パレスティナ歴史紀行

1998年4月29日(第5日目) 記念と記憶  エルサレム−ベツレヘム−エルサレム

 朝6時半に起床。朝食は朝7時からといっていたので下のレストランへ行くと、西洋風の豪華なバイキングである。ただ、メニューに俺の嫌いなアンチョビが2、3種類あったのが気に入らなかったが。食いだめとばかりに腹一杯詰め込んで部屋に戻った。用意をして、8時すぎに観光に出発した。

 今日はヨルダン川西岸のエリコか、これもまた西岸地域にあるベツレヘムかどちらかに行くつもりである。これらのパレスティナ自治区へは、エゲットバスも行ってないため、ガイドブックによればアラブバスか、シェルート(乗合タクシー)で行くしかないらしい。共にダマスカス門の近くにあるらしかったので、ヤッフォ通りを旧市街の方向に向かって歩き始めた。10分ほど歩くと旧市街を囲む城壁が見えてきたが、中に入りたいという気持ちをぐっと抑えて、城壁に沿って歩いた。ダマスカス門の前までやってきたときに、いきなりシェルートの勧誘に会ったが、まずはアラブバスを見てからにしようと思い、その声を振り切った。そして、ダマスカス門をすぎてしばらくいったところに、アラブバスターミナルがあったので、中に入ってうろうろしてみた。エゲットバスのターミナルに比べて、ごちゃごちゃしており汚く暗い感じがする。また、バスはどれもおんぼろである。エルサレムという街の複雑な二面性を見た思いがした。ダマスカス門周辺くらいから、東エルサレムが始まるのだが、まさにアラブそのものであり、ハイテク産業の国イスラエルに自分がいることを忘れてしまうほどである。

 さて、アラブバスターミナルをいろいろ調べてみたが、ヘブロンなどに行く便はあるものの、ベツレヘム行きは見当たらない。売店のおやじに聞いてみると、ベツレヘムへはシェルートで行けとのこと。仕方なくダマスカス門のところまで戻った。今度もすぐに声をかけられたので、ベツレヘムへ行きたい旨を告げると、道路脇に止まっているシェルートに乗せられた。すでに先客が何人か乗っており、かなり窮屈である。やがて乗客が10人くらいになり、満員になったところで出発。エルサレムから南へ10キロ、約30分でベツレヘムの街に到着した。

 ベツレヘムとは、キリスト生誕の地で、キリスト教徒にとって巡礼の最も重要な場所の一つとなっている。しかし、現在はパレスティナ自治区であり、この街に車が入るときにも、イスラエル兵による検問があった。俺の乗ったシェルートはというと、街へ入って少し行ったところでいきなり止まり、ここが終点なのか皆が次々と降り始めた。ターミナルだとか乗り場、降り場だとか、シェルートがたむろしているとか、そのようなことは一切なく、ただの道端である。正直言ってここがどこなのか、はたして本当にベツレヘムかどうかも含めて、全く分からず困ってしまった。運転手に聞いて、ベツレヘムであるということは辛うじて分かったのだが、最後に俺を降ろすとさっさとシェルートはどこかに行ってしまい、ぼやぼやしているうちに乗客も散ってしまって、ただ一人茫然とそこに取り残された。商店が立ち並ぶ大通りならまだよかったかもしれないが、民家があるだけの細い道ではどうしようもない。地図を必死に眺めたが結局よくわからず、道を尋ねる人すらいない道を適当に前方に向かって歩き始めた。後方に戻っても、街の中心らしきところは通ってこなかったから、前だろうということである。横だったら… 知らない。

 10分ほど歩くと、だんだん商店が立ち並ぶ繁華街の様相を呈してきて、やがて前方に広場と大きな教会が見えてきた。観光バスも何台か停まっている。やれやれ、多分これが聖誕教会だろう。教会の入り口は壁に小さな穴が開いているとでも形容した方がいいだろうか、とても小さく、屈まなければ入れないほどである。中へ入ると、いかにもといった感じで古めかしく、荘厳な雰囲気が漂っていた。多くの欧米人がいたが、ヨーロッパの教会と違い(カトリック総本山のヴァチカンでさえ、ただの観光客風のキリスト教徒が多かった)、誰もが神妙な面持ちであるため、自然こちらもそのような気分にさせられてしまう。また、内部には、上の方から多くの金色の器具(燭台?)が吊されており、アラブ人スークの金物屋さんのようなこってりした雰囲気も醸し出していた。このような装飾は、ヨーロッパの教会で見たことはなく、一度イスタンブールのブルーモスクで見たのみである。その中東的なこってりさと静けさが混じり合って、ヨーロッパで洗練される以前の、原始キリスト教的な実にいい味を出しているように感じた。

 この教会の地下は、伝説のとおりキリストが生まれた当時のままという洞窟になっていた。コンスタンティヌス帝の時にここが生誕の地と定められて以来、1700年近くもキリストが生まれた場所として崇められているのであるから、真偽はともあれ、それはもう立派な信仰の場所であろう。しかし団体さん(欧米人の巡礼団)が次々と降りてくるものだから、狭くて薄暗い地下室は身動きが取れないほどに人で一杯になってしまっている。こうなると物想いすることもできず、必死になって地上に脱出した。ここはギリシア正教やアルメニア正教、また、フランチェスコ会などの教会がそれぞれの礼拝堂を持つ形で渾然一体としているため、全体の構造が非常にわかりにくかったが、ぐるっとフランチェスコ会の回廊まで一通り見てから外へ出た。

 教会はちょうど丘の斜面に建てられていたため、そこからの眺めは素晴らしく、しばらく街の様子や下の方に広がる大地を堪能した。さて、そろそろエルサレムに帰ろうと思ったのだが、一体どこからシェルートに乗ればいいのだろうか。街の大通りを歩きつつ、どこかにシェルートがたむろしている場所があるはずだとキョロキョロしていると、小型の乗り合いバスのおやじから声を掛けられた。俺がエルサレムまで行きたいと言うと、乗れと言う。おかしいなぁ、エルサレムとベツレヘムの間のバスはないはずなのに。まあいいやと乗り込んだ。工事中のため、大渋滞になっている市街をやっとのことで抜けて、少し行ったところで降ろされ、ここでシェルートを待てと言われた。何だ、やっぱりか。1キロくらいの距離を、大渋滞でほとんど歩くのと変わらないスピードの市内循環バスに乗ってしまったわけだ。何か損したなあ。

 道端でエルサレム方面へ行くシェルートを待った。乗り場の標識もないので、別にどこで乗ってもいいのだろう。1本目は満員で通り過ぎていったが、2本目はほぼ満員ながら俺が手を挙げると停まってくれた。運転手の隣の前部座席に、すでに1人乗っていたのだが強引に座らされる。そして出発して間もなく、街の出口のところにある検問にさしかかった。行きはそうでもなかったのに、ベツレヘムの街を出る者に対しては結構厳重のようで、全員身分証のようなものを提示させられた。俺も仕方なくパスポートを提示した。すぐ終わると思いきや、俺の隣りに乗っているおやじが、何か身分証に不備でもあったのか、一度車から降ろされ、兵士の尋問をいろいろ受ける羽目になってしまった。10分くらいだったろうか。乗客も運転手も文句一つ垂れず、当然のように彼が戻ってくるのをじっと待っていた。 前にも書いたが、ここベツレヘムは、キリスト教の聖地という観光客に対して開かれたイメージとは裏腹に、正真正銘のパレスティナ自治区なのである。おそらく、このシェルートの乗客は、俺を除いて全員アラブ人であろう。そのような"危険"極まりない彼らが、その自治区を出て、エルサレムに向かう時には、厳重に取り締まられるべきというのが、イスラエルという国家にとっての正当性なのである。特にイスラエル建国50周年という行事を今晩にも迎えるため、今日は特にナーバスになっているのかもしれない。

 さて、彼が戻ると車はエルサレムへ向かって飛ばし始め、午前11時前には早くもダマスカス門のところまで帰ってきた。休む間もなく、祝日が始まってバスがなくなってしまう前にと、急いでエルサレムの新市街の観光に出発した。どういうことかというと、日付では明日の4月30日が独立記念日なのだが、イスラエルの一日は日没に始まるため、今夕から独立記念日の祝日に突入するわけである。旧約聖書に、"夜が来てまた朝となった"とあるため、一日の始まりは日没にあると考えられている。イブ(前夜)を大切にするキリスト教諸国の考え方の基本も、この辺にあるのかもしれない。そしてユダヤ教においては、休みの日は絶対に働いてはならないという考えが徹底しており、商店からバスに到るまで、完全に街の機能が停止してしまう。問題となるバスについては、午後に入ると徐々に本数を減らし、3時頃にすべて終了すると書かれているため、焦る必要があったわけである。

 ヤッフォ通りのバス停からバスに乗り、西郊外にあるヤド・バシェムへと向かった。途中のヘルツェルの丘で、ハイキング風の市民の集団が群がっており、バスが動かなくなってしまい大変だった。一体何だろうか。ヘルツェルとはシオニスト運動の初期のリーダーで、第1回シオニスト会議を提唱したことで有名であるため、おそらく独立50周年に関連したことであろうが、よく分からなかった。バスの方は時間がかかったが、運転手さんに教えてもらった(乗るときにヤド・バシェムに行きたいと言っておいた)バス停で降りることができた。大通りから測道をしばらく入っていくと、木々の間にヤド・バシェムの建物が見えてきた。

 ヤド・バシェムとは、聖書にも出てくる言葉で、ヘブライ語で"記念と記憶"(直訳は手と名前)を意味する。要するにホロコーストの記念館である。ユダヤ人の虐殺と言うと、ナチスばかりがクローズアップされるが、ユダヤ民族に対する迫害は中世からのヨーロッパの悪しき伝統であった。中世の初期以来、ヨーロッパのユダヤ人は、キリスト教徒にとって賤業とされた金融業を専門に商い、社会の中で特別の地位を占めるに至っていた。また、自らを選民としてキリスト教徒に対してもそのような態度で臨んでいた。それだけに世間からは、苦々しく見られており、十字軍やペストの流行の時などは大規模な迫害が起きている。やがてユダヤ人の迫害は日常化し、それまで献金などにより王侯に保護されてきたユダヤ人たちも、地域から追放されるようになった。最も早く追放されたのは、イギリス、フランス、スペインなどで、それに伴って13世紀頃からユダヤ人達の東方移住が始まっている。その東方のポーランドやリトアニアなどの諸国は、金融業に長けたユダヤ人によって経済を発展させようとして、これらを積極的に受け入れた。それ以来、東欧はユダヤ人が多く住む地域となっている。ポーランドにおいて、ナチスによるユダヤ人の惨禍が特にすさまじかったのには、こういう背景がある。ユダヤ人隔離地区として名高かったゲットーも、ナチスの専売特許ではなく、かなり前からヨーロッパの各都市に作られていた。いわばナチスはそれを復活させたにすぎない。

 しかし近代国家であるナチスドイツの行った虐殺は、以前のものとは桁が違っていた。民族殲滅計画に基づく大量の虐殺には、18世紀以降の、人権主義の流行がばかばかしくなるほどの凄まじさがある。更に横道に逸れていくが、イスラエルに来るということは、当然のように第2次世界大戦中のドイツとその占領地で起こった悲劇について考えることでもあると思うので、もう少し続けさせてもらう。なぜ、20世紀という世界史上人類がかなり進化した時期において、しかもここ数世紀世界の先進地域だったヨーロッパで、民族の大虐殺という悲劇が起こったのであろうか。なぜ、ドイツの国民はナチスの台頭を許してしまったのであろうか。様々な疑問があるが、後者の問いは簡単である。破綻していた経済を立て直し、失業者を減らし、また、自信を失っていたドイツ国民を、民族の優劣論を展開することで勇気づけたからである。衣食足りて礼節を知るという言葉があるが、路頭に迷っている人にとって、礼節も人権も何もない。ただ、職をくれる者に従うだけである。中国の英雄というのが、人々を食わせることができる者であるというのに似ている。ここで思うのは、無能な為政者よりも、思想の偏った有能な為政者の方が遙かに危険であるということである。有能な分だけ人々を煽動することに長けており、悪事の規模も大きく抜かりがない。その点、ナチスは確かに有能な組織であったかもしれない。

 そして、前者の問いに対する答えは、人そのものの本質は進化しないということではないだろうか。一人一人の人間が、多くの愚かな面を持っていることに古来変わりはないが、社会システムが進化してくると、戦争や圧政、民族の迫害など、悲劇的な事柄が起こりにくくなってくる。複雑なシステムの方々で抑止力が働くからである。ただ起こりにくくなった反面、一度起これば、整備された社会システムにより際限のない被害が生じることにもなる。例えば、ナポレオンの頃よりも第2次世界大戦の頃の方が、社会が成熟しており、戦争や虐殺などが起きにくかったと思われるが、ひとたび起きれば桁が2つ、3つ違ってくる。そして第2次世界大戦当時と現在を比べると、これまた、そのようなことの起きる確率は激減していると思われる。しかしながら、ひとたび起これば、それこそ人類滅亡ということまで考えざるを得ない状況にあるのではなかろうか。我々としては、人類の愚かさを胸に刻みつけることによって、抑止力を高めていくしかないだろう。

 さて、まずはヤド・バシェムのメインモニュメントである歴史博物館へ入った。ホロコーストに関する大量の写真や、虐殺された人々の遺品などが克明に記録されている。写真は白黒で古ぼけてはいたが、繰り返してはならない歴史をしっかりと刻みつけているように見えた。その他にもレジスタンス運動の様子や、迫害の歴史なども展示してあった。しかし、どれだけ迫害にあっても、自らのアイデンティティである宗教を捨てないという民族としての尊厳について、現代の日本人が本当の意味で理解するのは、大変難しいことに思えた。ユダヤ教徒に限らず、イスラム教徒にしてもヒンズー教徒にしても、信仰を自らのアイデンティティとしている面では、日本人にとって理解しにくいことに変わりはない。しかしながら、我々が特にユダヤ民族に対し、内面の激しさや辛抱強さを感じるのは、彼らにとって、ユダヤ教というものだけが自らのアイデンティティであったからではないかだろうか。彼らは、ユダヤ教を捨てれば、後に何も残らなかったのである。この現実の厳しさは、他民族にとって、到底足下にも及ばない。現在ではようやく彼らも、国土や国家を持ち、他の民族並に守るべきモノ(目に見えるもの)が明確になった。それまでの2000年間、彼らが唯一守るべきものだったユダヤ教は、守るべきものから、当然あるものに変わったわけである。ここら辺をしっかり考えておかないと、彼らの独立50周年の喜びが全く理解できないことになる。

 歴史博物館の次は、メモリアルホールという建物に入った。ここは、一段と低くなったスペースに、強制収容所の名前が刻み込まれた板とその横に燃え盛る炎があり、我々は手すり越しに通路から見られるようになっていた。その静けさと厳かさに対し、入った人は、宗教を問わず敬虔な祈りの気持ちにさせられる。また、ここでは入り口で、紙で作った円錐帽を配っており、我々はそれを頭に乗せて、虐殺されたユダヤ人に対して敬意を表すことが求められていた。ユダヤ教では、旧約聖書の教えにより、神に対して頭を隠さなければならない。この雰囲気では、誰もこの異教の習慣に抗うことなどできまい。

 メモリアルホールを出た後は、敷地の真ん中辺ちょっと高くなったところにある、子供たちの記憶という建物に入ってみた。いくつかの石柱が両側に並ぶ通路を下っていくと、半分地下室のようになっている建物の入り口があった。中に入ったのだが、30秒と耐えられず、そのまま入り口から出てきてしまった。というのは、内部は暗く、全面ガラス張りの不気味な部屋だったからである。それだけではなく、重苦しいスピーカーが子供の犠牲者の氏名を読み上げており、厳かというよりは身の毛もよだつような気分になってしまった。いくら鎮魂の雰囲気を出すためとはいえ、ちょっとやりすぎではないだろうか。俺だけでなく、ヨーロッパかアメリカから来たと思われる観光客のグループも、入ってすぐに入り口から出てきていたから、やはり誰が見ても気味が悪いのだろう。

 建物の中の展示品はだいたい見終わった。続いてヤド・バシェムのもう一つの見所である、敷地を囲むようにしてある、正義の人の植樹を眺めることにした。ナチスの虐殺からユダヤ人を守った世界各国の人たちを記念しており、その数ざっと1500本である。見た感じ、ポーランドが一番多く、それに次いで、ドイツ、ハンガリー、オーストリアなどが多い。最初、そんなにあるとは思わずに、オスカー・シンドラーだとか、杉原千畝さんの木を探していた。ところが、どうも予想以上に木の数が多くてなかなか見つからない。仕方なくインフォメーションで、杉原さんの植樹の位置を聞いてみた。そうしたら、木のリストのファイルを調べて、位置を記した地図にその場所までマークしてくれた。予想通り、日本人は彼一人だった。あまり有名でないのか、敷地の一番の裏手にある。地図を頼りに歩いていくと、センポ・スギハラ("ちうね"が正式だが、音読みのSempoと表記されていた)の樹は、エルサレム西側の丘陵地帯を見渡せる静かな場所にあった。

 杉原千畝氏とは、岐阜県八百津町出身の外交官である。彼はリトアニア領事時代、ナチスに追われてバルト3国に逃げ込んでいたユダヤ人に対し、本国政府の意向(同盟国ドイツの邪魔をしない方針だった)を無視して、日本の通過ビザを出し続けた人物として名高い。それにより、約6000人のユダヤ人が日本経由でアメリカなどに亡命できたと言われている。同じ日本人として、シンドラーのように有名ではないにせよ、このような人物がいたことを誇りに思う。

 さて、時刻は午後1時前、ヤド・バシェムを出た後は、とりあえず先程来るときにすごい人だった、ヘルツェルの丘へと向かった。ヤド・バシェムから少し戻る感じで、すぐ隣りにあるヘルツェルの丘に入ろうとしたのだが、独立記念式典の関係か入り口付近は兵士ばかりで、どうも閉まっているようだった。仕方ないから、余裕があればまた別の日にでも来ようと思い、ひとまずヘルツェルの丘を後にした。

 ここから更に郊外へと歩いていったところにある第二神殿時代の模型を見るため、ホーリーランドホテルへと向かった。地元の考古学者によって復元された、第二神殿時代(紀元前6世紀のバビロン捕囚の解放から紀元70年のローマによるエルサレム陥落まで)の50分の1の模型が、ホーリーランドホテルの庭に作られており、当時の様子をよく伝えているという。ところが、地図が粗末だったため、迷いに迷ってしまった。エルサレムの街は、無数の丘と谷から成っているため、道がくねくねと曲がっており、歩いていても方向感覚を維持するのが難しい。また、地球の歩き方にエルサレム西郊外の手書き間略地図が載っているのだが、これが簡略すぎて、ほとんど役に立たない。最初はある程度間略地図に頼って歩いていたのだが、とうとう自分がどこにいるのか全く分からなくなってしまったので、道行く人(郊外の住宅街で人通りは少なかったが)に聞きまくった。何とか1時間も掛かってホーリーランドホテルに到着することができた。模型は、本物のエルサレムストーンを使った精巧なものであるため、膝を屈めて視点を下げると思わず自分が古代エルサレムに立っているような気分になってくる。まだ旧市街へ入っていないので、旧市街を散策するのがますます楽しみになってきた。

 しばらくイエスの頃を思ったりしながら眺めた後、外へ出た。さて、今日の観光はこれくらいにしてホテルへ帰ることにしたのだが、一つ焦らなければならないことがあった。それは前にも書いたとおり、祝日の前日ということで、3時にもバスが終わってしまうかもしれないのである。すでに時刻は2時半である。半分、ホテルまで歩かなければならないかもと覚悟を決めて、それでも急げば何とかなるかもと歩き続けた。実はここにもバスが1路線だけ通っており、それに乗ればヤッフォ通りまでは帰れるのだが、待っていてもすでに終わっているかも知れないし、第一どちらの方向へ行くのに乗ればいいのか分からない。それよりは、ヤド・バシェムの前の大通りまで歩いた方がいいと思って歩くことにしたわけである。ヤド・バシェムからは何路線も出ており、ひょっとしたら遅くまで走っているバスを捕まえられるかもしれない。少しでも早く行こうと近道を通ったつもりが、行き止まりでまた引き返したりと、大きくロスをしつつも、行きと同じ道を汗をかきながら歩いた。この時期のエルサレムはすでに30度を越えており、しかも坂道でかなりつらかった。何とか1時間でヤド・バシェムまで戻ってきた。バスがあるか心配だったが、バス停には人が並んでいる。やれやれ、歩かなくて済みそうだわい。しばらく待つとバスが来たので乗り込み、シオン広場まで行って降りた。閉まっている店も多かったが、ホテルの近くのマクドナルドが開いていたので、昼食兼夕食を取り、午後4時に疲れ切ってホテルの部屋に戻ってきた。

 何か独立記念日のイベントをやらないかと思い、フロントで聞いたところによると、9時頃からホテルのすぐ裏手の独立公園で野外コンサートが開かれるそうである。それまでの間、部屋で寝っ転がって休んだり、シャワーを浴びたり、本を読んだりして過ごした。そして午後9時頃再び外出して、独立公園へと向かった。公園内には、50周年のロゴマークの入った特設コンサート会場ができており、ロック、ポップス、中東風の歌など、さまざまなアーティストがそこで歌っている。最初はそれほどでもなかった観客も、午後10時近くになるとかなり多くなってきて、盛り上がりも大変なものになってきた。欧米風の若者に囲まれながら、コンサート特有の陶酔感に酔っていると、あの危険極まりないと一般的に思われているイスラエルにいることが信じられなくなってきた。少なくとも、日本にいるときには考えられなかったことである。独立公園の他に、ベン・イエフダ通りにも行ってみたのだが、こちらの盛り上がりは更に凄まじかった。通りは人で埋め尽くされており、その中でも特に子供や若者が大騒ぎしていた。彼らは手に手に白い泡の出るスプレーを持って、それを掛け合ったり色々なところに字を書いたりして走り回っている。俺も10歳くらいのガキの集団からスプレーで字を書かれそうになったので(面白そうだから書かれてもいいかなと思ったが)慌てて逃げてきた。それはそれで、この盛り上がりは面白かったのだが、全国で行われたであろうこのバカ騒ぎを、アラブ人たちは、どのような心境で眺めているのだろうか。自分たちが盛り上がれば、それだけ相手の神経を逆撫ですることは間違いないのだから、老婆心ながら双方に対してあまりやりすぎるなよ、と心配してやりたくなった。ホテルには10時すぎに戻った。外のバカ騒ぎを聞きながら、11時前に寝た。

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