然とした路地を歩いていると、突如、正面に大きく美しい教会が見えてきた。おそらくマリア永眠教会であろう。雄大なベージュの尖り屋根からは、おとぎの国のお城をイメージさせられた。

 ところで、なぜキリスト教は、イエスとともに聖母マリアに信仰の対象としての神性を見いだしているのであろうか。そういうことを考えると、キリスト教とは実に変わった宗教であるように思えてくる。ブッダはもちろんのこと、同じ一神教のマホメットにしても、生母の神性はない。勝手な考えだが、キリスト教を考えるヒントが、聖母マリアという存在にあるのではないだろうか。8世紀の教会分裂の原因となった、東ローマ帝国の出した聖像禁止令からも分かるように、元来キリスト教は、現在のイスラム教と同じく、偶像崇拝を厳しく排除してきていた。ところが、主にヨーロッパ地域において、土着の原始宗教の名残からか、マリア像を祀る習慣が生まれ、やがてそれが蔓延していき(そのため東ローマは聖像禁止令を出したが、ローマ教会にとっては信者獲得のため聖像は必要だった)、ついには聖像が信仰の重要なツールとなって、現在に至っているのである。例えばの話だが、聖像の容認がなければ、ダビンチもミケランジェロもなかったであろう。

 砂漠の宗教というものは、イスラムにせよ、ユダヤにせよ、その厳しい自然を反映して、実に厳しい教義を持っている。ユダヤとイスラムと同根のキリスト教も当初はその例外ではなかった。しかし、ヨーロッパの穏やかな自然の中で暮らす民に信仰を広めるためには、砂漠の宗教のままでは、彼らにとって毒性が強すぎてとてもついていけないので、そこから脱皮し、偶像崇拝を容認するなど、土着のアニミズムを取り入れることが絶対に必要だったのである。そこで、聖母マリアを祀ることが前面に押し出され、それが厳しい教えを包むオブラートの役割を果たしたのではないだろうか。要するに聖母マリアは、ヨーロッパキリスト教(現在のキリスト教)そのものなのである。

 以上が、独断と偏見のキリスト教におけるマリアの役割である。肝心のマリア永眠教会について、その内部の様子はほとんど覚えていない。思い出せたのは、巡礼団の大群が外で説明を受けている隙に、さっと一通り見学したことだけである。マリア永眠教会の後は、シオン門のところを通って、ダビデ王の墓へと向かった。地図で見るともう少し遠いように思えたのだが、意外と近く、ちょうどマリア永眠教会の裏手までぐるっと回った位置にあった。入り口の辺に座っていたおやじに促されて、入ってすぐ右側の部屋に入ると、記帳簿が置かれており、ここに名前を書いていくらか出すように言われた。歩き方にいくらか献金が必要と書いてあったので従ったが、どうも献金というよりは強奪されたように感じられて、あまりいい気持ちではなかった。少し行った奥まった部屋にダビデ王の石棺があった。棺は鉄柵で仕切られた向こう側にあり、ダビデの星が刺繍された緑色の布で覆われている。その前で声を出しながら熱心に祈っている女性がおり、とても印象的だった。

 ダビデは紀元前11〜10世紀のユダヤ民族の偉大な王であり、同時にキリスト、イスラムの両徒にとっても尊敬すべき大王である。彼はエルサレムの街を築き、ヨルダン・シリアを版図とする大ユダヤ民族国家を打ち立てた。また、その子ソロモン王の時には神殿が築かれ(第一神殿時代、ここからバビロン捕囚まで)、ソロモンの栄華とも言われた繁栄を作り出している。このように、ダビデ王の墓というのはユダヤ民族にとって誇るべき場所であることから、嘆きの壁に立ち入りできなかった1948年から1967年までの間、それに代わるユダヤ人最大の聖地となっており、今でも多くのユダヤ人が訪れている。

 ダビデ王の墓の次は、最後の晩餐が行われた部屋へ行った。ダビデ王の墓のすぐ裏の建物の2階にあったその部屋は、本当に何もなく実に殺風景(以前はモスクとして使われていたためか)である。あとは自分で想像しろということなのだろうか。それにしても、だいたい誰がここで最後の晩餐が行われたと決めたのか。まあ、そんな無粋なことを言っていると、イスラエル中のキリスト関連の旧跡は全く意味がなくなってしまうだろうから、取りあえずはここで最後の晩餐が行われたと信じて、この部屋を見るしかないのだが。とは言え、そのような疑問が頭の中で渦巻いていたため、特に感じるものもないまま外へ出た。

 シオンの丘をヒンノムの谷の方へ下ったところにある鶏鳴教会へと向かった。鶏鳴というと瞬間的に鶏鳴狗盗を思い出すが、こちらの鶏鳴は、最後の晩餐の夜、イエスがペテロに「鶏が2度鳴く間に、お前は3度私を知らないというだろう」と告げ、その時ペテロは否定したものの実際そのとおりになった、という故事に由来している。その、キリストを知らないと嘘をついたのがここの庭とされており、また、キリストはここの地下牢で、逮捕されてから裁きを受ける一夜を過ごしたという。現在では、1931年に建てられた立派な新しい教会があったので、その外観だけを眺めてから、本日最後の目的地で、映画でも有名になったオスカー・シンドラーの墓へと向かった。

 歩いて行ってみると、ちょうど午後3時で閉めるところだった。もちろん一般の墓地であるため(期せずして観光地になってしまったが)無料で入ることができる筈なのだが、俺が勝手に入っていこうとすると、クローズだと呼び止められた。そして、いくらかくれれば大目に見てやるようなことも言われた。その時はガイドブックに書いてあった午後5時までというのを信じていたので、さてはぼったくりの類だなと思い、頭にきて拒絶したのだが、そうしたら向こうもかなりむっとしたようで、今から閉めるから出て行けと言われ、本当に閉め始めた。彼らからすれば当然のことで、墓地の番は契約で3時までと決まっているのである。それを、時間外に見せてくれというのは、彼らに余分な労働を強いることになるため、それなりの心付けをするのがいわばマナーなのである。

 追い出された後ですべてを悟ったが、時すでに遅し。また明日来ることにしよう。しばらく荒涼とした涸れ谷であるヒンノムの谷を眺めてから、帰路についた。街の中心近くにこのような風景を持つ大都市というのもなかなかないだろうから、なかなか感動的な眺めであった。途中、ベン・イエフダ通りの近くのケンタッキーで持ち帰りのチキンを買い、ホテルへは4時に戻った。ケンタッキーの夕食を済ませ、本を読んだり明日の予定を立てたりして過ごした。シャワーの後洗濯をして、午後8時半に寝た。

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